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loundraw監督と三秋縋先生『夢が覚めるまで』読書感想文

二年前、ツイッターでとある女子高生さんのつぶやきが話題になりました。
近所に住んでいる男性が自分の自転車のサドルをなめているという衝撃の内容です。
『妖怪サドル舐め』で検索すると件のツイートが画像付きで出てはきますけれども、見ていてうっとりするようなものでもないので推奨はしません。
ちなみに人様のサドルを許可なくなめるのは、法的に器物損壊罪に抵触するらしく、三年以下の懲役、又は、三十万円以下の罰金を払わなければならないみたなので、ご注意ください。

時間はそこから少し飛んで去年の春の話です。
わたくしごとで恐縮なんですけど、私は文房具を見るのが好きでして、特に必要というわけでもないのにお店にいって新しいペンやノート、定規にシール、封筒などを見つけてはとりあえず買っています。
その日も何か買ってお店を出るとですね、学校帰りなんですかね?
女子高生さんたちが店の前でわいわいやってるんですよ。
その文房具屋さんの前はアイスやジュースを楽しめるスペースになっているので別に違和感はありません。あるとするなら、一人の女の子が乗っている自転車についてです。
私と同じタイプだなと思ったのですが、自分の自転車がないんですよ。
あれおかしいな? 確かあの子がいるあたりに置いていた記憶があるのに……ああ、あの子が乗ってるの、私の自転車だ。
という事案が発生したのです。

困りましたね。
どうすればいいのでしょうか。
「あの、すみません、それぼくの自転車なんで、おりてもらっていいですか?」と話しかけてみたらいいんですかね?
でもそこで思ったのが、もし自分の勘違いでその自転車はその女子高生さんのもので、よく見たら自分の自転車が近くにあった場合ですよ。
事案発生ですよ。
気持ち悪い男が口から瘴気を吐きながら、うら若き乙女に言い寄ろうとしているようにしか見えないわけですよ、世間的に。
だから細心の注意を払って周囲に目を配って見たけれど、やっぱりその子が乗ってるのは私の自転車なんですよ。
坂道をのぼりやすくするために私は自転車のサドルを一番上まであげてまして、その子が乗ってる自転車のサドルも一番上まであがってまして、明らかに足の長さがあってないからその子は友達の肩をかりた状態でふらふらしながらむりやり乗ってるんですよ。
つまりそれはやはり私の自転車なんですよ──Q.E.D.証明終了。

だからさっさとおりろ、とはいえないのが人情ってもんでして。
だって、何されるかわからないじゃないですか。
こっちは一人だけど向こうは集団ですし。
悲鳴の一つでもあげられた日にはこっちの人生がゲームオーバーですよ。

理不尽だと思うんですよ。
例えば私が勝手に女子高生の自転車に乗ってたら、間違いなく撮影されてなんらかの妖怪にされるわけじゃないですか。
妖怪サドルアザラシとか不名誉なあだ名をつけられるわけじゃないですか。
でも私が女子高生を撮影して、妖怪サドル娘とか名付けてつぶやいたら、たぶん私が怒られるイメージありませんか?
肖像権の侵害だとか、なんやかんやいわれる気がするのは気のせいじゃない気がするんですよ。
私はプロの根性なしで疑心暗鬼の有段者なのでそう思ってるだけなんでしょうか。

おとなしく自動販売機のすみっこでびくびくしてたらやっと帰ってくれて、久しぶりの相棒との対面と相成ったわけですよ。
そこで思ったんですよ。
このサドルは私、なめてもいいんですよね?
だって私のサドルですし。
サドル舐め先輩が法に抵触したのは人様のサドルをなめたからでしょ?
これは私のサドルですからね。別に私、サドルなめるのそこまで嫌いじゃありませんし。
でもそこでピンときたんですよ。これ、罠なんじゃないかなって。

数ヶ月前にどこかの男性(サドル舐め先輩)が女子高生のサドルをなめて、その姿を拡散されたのはなんとなく覚えてましたから、あれを再現しようとしているんじゃないだろうかと。
お前が深淵を覗くならば、深淵もまた等しくお前を見返すのだ。という有名な言葉があります。
つまり、私が女子高生を見ていたように、女子高生も私をどこかで監視しているのです。
女子高生たちは草葉の陰から私がサドルをなめるのを今か今かとスマホをかまえて待ってるんじゃないかなって気がしてくるんですよ。
悪い想像って雪だるま式にふくらんでいくじゃないですか。
もう私の中で、今このサドルをなめたら確実に盗撮されたのちにツイッターで拡散されるという妄想は現実として確定していたので、さすがにやめようという結論に至りました。
普通に乗って帰ればいいんです。最初からそうするべきでした。なのでサドルに腰をおろそうかと思った次の瞬間、何かが心に引っかかるのです。
待てよ、実はこれも罠なんじゃないかって。

