赤野工作先生『The video game with no name』読書感想文
心にぽっかり穴が開くような経験というのは誰だって避けたいものですが、そういうものにかぎってなんの前触れもなくやってくるものでして、だからこそ人はそれに出くわしたとき、どうすることもできないまま電池を抜かれたロボットみたいに、ただ立ち尽くすことしかできないのです。
ちょうど2017年2月12日、午後22時の私のように。
やっかいなことに、その少し前まで私の人生はむしろ絶頂の中にありました。
控えめにいっても、楽園にいたのです。
だからこそ、その衝撃たるや、さながら天に向かって足を伸ばそうと大きくこいだブランコの手を途中であやまって離してしまい、その先にあった鉄棒に顔面から飛び込んでしまったかのごとくです。
舞台となったのは東京の五反田駅から徒歩五分くらいの場所。
あおい書店という大きな本屋さんの前で起こりました。いえ、厳密には何も起こらなかったのです。
日付と場所を見て、もしご近所にお住まいの方がいたら、これから私が何を言おうとしているか気づかれたかもしれません。
ところであなたは、こんなことを思ったことはありませんか?
こんなことで悩んでいるのは自分だけなんじゃないだろうか。
どうして自分だけがこんなに何もうまくいかないんだろうか。
世界から見放されたような疎外感。理由のわからない焦燥感。
十代の後半、東京に出てきて一人暮らしをはじめた私の中にはその全てが渦巻いていました。
なじみのない土地を夜遅くまで歩いていると、大きな本屋さんと遭遇します。
それが、あおい書店 五反田店さんです。
さすが都会は本屋もでかいなと、中に入って目的もなく平積みされた本をながめていると、まるで自分を待っていたかのように、そのとき私が抱えていた悩みへの回答のような一冊があったのです。
思わず読みふけって、なんだかひどく救われて、その本を買って帰りました。
それからというもの私の人生において、あおい書店の存在は欠かせないものとなりました。
ほとんど毎日通って、興味のないジャンルのコーナーにもあえて飛び込んでみて、意外とそれが当たりだったりして、見聞を広めていきました。
未知なるものが未知でなくなる瞬間は、純粋な喜びをもたらしてくれます。
人生の避けて通れない側面に不安との向きあい方というものがあって、知識を吸収して知恵や知性を身につけることは間違いなく、それへの有効な対抗手段の一つでしょう。
バイトの給料日はあおい書店で何か買うルールを作っていたのですが、それは義務ではなく楽しみでした。
今でもそのルールは適用中で、毎年東京にいった際は必ずあおい書店に立ち寄っています。
そして──2017年2月12日、午後22時
いつものように東京にきていた私は五反田駅でおりて、あおい書店へと向かいました。
店の明かりがついていなかったので、営業時間を変更したのかな程度に考えていたのですが、店のシャッターに貼られていた紙を見て愕然としました。
『閉店のお知らせ』
自分がどれほどショックをうけたのか、それっぽい言葉を選んで記載するのは何だかみっともない気がするので、現実に起きたことだけをいえば、本当にしばらく立ち尽くしました。
そこはずっとあるものだと疑わなかったものが、こうもあっさりとなくなってしまったのは、きつかったです。
あとで調べてわかったのは、閉店したのは二週間前のことでした。
もう一度いいますが、ほんの少し前まで私は素晴らしい時間の中にいました。
その日をより完璧にするためにやってきたはずのあおい書店がなくなっていたのです。
人間の感情は短時間でここまで変動できるものなのかと、変な気持ちにもなりました。
そのときの私はとにかく歩きたい気持ちになり、店に一礼して、宿泊先の品川まで一時間くらい歩いて戻りました。
その一時間、買ったばかりのAir podsから買ったばかりのこの曲がずっとループしていました。
聴いてください。
『CONTINUE...?』
本屋さんが減っているそうです。
ネットショップの躍進におされてとのことです。
私は本はお店で買うほうですが、毎月Kindleでもそれなりに購入しているし、大型本などはネットで取り寄せることもあるので、本屋さんの敵ではないけれど、味方でもないのかもしれません。
このままだと、かつての自分みたいに偶然立ち寄った本屋さんで救われる経験をする人はいなくなるのかもしれませんが、少なからずそれに荷担している自分に悲しむ資格はないのかもしれません。
ネットは便利です。大好きです。だけど、実店舗だから出会える予想外の驚きみたいなものは、まだ実装されてないじゃないですか。
ただですね、実はもうそういう問題ではないのかも、という疑惑も浮かんできているのです。
去年の夏の話です。
その日、私はとつぜん上手なステーキの焼き方を知りたくなりました。
誰かの飯テロ画像を見たとかそういう理由もなく唐突にです。
グーグルで調べてもいいけど、初心者でも簡単においしく作れるような専門書を読んでみたいと思ったのでアマゾンに飛びます。
ページのトップには、集めているコミックの続刊だったり定期的に購入している水をそろそろ補充しないかといった私へのおすすめが並んでいます。
その中で異彩を放っていた一冊の本、おいしいステーキの作り方なるものがあったのです。
ドキっとしますよね。
これは間違いないと思うのですが、それまでステーキについての情報をアマゾンはもちろん、ググってもいなかったのですよ。
料理関係のことを調べたこともありません。
それなのになぜそんな完璧なタイミングでおすすめできるのでしょう?