ここで油断してサドルにまたがろうものならですよ、間違いなくその様子を撮影されて『私がさっきまで乗ってた自転車に乗られた。無理やり間接ヒップされた』とかなんとかツイートされて2万回くらいリツイートされて、私の個人情報はバラまかれ、職場には頼んでもない寿司やピザがひっきりなしに届けられ、最終的にSWATが突入してくるのです。
あわてて自転車から距離をおきました。
あやうく人生が終了するところでした。
疑心暗鬼も有段者になると、これくらいのことは当然危惧しますよ。

それでどうしようかと頭を悩ませていると、鞄の中に除菌加工のされたウェットティッシュがあることを思い出して、これみよがしにおおげさに取り出して、誰かに見せつけるように丁寧にサドルをふきました。
これで女子高生の痕跡は跡形もなく消滅しました。
もはやこのサドルをなめても私のベロが綺麗になるだけです。
どこかで発生した凶悪事件解決の手がかりに、私の自転車に座っていた少女のスカートに付着していた何らかの物質が必要だった場合、私は証拠隠滅の罪に問われるかもしれませんが、サドルを拭わなかった場合もなにかしらの罪に問われそうだったのでしかたありません。

やっとの思いで自転車に乗ってペダルをこいでいると少しずつ頭の中の霧が晴れてきて、こんな考えがよぎりました。
もしかして、前提が違っていたのではないだろうかと。
私が買い物をしている間、どこかの女子高生が私の自転車に乗っていました。
ここで私は無意識に『文房具屋さんに着くと店の前に乗り心地のよさそうな自転車があったから勝手に乗ってみた』という少女の行動を都合よく補完していました。
しかし、そうではなかったのだとしたら。
少女は最初から私の姿も確認しており、それを承知でサドルにまたがったのだとしたらどうでしょう。
あのひき逃げされたマッシュポテトみたいな顔したいかにも低学歴のキモオタの乗っていた自転車に、この県内でトップクラスの進学校に通い、成績は常にトップで上級生からも同級生からも下級生からも男女問わず愛されている私が、この私が今まさに腰をおろしている……ああ、スカート越しのあの男の瘴気を感じる……。
──という性癖の持ち主であった可能性もゼロではないのではないでしょうか。
ぜひそういうヒロインの登場する物語を押見修造先生かピクサーに描いていただきたいです。
ピクサーといえば、ジョン・ラセターがセクハラで訴えられてましたね。
尊敬していたのでショックです。
権力持ってるからといって、相手の尊厳を傷つけるような行為に手を出すと、キャリアの絶頂ともいえるタイミングで全てを失うアプリケーションソフトが人生にはプリインストールされているので、あなたはそんなことをしてはいけませんよ。

サドルの話をもう少しつづけていいですか。
実はこれもしかして根本的に自分が何か勘違いしているのではと思えることがありまして。
というのもですね、女子高生にかぎらず私の自転車ってよく勝手に乗られてるんですよ。
それこそ男子学生のときもあったし、近所のお子様から、おじいちゃんまで。
別に私、自転車から離れるとき、サドルに人をおびきよせるミツとか塗ってるわけじゃないんですよ。
持ち主が近くにいない場合にかぎり、サドルに腰をかけてもいい──みたいな法律ってありましたっけ?
あるいは私が知らないだけで、私の住んでいる一帯は『人の自転車に乗っても許される国』なんでしょうか。
だとしたら、もしかしてサドル舐め先輩は『人のサドルをなめても問題ない国』出身の人だったのかもしれません。
晒し者にされて、さぞや驚かれたことでしょう。
え? ここってモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)のサドルなめちゃダメなの? って。

人生はいつもビーフ or チキン。
選択の連続です。
牛を選べば鶏は食べられません。
そして人生における大きな選択、それはきっとこの二つに分類されるのではないでしょうか。
一つは、女子高生の座っていたサドル。それをなめるか、なめないか。
もう一つは、一人の少女を犠牲にして世界を救うか、世界を見捨てて一人の少女を救うか。
その二つです。