思い当たるふしがあるとすれば、それはビッグデータです。
大勢の人に関するあらゆるデータを集積、分析して、ある人が今後どのようなものを欲しがるのか、どのような人生を歩むのかまである程度は予見できるというあれです。
例えば、ある作家の本をいつも買っているのなら、その作家の新刊なら欲しがるだろう。
これは大量のデータを扱わずとも予測可能です。
これがビッグデータになると、ある作家の本を必ず買っている、そうなるとそこから飛躍してこういうものに興味を持つようになり、そのせいである時期に風邪を引くのでそのころにはこの薬が必要になり、そこからさらに三年後にはバイクを欲しがるだろう──ということまで見えるというのです。
つまり私のデータでいうなら、こいつはほぼ毎週ゲームを買って、ライトノベルと漫画をこれだけ買って、映画の趣味はこんな感じで、たまに美少女フィギュアも買ってる。
──だったらそろそろ肉を焼きたくなるころだな、って感じで見抜かれてるんですかね。
そうなると本屋さんはピンチです。
いまどきの十代のみなさんはほぼ間違いなくスマートフォンを持って、あらゆるサービスを一つのアカウントに紐付けして、アマゾンでお買い物してるわけじゃないですか。
そうなると、かつての十代だった私のように、あることで悩みはじめても、そんなことはビッグデータさんにはお見通しなんですよ。
わかります、今のあなたに必要な一冊はこれですってピンポイントでその人に必要なものを渡してくれるようになるんですよ。あるいはもう、なってるんですよ。
これからの時代、偶然などなくなり、全ては必然──必要なものを適切なタイミングで用意してくれるようになるんです。
同じような不安を抱えている人はいくらでもいます。それが本になって平積みされるくらいなのですから。これからはそれを探す必要がなくなるのです。
だって、人はパターンのいきものなのだから。
新型のスクーターにオリンピックの金メダリストがマラソンで負けたと聞いても、それでくやしがる人はいないでしょう。
機械に人間が勝てるわけないと理解しているからです。最初からわかりきっていたことだ、むしろなぜ勝負しようとしたんだ、とまで言われるでしょう。
ところがこれが囲碁や将棋になると話は別です。
負けるとくやしいんです。
そこにあるのは人間の驕りです。
運動能力はしかなたい。やつらは機械だ。疲れないし、機能だって上だ。
でも頭脳は違うだろう。やつらは機械だ。我々人間のような柔軟で意外で豊かな想像力など持ち得ない。
そういう無意識の驕りがあるからです。
そのみっともないやつを世界のナイキ様がわざわざショートムービーにしてくれました。
こちらです。
思わず赤面してしまいますよね。
人類ポルノですよ、こんなのは。
人間すごい、人間偉い、人間かっこいい、人間気持ちいい。
誤った人間賛歌です。
こんなものを作らなければならないほど、人類は追い詰められているのです。
将棋のAIだって最初は笑われていました。それが今や立派な脅威です。
昨年トレンドになったあるものに、私は既視感を覚えました。
AIにレシピを考えさせて、それを作ろうという企画が海外で話題になっていました。
私の観測した範囲では、そのどれもが丁寧に作られた残飯だったり、人類にはまだはやい味付けというしろものでした。
つまり、まだ笑われている段階です。
囲碁の歴史は4000年以上とうたわれています。
最新の囲碁AIは数十時間のディープラーニングで、人類が4000年費やしても見つけることができなかった新たな定石を編み出したそうです。
料理の歴史も相応のものがあるでしょう。
笑っていられる時間は決して長くないのかもしれません。
未来がどうなるのか、それは誰にもわかりません。
ビッグデータだって当たりと同じかそれ以上にはずれているでしょう。
AIも思ったほどのやつじゃなかったといわれているかもしれません。
予想した通りの未来が必ずくるのなら安室奈美恵さんの新作PVは全てデジタルダンスミックスで配信されていたはずです。
本屋さんは確かに減っているみたいなのですが、時代にあわせた個性的なお店も増えてきて、しっかり利益を上げているとも聞きます。
大本であるアマゾンも実店舗を増やしていますし、片方が消えるのではなくそれぞれの長所を生かした共存関係が最善であることに間違いはないでしょう。
未来に対して決定的なことが一つあるとすれば、それは、未来とは未来について語る今この瞬間にのみ存在している概念であり、それが最も輝いているのもまた、今この瞬間だということです。
これから紹介する物語はそれに最適な一冊といえるでしょう。
こちらです。
『The video game with no name』
赤野工作先生の記念すべきデビュー作『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム』です。
えっ、いまさら? と思われましたか。
私は書きたいから書いてるんですけど、発売されて半年以上経過してますし、直木賞作家をはじめあらゆる業界の著名人から大絶賛されレビューサイトでもオール満点という本作は、もはや疑いようのない高評価作品です。