まずはこちらをご覧ください

先日、観客動員数100万人を突破したと発表され今もなおロングランヒット中のご存じloundraw監督の『夢が覚めるまで』です。
世界レベルのヒットといっても過言じゃないですよね。
私、仕事でたまにドイツまでいくんですけど、予定より早く仕事が片づいてけっこう時間ができたのでどうしようかと思っていたら、近くに大きめの劇場があって何か見ようかなと。
ちなみに私、ドイツ語はいっさいできません。
日本の映画で上映中だったのが『アウトレイジ』と『夢が覚めるまで』の二本でした。
ビーフ or チキンというより、七面鳥の丸焼きとフルーツパフェどっちがいいかみたいな選択肢です。
だったら七面鳥でいこうかと、夢が覚めるまでのチケットを買おうとしたんですよ。
全席ソールドアウトなんですよ。
チケット販売機の上に1から240くらいの番号のふってある座席表のパネルがあって、パネルの色が赤ならその番号の席は既に売り切れで青なら空席という具合なんですが、怒り狂った王蟲みたいにパネルがまっかっかなんですよ。
なんですかね。アウトレイジ見ろってことなんですかね。
まあしょうがないなと思っていたら、座席表の最前列壁際の一席が赤から青に変わったんですよ(実話)。
おそらくですが、作品を楽しむには適した席ではないのでもっといい場所で鑑賞したいと思った方が手放されたんでしょう。
迷わず私はそれを買いました。
お恥ずかしい話なんですけど、実は私、日本でまだ見ていなかったのでこれが初鑑賞となるんです。
確かに特等席ではないけれど、そこまで悪い席でもなかったですよ。
字幕は見づらかったんですけど、幸運なことに日本語なら少しはできるので問題なかったです。
ただちょっと困ったのが、キャラクターの喋るタイミングと字幕のタイミングって違うじゃないですか。
コメディーシーンなんかで私が笑ったあとに周囲が笑うという謎の現象が発生してしまいまして、前の席でワンテンポ早く笑ってるあいつはなんなんだと思われていたことでしょう。

ちょっと検索すれば著名な方々からのレビューがいくらでも見られるのに今さらここで感想書くのもどうかと思うんですけど、まあとにかく目を奪われる作品でした。
俺たちのバイブルことデザインとグラフィックの総合情報誌月刊MdN 2017年6月号にてloundraw監督はインタビューで自分のフィルターを持ちたいとおっしゃっていましたが、完全にloundrawフィルターと呼べるものがスクリーンで誕生していたと思います。
象徴的だったのがあの有名なラストシーン。
主人公とヒロイン、二人だけしかいない世界でかなりの長台詞のあと、急に台詞がなくなって、そこからはまばたきもできないほど膨大な景色が流れはじめ、しかもそのひとつひとつにしっかり意味がある。
これまで丁寧に見せてきた映像的な伏線を回収するかたちで、あの電柱や電車や窓が──まったく同じものを見ているはずなのに、まったく違う意味で目に映ってしまう。
あえて主人公とヒロインの顔や全体像を映さず、手や足、影だけを見せる演出には、まだたきどころか呼吸さえ忘れます。
方向性はまったく違いますがKingsmanのいわゆるChurch Fightシーンのような圧倒的な情報量にただただ唖然とするしかない。
それでも劇場内で周りの人たちが息をのむ音、涙ぐむ声なんかはしっかりと聞こえるんです。
鑑賞後しばらくしてからですけど、ああ自分は映画を見ていたんだなと脱皮したような気持ちになりました。

一曲聴いてください。できれば目を閉じて、あのシーンを思い出しながら。
映画『夢が覚めるまで』オリジナルサウンドトラックより
ラストシーンで流れるあの名曲。
『Arrival of the Birds』

やっぱり映画は映画館で見なきゃダメだなと再認識して劇場を出た、そのとき、背後に奇妙な気配を感じるんですよ。
小さな女の子の声でチャイニーズかジャパニーズみたいなこと誰かと話してるんですよ。
おそらくですけど、私の国籍を知りたがってるんだろうなというのは雰囲気で察することはできました。
日本が舞台の映画だったし、何か聞きたいことでもあるのかなと思ったのです。
とはいえ私は疑心暗鬼の黒帯ですから、そんなことでは動じないし、こちらから話しかけるほどの勇気もありません。
そうしたら突然背後から「コンニチハ!」って女の子の声が響いて、しかたなく振り向くと、十歳くらいの少女がほら見ろやっぱりこいつ日本人だったぞみたいな得意な顔してるんですよ。

「Danke für das Übersetzen」

だから私は日本語しかわからないのに……といってもはじまりそうになかったのでドイツ語を話せる同僚を呼んで、翻訳してもらいました。
少女曰く「劇中で主人公たちがおいしそうに食べていた『オコノミヤキ』なる鉄板焼きの料理は実在するのか」と。
私は「ええ、ありますよ」と。
少女は「おいしいですか」と。
私は「はい。おいしいです」と。加えて「お好み焼きで有名な広島県で、お好み焼きのことを広島焼き、といってしまうとお店によってはそこでリアルなアウトレイジ上映会が開催されることもあるので、どこのお店でも『お好み焼きをください』と注文するのが無難です」と。
少女は「わかりました。しんせつにありがとう」と。加えて「ところでバス停の近くにある日本料理屋さんでお好み焼きを食べることはできますか」と。
私は「いいえ、あそこで食べることは推奨しません」と。