ですが、だからこそ書かなければならないこともあるのです。
これ以降はこの作品に関する二つのことを掘り下げていきたいと思います。
すなわち、本作の疑いようのない低評価ポイント、そして盗作疑惑への追及です。
申し訳ありませんが、ここから先はドレスコードと入場料が必要です。
まずはドレスコード。
正直、既に評価の定まっている作品の感想文を読みたいと思われるような奇特な方は当然、本作を読まれている方だと存じます。
でも、もしまだ『The video game with no name』を読まれていないというさらに奇特な方がいらっしゃるのだとしたら、申し訳ございませんが、読んできてください。
次に、作者である赤野工作先生は一般的には新進気鋭の新人作家さんですが、ゲーマー界隈では模範的工作員同志氏として長く活動している有名人でもあります。
これ以降のテキストには模範的工作員同志としての赤野先生の活躍についてもふれていきます。そしてその件について注釈などを入れているとテキストサイズがふくれあがるので、みなさん模範的工作員同志氏の活躍についてそれなりの知識を持っているという前提で進めていきますのでご了承ください。
それからここからが重要なのですが、本作の低評価ポイントを解説するにあたり、比較として映画『キングスマン』と『劇場版ソードアートオンライン オーディナルスケール』の終盤の重大なネタバレが入ります。
必ず両方の作品を観ておいてください。
つづいて入場料について。
このテキストを投稿日に読んでくださっている徳の高い方が世界に何人いるかわかりませんが、少なくとも今日は2018年の1月4日です。
はい。もう何も言わなくてもわかってもらえますよね。
そうです。明日1日5日は『キングスマン ゴールデンサークル』の公開初日です。
ドレスコードの時点であなたはキングスマンを鑑賞しているはずなので、当然ゴールデンサークルも観にいかれることと存じます。
一応ここはキングスマン応援アカウントなので、ゴールデンサークルはもちろん観にいくつもりだ、あるいはもう観たという方のみ、先に進んでください。
なおゴールデンサークル公開終了と同時にこれ以降のテキストは削除する予定です。
そんな人はいないと思いますけれど、キングスマン ゴールデンサークルを観ていない、観るつもりもないのにこの先に進まれてしまうと以下のような運命が待っているのでご注意ください。
それでは、はじめていきましょう。
と、その前に。
派手に読み飛ばしていないかぎり、あなたは既に5000文字以上のテキストを読んでいることになります。一定の姿勢をキープするのは目、肩、腰によくありません。
ちょっと踊りましょう。
はい、体はほぐれましたか。
つづいてもう一曲、というかもう一つ聴いてください。
本作をなぜ低評価にせざるを得ないのか、その言質と呼べるものです。
赤野先生による会見配信でございます。
一時間ちょっとありますが、ここからの文章はこれを聞いているこが前提なので、ヨガや瞑想でもしながら聞いてください。
非常に興味深くて面白いトークでもあるので、あっという間に終わるはずです。
では、どうぞ。
はい。あっという間だったでしょう。
さて、低評価の理由を語る前に、私の『The video game with no name』感のようなものを聞いてください。
私は元々、赤野先生──当時はまだ模範的工作員同志さんの配信のヘビーリスナーだったわけですが、その工作員さんが小説を書かれていると発表されて、すぐさま読んで、ああこれは事件だなと衝撃を受け、一気にレビューを書いて小説ファンコミュニティ的な場所で、とんでもないやつが出てきたから今すぐ読むべしとダイレクトマーケティングをした程度には好きです。
文章も赤野先生特有の接着力の強いテキストとでもいうべき、読みはじめたら目が離せなくなる文体も好きです。
最初の印象はカズオ・イシグロ先生の『日の名残り』に雰囲気が近いなとも思いました。
余談ですが、私がカズオ・イシグロ先生を読むきっかけになったのはノーベル賞ではなく、バーナード嬢曰く。の影響です。
個々のエピソードも大好きですよ。
優れた物語──物語にかぎらず優れた表現って呼応してくるじゃないですか。
おいしい料理を食べたり、好きな音楽を聴いてると、ふと、あの日のことだったり、あのときの感覚を思い出したりして、それがちょっと嬉しくなったりするじゃないですか。
The video game with no nameにはその成分が多いんですよ。
本当に些細な描写だったり、言葉だったり、作品内の作品への考察だったり、その何気ない一つ一つに、何度も何度も自分を見つけてしまうのです。
作品にゆさぶられる体験。
私はこの本を読んでいるときに例の赤鬼より泣いてますからね。
『The video game with no name』はまだ正当な評価を受けていないと感じます。
もっともっと評価されるべきです。
海外でも出版が決定しているそうで、案外、海の向こうで大きな賞をとるのではないかなと信じています。
ところでお前、低評価の話はどこにいったんだ。
あれか、けなすと見せかけて持ち上げるパターンか?
そうではありません。
以上が本作に対する私の高評価意見です。
ここから先は低評価パートがはじまります。
まずはCMをどうぞ。
SNSにこれといって興味のない私もツイッターはやってるんですよ。
はじめた理由は今でも覚えています。ラー油さんが東京ゲームショウのリポートをツイッターで配信するというので、それをリアルタイムで受信したかったのでアカウントを作ったんですよ。
そういえばこのnoteのアカウントもラー油さんがここでこれまでと違うタイプの記事を書く実験をする的なことをおっしゃっていたので、作りました。
ありがとう、ラー油さん。
それでツイッターの話に戻るのですが、大勢の人が利用しているサービスですよね。
その中に、私がよく聞いているラジオの名物ハガキ職人さんのアカウントがあると知り、きっと面白いことをたくさんつぶやいているんだろうなと思い、検索してみたんですよ。
今思えば、するべきではありませんでした。
そのハガキ職人さんが普段どんなことをつぶやいていたか極限までソフトな表現でいうと、ファミマガのウソ技を連投されていたのですね。
ラジオではあれだけユーモアとセンスあるネタを披露できる方が、どうしてここまで偏見と悪意に満ちた言葉をつぶやけるのか、もしかしてニセモノなのではと思ってもみたのですが、残念ながらご本人で間違いないようでした。
とはいえこれは私にも問題があって、勝手に自分の中で理想を作り上げ、それを相手に押しつけて、いざ会ってみたら相手が理想通りではなかったから失望するなんて、そんなの相手にとってはいい迷惑じゃないですか。
とはいえそれでも、こういうことができる人はこうであってほしいという希望を持っていてもいいじゃないですか。
それをうらぎられたら悲しいじゃないですか。
私の『The video game with no name』への低評価ポイントもそれなんです。
勝手な理想に相手が応えてくれなかったから勝手に頭にきてるだけなんです。
でも同時に、どうしてみんなここを指摘しないのか不思議でしかたないんです。
みなさんご存じですよね。『The video game with no name』は、どんな物語ですか?