ドイツのとあるバス停の近くに『よいしょ』っていう名前の自称日本料理屋があるんですよ。
はじめてそれを見たとき、せっかくだから食べてみようと思って入ったんですよ。
障子風のドアを開けると『いらっしょいまさ』って壁に彫ってあるんですよ。
まるで恋のように胸が高鳴りましたね。
「イラッシャイッセー」と明らかにどの地方の方言でもない、ネイティブな感じのしない声を元気よくあげながら50代くらいのアジア系の男性が出てきたんですよ。
「こんにちは」って私にしてはかなり珍しく元気に返したんですよ。
次の瞬間、ご主人とおぼしき男性は綺麗なムーンウォークで厨房に下がっていきました。
代わりに学生さんっぽい女性が出てきて、こちらは見てすぐに日本の人だとわかりました。
メニューを開くと『あ、ラーメン』とか『あ、カレーライス』とか、とりあえず頭に『あ、』って日本語をつけておけば和食っぽく見えるだろうという雑な演出がほどこされていました。
『あ、おいしい』というメニューもありまして、もうただの台詞です。
せっかくだから『あ、天丼』を注文してみました。
とても丸くておおきいおにぎりに醤油漬けにされた鮭のフライが刺さっているものが平べったいお皿に乗って提供されました。
笑ってはいけませんよ。
これはナポリタンだといって、ケチャップ味のパスタを出されたイタリア人の気持ち。
これはアメリカンだといって、薄味のコーヒーを出されたアメリカ人の気持ち。
海外にいけば自分の国の謎料理は出てくるものなのです。

なお、女性スタッフさんの情報では店長は中国の方だそうで、おすすめはトマト炒めとチャーハンだそうです。
元は中国で中華料理のシェフをしていたけど、日本の時代劇が凄く好きでドイツで和食レストランをすることになったんだそうです。やや設定を盛りすぎ感があります。
これで店長さんが美少女だったら間違いなく、きららファンタジアに出演できると思います。
でもどうしてちゃんとした日本語を教えないんですかとたずねると、インスタグラムで店の情報が拡散されてお店に日本人観光客がよくくるから、とのことでした。
まさかの観光客向けレストランですよ。

そういえば劇中で主人公たちがお好み焼きを食べているときに店内のBGMで流れていたのは、たぶんこの曲ですよね?
改めて聴くと歌詞と物語のリンクに気づけます。



はい。というわけで世界中で大ヒット上映中のloundraw監督の『夢が覚めるまで』です。
その『夢が覚めるまで』を三秋縋先生が小説化した本の感想をこれから書いていくのですけれども、どう語るべきかという問題にずっとぶちあたってまして、まだ答が出てないんですよ。
そもそもこの本が出た経緯がかなり特殊なんです。

勝手に書いて本にまでなってるんですよ。
美しいです。
というわけで、当然といえば当然、映画と小説の内容は異なります。
とはいえ、重なっている部分も決して少なくはありません。
これから映画を見る人だって当然いるはずなので、できるだけネタバレを回避していきたいのですが、そうなると何をどう書くべきなのか本当にわからないんですよ。
例えば世界が滅びる理由ですけど、あれは見事でした。
リアリティーと新規性の両方があったじゃないですか。
リッチモンド・ヴァレンタインが生きてたら、なるほどその手があったか! と膝を叩くと思います。
でもそれを書いていいかというと、ダメじゃないですか。
それはこれから作品を楽しむ方への妨害以外のなにものでもありませんから。
だからここはちょっと切り口を少し変えて、作家性を中心にした作品語りを展開していきたいと思います。
この小説を書いたのは三秋縋先生です。その三秋縋の作家性とは何か。
あくまで個人的な見解ですが三秋縋という作家はいつだって物語ではなく、行間を、余白を、暗転を描いてきた作家だと思うのです。

どういうことかといいますと、私がこれまで読んできた三秋縋作品は『三日間の幸福』『恋する寄生虫』『夢が覚めるまで』の三本ですが、この三作品には明確な共通点が一つあります。
主人公が停滞してるんです。

三日間の幸福の彼は大学にもいかず、髪も切らず、服も買わず、畳の上でCDを聴いてます。
恋する寄生虫の彼は本文を引用すると『聞けば誰もが首を傾げるような理由で自己都合退社した。それからほぼ一年おきに同じようなことを繰り返し、職場を転々としているうちに、ふと精神を病んだ。しかし本人に病の自覚はなく、ひどいときは呼吸さえ億劫になるほどの憂鬱も、ふとした瞬間に頭をよぎる死の誘惑も、夜中にわけもなく溢れ出る涙も、すべては冬の寒さのせいにすぎないと考えていた。』状態にあり
そして本作、夢が覚めるまでの彼は人生のエアポケットとでもいうべき場所に落ち込み、原因不明の無力感に取りつかれ、全てを放りだして自分の殻に閉じこもっています。