赤野先生への好感度や世間の評価は忘れて、あえて純粋にうわべだけを見て下さい。
SFというジャンルも無視してください。
そこに残ったのは架空の物語と、でも確かにそことつながっている現在との物語ですよね。
緻密に構成された、伏線の物語ですよね。
しかしですね、みなさん。この物語、非常に大きな伏線を回収していない──どころか、無視してるんですよ。
会見配信の内容を思い出してください。
あるいは書籍化決定当時の赤野先生のツイッターを思い出してください。
私はそれを聞いて、見て、ある確信を持ちました。
なるほどこれは書籍版でこの大きな伏線を回収するつもりなんだなと、にやりとしました。
だから書籍版を購入してまず最初にしたことは、最初のページをよく見ることでした。
どうやらそこにはなかったので最後のページを確認しました。
そこにもなかったのでカバーをはずしてみました。
そこにもなかったのでKindle版を買って単語検索である言葉を探しました。
それでもなかったので、とりあえず一通り読みました。
結論として、赤野先生は自ら提示したあの伏線を回収していなかったのです。
私の中で音が聞こえるほど『The video game with no name』の評価が下がった瞬間です。
村人に話しかけたら『スクリプト解明まで仮置き』と表示されたような、未完成品をプレイさせられたような気持ちになりました。
赤野先生は世間から低評価の烙印を押された作品の魅力を再検証する活動で名を馳せた方です。
その先生の書いた作品がいきなり圧倒的な高評価で支持されているというのは何だかできすぎな印象を受けます。
でも私は世間に問いたい。
その高評価は本当に正しいのですかと。
踊りましょう。
赤野先生が未回収の伏線。
みなさんも、もうお気づきでしょう。
それは『お母さん』です。
会見配信を思い出してください。
出版が決まったことをお母様に伝えると、赤野先生のお母様は自分は作品に登場するのかと訊きます。
これはずっとずっと未来の話だからあなたはもういないんだよと赤野先生は言います。
上手く伝わらなかったようで、赤野先生のお母様は激怒します。
ツイッターでもその件について語られています。
誰だって思いますよね。
ああ、書籍版では『お母さんありがとう』的な献辞があるんだろうな、あるいはあとがきで母への感謝が述べられているんだろうなって。
そしてそれを読んだお母様が、赤野先生と廊下ですれ違った瞬間、小さく「well played」とつぶやいたら、それで伏線は回収されるじゃないですか。
物語と現実がリンクするじゃないですか。
本当にびっくりしたんですよ。献辞もあとがきもなくて。
赤野先生はお母様との件をシャツの裏表を逆に着ちゃったくらいの面白エピソードとして消化しただけなんですよ。もったいない。
といいますか、赤野先生はひどい人なんですよ。
ありがとうの一つも言えないのに、お母様を商用利用してるんですよ。
朗らかで優しい声です。
でもたぶんですけど、このCMに対して赤野先生はお母様に報酬を払ってませんよね。
赤野工作は声優にギャラを払わないんですよ。
とんでもないブラックカンパニーマンですよ。
会見配信で赤野先生はお母様にこう言われたそうです。
『主人公気取りか』と。
主人公気取りですよね、完全に。まあ間違ってはいませんよ。どう考えても主人公です。
だけどですね、世界って主人公だけでは動いてないんですよ。
本の表紙を飾る人たちだけが世界の住人ではないのです。
目立たなかったかもしれない。気づかれなかったかもしれない。
でも確かにその人はいた。その人が主人公の物語だってあった。
そういう人たちをないがしろにした結果『劇場場ソードアートオンライン オーディナルスケール』のような事件は起きてしまったのです。
でも解決方法を思い出してください。
本に短い文章を加えるだけで、救われる。
そういう世界でもあるのです。
キングスマンのラストも思い出してください。
一人の青年の成長の物語であると同時に母親を救う物語でもありましたよね。
そして最後に記されるメッセージは母への感謝です。
どうしてそれができないんですか、赤野先生。
私はそんなに変なことを言ってますか?
飛べない動物に飛べと言ってるわけじゃないんですよ。
あれだけ現実を巻き込んで物語を構築できる人が、ここ一番というときに、それをしなかったことがくやしいんですよ。
ただちょっとだけ思ったのは、本の冒頭にこれはレビューサイトのログを歴史的価値を考慮して完全収録したものであるという注釈があるので、あえて資料であることに徹したつくりなのだといえなくもないのですが、これは完全にファン目線の強引な擁護だという自覚があるので、やっぱりなんだかむずむずします。
CMのあとは盗作疑惑への追及です。
カワミスさんが撮影された一枚の写真です。よく撮れています。
ここに写っているあるものの知られざるエピソードをこれからお話ししたいと思います。
ある朝、職場についていつものようにオーダー票を見てみると、そこになんだかとても既視感のある単語が並んでいました。
『赤野工作先生へ』『ありがとうの会』
……こんなことって、あるものなのか? と驚愕したのを覚えています。
同時にこれは自分の仕事だという使命感を持ちました。
店長にこのオーダーは自分にやらせてほしいと頼みました。
あっさり了承を得ました。
スタンドフラワーの目的は基本的に誰かが誰かを祝福するためにおくるもので、指定された日時に指定されたデザインで届けるのがスタッフの仕事です。
だけど時々、仕事の範疇をこえて、スタッフの私情や思いを込めたものを作りたくなるときがあるのです。
とにかく良い素材を。花言葉を調べて自分なりのメッセージも届けよう。気づかれるわけないし、気づかれなくたっていい。完全に自己満足です。
おいお前ちょっとまて、算数できなくなったのか、値段を考えろよ──という店長の声など無視です。
少し静かにしてくれませんかね。あなたがフィリピン人のパン屋と浮気してたのがバレて、それで店の前で発狂した頭のイカれた女、またの名をあなたの奥さんの相手でもしていればいいじゃないですか。
私がそう言うと、店長は外国語教室で習得したそれなりに流暢なフィリピン語で私に何か言って去っていきました。言葉の意味はまったくわかりませんが、罵倒されているんだろうなというのはわかりました。
まあ、私が赤野先生のイベントのお花を作ったというのは完全なデマなので信じないでください。
ペラッペラの嘘ですよ、こんなものは。
嘘、嘘、嘘、疑いようがない。
すみません。
『The video game with no name』のこのネタが好きなので、どこかで適当なうそをつきたかったんです。
どのエピソードかすぐに出てこない方は今すぐ『The video game with no name』を読みなおしてください。
ちなみにこちらは数年前、赤野先生の配信が200回を迎えたときに活けたものです。
『めでたい』の字は硬筆を習っていた子に書いてもらった気がします。
文字のバランスがいいですね。
一つくらいは本当のことをいいましょう。
こっちのほうがよっぽどうそくさい話なんですけど、証拠を見せろといわれたら用意することができるので大丈夫です。
去年のゴールデンウィーク前くらいでしたかね。
一通のメールが届きました。
差出人はカクヨム編集部の方から。
本文をちらっと見ると、私に対して何かご提案があるとのことでした。
なるほど。
ついにこのときがきたかと。
これがいわゆる、あなたの作品を書籍化しませんかというやつなんですね。
胸が高鳴ります。
でもおかしいな、私カクヨムに小説投稿してないのに。
本文をよく読むと、きみが『The video game with no name』に書いたレビューを宣伝材料として使ってもいいかい、というものでした。
なるほど。
光栄なことですよ。
山ほどあるレビューの中から私の書いたものにそこそこの価値を見いだしていただいて赤野先生のお役に立てるならすごく嬉しいですよ。
どうぞご自由にお使いくださいミリオンセラーを目指しましょうと書いて返事をおくりました。ミリオンセラーのくだりは本当に書きましたよ。本気で狙えると今でも思ってます。
しかしですね、ここに罠があったんですね。
その直後に知ったのですが、どうやらそのレビュー使用許可はレビューを書いた人全員に送られているらしく、別に優秀なレビューだから認められたとかそういうことではなかったみたいです。
つまり私のように酔っ払った中学生みたいな勢いの返事を書いて、角川の配給していた作品とはいえアカウント名が完璧に著作物のやつなんて使えるわけないなと。
自分のなかでこれまでのことはなかったことにしていたのに、意外なかたちで結果を知ることになります。
採用されていました。
光栄の、極みですよ。
赤野先生のデビュー作の帯に自分の推薦文が載ったんですよ。
一生自慢できます。
本当はここで終わりにしたいんですよ。
今なら間違いなくハッピーエンドです。
でも、書かないわけにはいかないのです。
だからはじめましょう。赤野工作、盗作疑惑について。
その前に散歩でもしませんか。
『The video game with no name』とは何か?
赤野工作とは、何者なのか?
そして彼は何を盗んだのか?
その全てを的確に示した雄弁なツイートが水原滝さんのつぶやかれたこちらです。
おわかりいただけたと思います。
完全にパクってますよね。
私のように作家を目指しているのに何年も結果を出せてないやつが日々妄想している完璧なデビューシチュエーションを完璧にパクってますよね。
狭いアパートの一室。夢を追いかけても結果を出せずにくすぶっている女子大生がこんなことを言います。
壁がある。
「ある程度まで行った所に、めちゃくちゃ硬くて厚い壁があるんだ」
「どれくらいの厚さかもわからない壁が……」
「それをどうにかするために皆、切磋琢磨してんだ」
「でも時々、天才と呼ばれるやつが現れて」
「いともあっさりと壁を越えていく」
「もしかしたらそいつらは最初から壁の向こうに生まれるのかもしれない」
「そう思うとアホらしくなってくるわな」
いわずと知れた永遠のベストセラー、石黒正数先生の『ネムルバカ』からの引用です。
その石黒先生に表紙を描いてもらってるんですよ。
できすぎじゃないですか。
さらに帯の推薦文はあの志倉千代丸さんって、もうわけがわからないじゃないですか。
いっておきますけど、私だって去年開催されたNEW GAME!のイベントでまわりのみんながキャラクターの等身大パネルや声優さんのサインを撮影するなか、一人だけ志倉さんからのスタンドフラワーを撮影してたくらいのシクラニストですからね。
そりゃ嫉妬しますよ。
赤野先生、朝起きたらグレゴール・ザムザにでもなってないかなあ、くらいは思いますよ。