三者三様、見事に停滞してらっしゃいます。
そこに物語としてのわかりやすい推進力はなく、さながらそれは小説の行間であったり、漫画のコマとコマの間にある余白であったり、映画の暗転のようです。
そういった本来、誰もが通りすぎる場所にあえて足をとめ、まるでそこにしか自分の表現したいものはないかのように深く一点を見つめ、でもその姿はあまりに不可解で、話したこともないクラスメイトからそこには何もないよ心配までされたのに、それでもずっととどまりつづけて、だったらあれはなに? と、ついに一つの景色を見つけてきた人だと思うのです。

例えば、先日アーティストデビューを果たされた三秋縋先生ですが、デビューミニアルバムに収録されている『pray』という曲のサビの部分にはこうあります。

 見え透いた目的地 無様に背を向けてもたどりつく
 逃げることもできたのに 立ち止まって 「逃げおくれた」とつぶやいた
 誰もが叶えと空にかかげた願い ぼくだけが さかさまを祈った
 ぼくだけが望んでた 叶うべきではないと
 ぼくだけが知っていた 叶ってしまうこと

余白の先にある景色に気づいてしまったがゆえにぶつかってしまった誰かの物語に否応なく巻き込まれ、そこから離脱することもできたのに、立ち止まり、結果、とてつもなく自己中心的とも受け取られかねない他者への貢献に収束する。
一つ一つの作品にはそれぞれ異なる特色はあっても、実は三秋作品のストーリーラインというのは、基本的にそういう感じです。
あと三秋先生の声はちょっとエド・シーランっぽいですよね。

無責任なことを書いている自覚はあるんですよ。
作家性を云々というなら、最低限その作家の作品は全部読んでからいえよって思うじゃないですか。
読んでませんからね、全部は。
去年、ひとりぼっちの三秋祭といって三秋縋作品の全ての感想文を書こうと思っていたのですが、できませんでした。その理由は後ほど。
それに現時点ので最新作である『君の話』は上記のストーリーラインとは違う感じの仕上がりなので、だったらここまで書いてきたことは何だったんだとなってしまうわけで。

たぶんコミカライズ効果だと思うのですが、夏くらいから私の書いた恋する寄生虫の感想文のアクセス数がちょっとえぐいことになってまして。
連日たくさんのアクセス、本当にありがとうございます。
数ある恋する寄生虫の感想文のなかでも、だんとつで価値がないと断言できるので、もっといいサイトにめぐりあえますように。

恋する寄生虫の感想文で書いてますけど、マイファースト三秋作品は恋する寄生虫ではなく三日間の幸福で、実は恋する寄生虫の感想文を書く前に、三日間の幸福の感想文を書いてたんですけど、なぜ掲載していないかというと、そんなの誰も読まないからというより、書きたいことの一割くらいを書いた時点での文字数が3万文字をこえてしまい、なおかつ日常のふとしたことで、書き足したいことが増えていって、ゴールが見えなくなったからです。
3万文字がどのくらいかといいますと、この感想文全体の文字数がおよそ30900文字なので、だいたいこれくらいだとお考えください。

単純計算、順調に三日間の幸福の感想文が書き上がったとすれば、そこには三十万の文字列があるわけです。
しかも困ったことに三日間の幸福の感想文には好きな声優さんのライブチケットを入手できなかったとか女子高生に自転車を寝取られたといったネタ要素は入ってないんです。
真面目にひたすら三十万文字です。
しかたありません、それだけいるんです。
魔法科高校の劣等生の巻末の推薦文で川原礫先生が魔法科高校を語らせたいなら二万文字よこせって書いてたじゃないですか。
あれは誇張でいってるわけではなく、その作品について過不足なく語るには本当にそれくらい必要だからなんです。
だから、これは、科学的根拠のある数字なんです。
三日間の幸福を語るには三十万文字必要なんです。
三日間の幸福が映画になって愛蔵版のハードカバーとか出たら私に解説を書かせてもらえないでしょうか。
これに関しては相手が村上春樹だろうがジャック・ケルアックだろうが勝てますよ。
私の書くものが誰より的確で何より美しく最も正しい。
なお、現時点で確認されている一番秀逸な三日間の幸福語りがこちらです。