書籍化するって聞いたときは、当然だろうと思ったし、ものすごく嬉しかったと同時に自分のなかのみにくい感情が暴れ出したのは否定しません。
大量のみにくい感情たちを一人の良心が必死におさえつけてたんですよ。
イメージ映像
他にも渡辺浩弐さんと対談したり、桃井はるこさんの作品に登場したりしてるじゃないですか。
赤野先生、配信で桃井はるこさんと結婚するのが夢だとおっしゃってましたけど、もはや結婚以上の状態じゃないですか。
その人が好きすぎて付き合いたいを超越してその人から生まれたいという意味のスラングで『バブみを感じてオギャる』というものがありますが、完全にオギャってるじゃないですか。
完全に敗者の愚痴なんですけど、こういう他愛ないテキストを一時期カクヨムにいくつか投稿してたんですよ。
数ヶ月たったあるとき、そういえば何人くらいの人が読んでくれているのかなと気になってアクセス数をチェックしてみたんですよ。五人くらかなと思っていたんですよ。
0人でしたね。
諸説ありますが、インド人が発明したという人気の高い数字です。
例えば今ここで書いてる読書感想文は読者数0でもかまわないんですよ。
誰かに読んでもらおうと思って書いてないので。壁に向かって話してる状態でいいんです。
ところがですね、これ本当にいま知って驚いたことにnoteってアクセス数をチェックする項目はないと思っていたのですが、あったので見てみたんですよ。
自分は何度か見てるし、もしかしたら奇特な方が読んでくれてるかもしれないので今度こそ5はあるかなと思ったんですよ。
3000アクセス以上あるんですよ。
どの感想文も500から800くらい読まれてるんですよ。
どうやら私はここだと500人には刺さるものが書けているようです。
みなさん、いるならいるって言ってくださいよ。
本当に誰にも読まれてる自覚がなかったので今月の予定とか貼ってたのに。
一番上までスクロールしたら日付が見えるのでわかると思いますが、この感想文は去年の夏から書いてたんですよ。いろいろあってここまで遅れたんですけど。
今でこそ書き出しは五反田の本屋さんの閉店の話ですけど、初期のバージョンは生まれてはじめてラー油さんのゲームレビューを読んだとき嫉妬で死にかけた話でしたからね。
そのバージョンも150人くらいのアンバサダーの方に読まれています。
去年は本当にいろいろあって、どんな一年だったのかiPhoneが教えてくれました。
これがiPhoneさんの選ぶ私の2017年ベストだそうです。
『The video game with no name』発売と秋葉原でなんとなく撮影した景色とカレーとお花です。
100枚くらいは撮影したと思うんですけど、なぜこのチョイスなんでしょうか。
あながち間違ってないので何も言い返せません。
ちなみに去年最後に保存した画像がこちらです。
この写真にあてはまる四文字熟語を選びなさい。
1.酒池肉林
2.唯我独尊
3.大願成就
4.不老不死
正解は、ぜんぶです。
そして今年最初に保存した画像がこちらです。
歴史上の偉人感ありますよね。
まあ赤野先生は間違いなく歴史の偉人コースですよね。
それこそ百年後のゲーマーにかつてこの国にE.T.や血獅を手に入れた模範的工作員同志a.k.a.赤野工作なる人物がいたらしいぞ、って騒がれて百年後のソーシャルゲームで美少女化は確定してるじゃないですか。
セーラー服に金髪ドリルで腕にパワーグローブ、額にバーチャルボーイ、背中にセガサターンで「ゲームノ未来ハ、ワタシガ守リマース!」ってよくわからない味付けされるに決まってるじゃないですか。
ここにきて急に未来が楽しみになってきましたよ。
さあ、踊りましょう。
愚痴や嫉妬から前向きな未来を招くのは難しいでしょう。
でもその二つはよく燃えるので、燃料にして前に進むことには役立ちそうです。
赤野先生のデビュー作に私の推薦文が載ったのは疑いようのない誇りです。
だから私のデビュー作には赤野先生から推薦文をいただけることを目標に新年をはじめたいと思います。
掲げたグラスが今はからっぽだったとしても、いつかそこに祝福をそそげるように。
最後にこの曲を聴いてください。
『The video game with no name』オリジナルサウンドトラックより
『Here's to us』
There is nothing noble in being superior to your fellow man
True nobility is being superior to your former self
(人より優れていても気高くはない。真の気高さとは過去の自分をこえることだ)
映画『キングスマン』より
最後まで読んでいただいて本当にありがとうございました。
五年ほど前、ソードアートオンラインみたいな話を書きたいなと思ってあれこれ考えてたんですよ。
そのときふと赤野先生の配信を思い出して、低評価のゲームをどうしても真剣にプレイせざるを得ない舞台で起こる話っていうのは、それなりに新しくて面白いのではないかなとひらめいて書いたのがこちらです。
こちらは今書いているもので、ラー油さんのゲームレビューから着想を得た物語です。
でも思ったんですけど、やっぱり赤野先生はどこかおかしいじゃないですか。
ある日、ひょっこり現れてこれまでと違う価値観を提唱して、それで成功して、成功に成功を重ねてるじゃないですか。
ねえ、みなさん。
こういうタイプの人に既視感を覚えませんか?
そうです──異世界転生人です。
赤野先生=異世界人と考えたらあらゆる疑問に説明がつくんですよ。
異世界人じゃないとしたら前世の記憶を維持した状態で二周目の人生という可能性もなくはありませんが、それは科学的ではないので、やはり異世界人でしょう。
証拠はありますよ。
赤野先生はイベント等では顔を包帯で巻いて容姿をわからなくしてるじゃないですか。
これはつまり、顔を見られたら一発で異世界人だとバレるからなんでしょ?
エルフなんですよね。
金髪碧眼で二等辺三角形の定規みたいな耳をしてるんですよね。
今から約300年前、異世界で異世界トラックと衝突した赤野先生(エルフ)はこの地球という星に飛ばされてきました。
運悪く赤ずきんちゃんのおばあちゃんの家に激突して、おばあちゃんを亡き者にしてしまいました。
それから間もなく赤ずきんちゃんがやってきました。
ねえ、おばあちゃん、おばあちゃんのお耳、そんなに尖ってた?
説明が面倒だったので赤野先生は偶然手にしていたヘビィマスゥイングワン(メタルスラッグ的表現)で赤ずきんちゃんにヘッドショットをきめます。
ところが赤ずきんちゃんはこれからお絵かきの教室があるようで、ここにいかないと周囲に怪しまれてしまいます。
しかたなく赤野先生は今度は赤ずきんちゃんに扮装してお絵かき教室に向かいます。
お絵かき教室では、みんな困っていました。
どうしたんです? と赤野先生はたずねます。
おお、赤ずきんか、大変なんだよ、と大人は言います。
イジワルな絵の具屋がぶどう色の絵の具を売ってくれないんだ。このままだと絵画コンクールで失格になってしまう。と頭を抱えます。
赤野先生は教室にある絵の具に目を向けます。そしてこう言います。
だったらこうすればいいんじゃないですか?
おもむろに赤と青の絵の具を取り出し、混ぜます。
何をするんだ、赤ずきん! 教室は大騒ぎ。
リンゴ色の絵の具と空色の絵の具を混ぜてどうするつもりだ!
なんてもったいないことを。絵の具は高級品なんだぞ!
しかし、パレットの中で色を変えていく絵の具を見て、周囲の反応は変化します。
これは一体……どういうことだ。
パレットの中で、ぶどう色が生まれたぞ……どうして?
説明してくれ、赤ずきん、これは何だ? 魔法か?
別に魔法じゃなくて色を混ぜることで反射する色が変わるただの化学反応だけど、そういうメカニズムを知らないと、確かに魔法にみえるのかもしれませんね。
教室中の異世界人(地球人)たちが赤ずきん(赤野先生)に尊敬のまなざしを向けます。
あの、ついでにもう一つ聞いてもいいですか?
おう何でも聞いてくれ赤ずきん。お前はこの教室の英雄だ。
教室に入ったときから気になったんですけど、どうしてみんな左手で絵を描いているんですか? 半分以上の生徒は描きにくそうにしてますが。
──? 今日のお前は本当に不思議なことばかり言うな。絵は左手で描くものだろ? 昔からそういうしきたりだ。
(……やれやれ、この様子だとどうやら『利き腕』についても説明が必要みたいだな)
こうして赤野先生の異世界(地球)無双スローライフがはじまったのです。
そんな赤野先生の最新情報がこちらです。
それではご覧ください。
世界中の作家になりたいのになれてない人たちが赤野先生へのくやしさで頭を爆破していく様を。最後に出てくるのが私です。
こんなところまで読んでくれて、本当にありがとうございます。
せんえつながら、架空のゲームレビューを書かせていただきました。
よろしければ、はじめての読者になってください。
よろしくお願いします。
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