なんでさっきから三日間の幸福の話をしているのでしょうか。
今回のテーマは『夢が覚めるまで』ですよね。
せっかくなのでここでloundraw監督に登場していただきましょう。
ご覧ください、みなさま。
loundraw監督とloundraw監督とloundraw監督とloundraw監督とloundraw監督とloundraw監督とloundraw監督とloundraw監督とloundraw監督です。

こちらの九人のloundraw監督
またの名は『イミテーションと極彩色のグレー』です。

説明不要とは思いますが『イミテーションと極彩色のグレー』とはダ・ヴィンチ 2018年 2月号から10月号まで連載されていたloundraw監督の小説です。
『夢が覚めるまで』の話をするといっておきながら三行で別の作品の話になってしまっています。ただ、これにはちゃんとした理由があるのです。
みなさん当然、紳士淑女のたしなみとしてダ・ヴィンチは定期購読されてイミテーションと極彩色のグレーは全話読まれているとは思いますけれども、せっかくなので軽くおさらいをしておきましょうか。

イミテーションと極彩色のグレー
第1回 side.山浦大志 Ep.1「アンバーデイズ」
人生に意義を見いだせずにいた中学生の少年、山浦君はある日、カメラを手にした不思議な少女、チナミと出会います。
初対面にも関わらずぐいぐい絡んでくるチナミに山浦少年は「すみませんが、どちら様ですか」と訊ねます。
チナミは答えます。「私? 私はカメラマン様だよ」と。

いいセリフですよね。「私はカメラマン様だよ」
今年暫定二位のいいセリフです。
なお今年暫定一位のセリフは「NPYM(またはHKLP)」です。

一人の少年のせつない青春の一ページ。現像する前のフィルムのようなこの物語は、見る人によって異なる感情を呼び起こすことでしょう。
そして物語のラストはチナミの独白によって締めくくられます。
有り体にいってこのチナミというキャラクターはloundraw監督の分身ですよね。
作品の世界を俯瞰して統括する超越した存在。
私はエピソードのラストにくるチナミの独白をloundraw監督のカチコミと呼んでいます。

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ところでみなさん、さっきからloundraw監督loundraw監督って何度もloundraw監督の名前を出してますけど、実はご存じない方、いらっしゃるんじゃないでしょうか。
つまり、その──loundraw監督の名前の読み方について、ですよ。

loundraw←なんと読みますか?

知ってるよ『ラウンドロー』だろ?
果たして本当にそうでしょうか?
正直私はloundraw監督をどう呼べばいいのかわからないのです。

ここでちょっとloundraw問題について考えていきましょう。
手元にあるいくつかの資料を開いてみます。
まずloundraw監督がイラストを担当された佐野徹夜先生の『君は月夜に光り輝く』と『この世界にiをこめて』のあとがきより
作者の僕の想像を遙かに超えるイメージを描いてくださったloundraw様。
イラストをご担当くださったloundraw様。

どちらもloundrawには『ラウンドロウ』とルビがふってあります。
イミテーションと極彩色のグレーの連載されているダ・ヴィンチでは『らうんどろー』とひらがなで表記されており、loundraw監督のインタビューが掲載されている『かつくら vol.22 2017 春』では『ラウンドロー』
そして『夢が覚めるまで』の紹介文も『ラウンドロー』になっています。

確認できる範囲でloundraw監督には『ラウンドロウ』と『らうんどろー』と『ラウンドロー』の三つの表記があります。
どうでもよくはないですよ。
『カレエライス』と『かれーらいす』と『カレーライス』では受け取る印象がまるで違います。
『ハイエロファントグリーン』は強そうですが『はいえろふぁんとぐりーん』だとアダルトゲームのメーカーみたいです。

 あなたの前に突然あらわれた108人の妹たち!
 この娘たちを使ってビルを建てたり道をつくったりおそいかかる災害に立ち向かって、あなただけの街をつくろう!
 はいえろふぁんとぐりーんがおくるこの夏最大の美少女ゲーム
『シムシスター』
 初回特典は妹がさらに100人増えるプロダクトコードとドラマCD付き
 ぜったい予約してよね、お兄ちゃん♡

そもそもこのloundrawという名前はどこからきたんでしょうか?
実は本名とか?
loundraw監督の名前を漢字で書くと雷運堂狼になるのでしょうか。

「loundraw」というペンネームは自身が15歳の時に考案したもので、"loud"(大きく響き渡る)、"surround"(興味を引く)、 "draw"(絵を描く)の三つの単語を組み合わせて作られており、「絵を描いて、興味を引いて、たくさんの人に知られたい」という思いからつけられた。
(Wikipediaより引用)

サカナのアクションでサカナクションだ! みたいな由来でした。
本名が雷運堂狼だから、のほうがかっこよくないですか? なんとかこっちを正史にできないでしょうか。
それから佐野徹夜先生の最新作『アオハル・ポイント』ではloundrawのルビが『ラウンドロウ』から『ラウンドロー』になっています。一体、何が。

つづけてWikipediaの情報を見ていくとloundraw監督は十代でイラストの仕事をはじめて担当した書籍の累計販売部数は300万部を突破しており、在学中にアニメのキャラクターデザインなど活躍の場を広げ、そもそもこの夢が覚めるまでも学校の卒業制作としてつくられています。
Wikipediaには記載されておりませんがloundraw監督は、まちがいなく同級生を何人か嫉妬で殺してるはずです。

なんですかこの圧倒的な主人公設定は。
ここまできたら二才のときに伝説の剣を抜いたとか、怒ると目からビームを出す、みたいな要素もほしいですよね。あとスタンド能力。

というかこちらのloundraw監督の肖像ですが、あきらかにスタンドも映ってますよね。
ジョジョの奇妙な大百科によりますとloundraw監督のスタンド名は
『オンリーロンリーグローリー』
対象の『喜怒哀楽』を『編集』できるそうです。
例えば敵対した相手の『怒』の感情を奪いとり『喜』を植えつけることで戦意を喪失可能です。
ただし、奪い取った感情のストックは一つまでで、『奪う』と『植える』を交互に行わなければならないルールがあるので、連続して感情を奪ったり植えることはできないそうです。
またスタンド干渉の対象となるものは生命体だけではなく森羅万象全てのものであり、例えば天候に『怒』を植えて稲妻を発生させたり、病人から『哀』を奪って健康にするといった使い方も可能です。
使用にはそれなりの頭脳を要求される上級者向けのスタンドですが、状況を把握して展開を理解するのが得意な監督にはぴったりの能力ともいえます。

さて、イミテーションと極彩色のグレーの話に戻りましょう。
お待たせしました、第2回 side.北見千冬 Ep.2「北風に乗せられて」です。
私はこの話がしたかったんですよ。

端的にいって、今年読んだ短編小説では現時点で二位、今年発表された短編小説のくくりなら一位。一番好きですよ。
既に読まれた方ならこの気持ちは理解していただけると思いますが、すごいなloundraw監督って感じたはずなんですよ。
物語のはじまり──つまり最初の一行目で語られていたこと、それが作中のチナミと千冬の関係とリンクしていて、でもそれが最終的、つまりラスト一行で千冬のとった行動と彼女のなかで起きた変化によって、確かに世界には二つの側面がある、でもそれは自分が影であったとしても光を求めるのではなく、自分自身が光となり得ることだってできるのだと証明してみせた、あまりにもまっすぐでくもりのないメッセージに人は心打たれるわけですよ。
しかもこのエピソードにはラストにloundraw監督のカチコミパートもなく、とことん一つの物語としての完成度が高いんですよ。私、監督のカチコミパート嫌いじゃないですけど。

なお、このエピソードが収録されているダ・ヴィンチ 2018 3月号はかなり濃い百合特集も組まれておりまして、これがまた素晴らしいので、未読の方は雑誌ごと買うのがおすすめです。
電子書籍で今すぐ購入可能です。

で、つづきましてイミテーションと極彩色のグレー 第3回のお話なんですがloundraw監督ファンのみなさま、ここまで読んでいただきまして本当にありがとうございます。
そろそろお別れのお時間となります。
ここから先はロクでもないことしか書いてないので、どうぞ素敵な音楽を聴きながらここではないどこかへと歩んでください。

では聴いてください。
『イミテーションと極彩色のグレー』オリジナルサウンドトラックより
『Home We'll Go』

ここからロクでもないことを書きますなんていうと、まるでここまではロクでもあったみたいですけど、別にそんなことはないですよね。
さてloundraw監督のファンの方はもういないはずなので、これから愚痴っていきたいと思います。

問題の第3回です。
まず驚いたのが第3回のエピソードって第2回のつづきだったじゃないですか。
驚きましたよね。え? つづきなの? って。
ターミネータ3と4でも飽き足らず、ジェニシスまで作っちゃいました的な。
なぜ第2回で完結にしなかったのかと全米でも論争が起きていました。
正直、蛇足だと思いましたし、今回は結末にloundraw監督のカチコミもあるじゃないですか。
雷運堂、生きとったんかワレエ、ですよ。
しかも第3回のカチコミで語られることがわりと衝撃的だったじゃないですか。
え? これそういう話だったの? と。
ここにきて人類は『イミテーションと極彩色のグレー』の物語としての広がりを目の当たりにするわけです。
とはいえ私には第2回のあの終わり方がとても綺麗だったので、第3回で『つづき』を知ってしまうのは何だかつらかったですね。
しかしですね、しかしそれこそが、第3回でつづきを描いたことこそが、もっと根源的な話をすると、この『イミテーションと極彩色のグレー』という作品のあり方そのものがloundraw監督の作家性の根幹にあるであろう『傲慢』さにつながっているのだと思います。

ところでみなさんは、この世で一番ひどい小説を教えてよと誰かに訊ねられてすぐに答えることはできますか?
たぶん、難しいと思います。
私はすぐに答えられますよ。
電撃文庫マガジンVol.35に掲載されている『声優』というタイトルの小説です。
そんなことを断言して問題ないのかと思われたかもしれませんが、問題ありません。
なぜならそれを書いたのは私だからです。
どうして雑誌に掲載された自分の書いた話をつまらないといえるのかといいますと、この話は非常に不本意なかたちで世に出してしまったからです。

電撃文庫マガジンに電撃チャンピオンロードという読者参加企画がありまして、これは毎回出されるお題にそった短編を書いて応募して評価の高かった上位二作品の作者は後に開催される頂上決戦に出場できるというものでした。
頂上決戦でも固定のお題が出されるのですが、そこで評価を下すのは編集部の方ではなく電撃文庫マガジンの読者の方であり、投票の数で優勝者が決まります。
そこで私は優勝しました。あのとき私の作品に投票してくださったみなさま、本当にありがとうございます。愛してます。
優勝者への特典として賞金と自作品を編集者の方に見てもらって批評してもらえる資格と完全オリジナル作品を電撃文庫マガジンに載せていただける権利がもらえました。

とにかくオリジナル作品が雑誌に載ることが嬉しすぎて、私は長編小説を書く以上の気合いを入れて、しっかりと時間をかけて、我ながら完璧と呼べるレベルまで練り上げた一本を書き上げました。
緊張しながら原稿のデーターを送信しました。
翌日、編集部の方から返信がきました。
非常に丁寧で優しい文面は、要約するとこのようなことが書かれていました。
『非常に申し訳ないのだけれど、これを掲載することはできません』

私の書いたオリジナル作品は『殴りにきた人』というタイトルです。
四十代なかばの私の前に、未来から八十代後半の私がやってきます。
八十代後半の私は、唐突に四十代なかばの私に殴りかかってきます。
八十代後半の私は叫びます。「今すぐ作家になる夢をあきらめろ」と。
四十代なかばの私はボコボコ殴られながら問います。「なんで?」と。
八十代後半の私曰く、私がいつまで経っても作家になる夢をあきらめずに何度も落選を繰り返し、それでもしつこく投稿をつづけて無駄に年を重ねていって、結果として悲惨な未来が待っているのだと。だからもうあきらめろと。
これからどんなひどいことが待ち受けているのか、延々と八十代後半の私は四十代なかばの私に伝えながら、殴りつづけます。
そういう話です。
ライトノベル界の週刊少年ジャンプこと電撃文庫マガジンに四十代のおっさんと八十代のじいちゃんしか登場しなくて、しかもじいちゃんにおっさんが殴られてるだけの話を送りつけるとか、当時の私はなにを考えていたのでしょうか。

それで編集部の方からのボツ理由なんですけど、話の内容がクソだとかキャラクターがおっさんしかいないとかそういうのではなく、一部表現が過激すぎるのが問題だと。

一向にデビューできる気配のない四十代なかばの私は世界を憎み、認められない原因を社会に求めようとします。
ソードアートオンラインも魔法科高校の劣等生もクソだ、俺がデビューすればもっとすごい作品で世界を驚かせるのに。そもそも電撃の編集部がダメなんだよ。口では新しいものを探してるなんていってるけど選ぶのはいつも無難な作品ばかり、あいつらは何もわかってないんだ!
(この描写はフィクションです。実際はこの五倍以上むちゃなことを書いていました)

そりゃ、ボツになりますよね。
なんでこんなものを書いたかといえば、いつまで経っても結果を出せない自分への憤りをぶつけたかったというのが主な理由でして。
どれだけつらくても、あきらめるべきではないと励ますメッセージの例として『1000回叩けば崩れる壁を多くの人は999回でくじけてしまう』みたいなやつあるじゃないですか。
あとは『死ぬこと以外はかすり傷』みたいな戯言がちょっとしたお年玉みたいにリツイートされながら私のツイッターにも表示されたんですよ。
壁の前でぶっ倒れてる私の見下ろしながら偉い人が「惜しかったね、あと一度だったのに」とか言ってきたら、私は最後の力をふり絞って壁でなくそいつを殴りますよ。
こっちは全身かすり傷で、もうかすり傷でも致命傷なんですよ。
そういう想いを物語にぶつけたんですよ。純粋な想いは必ず届くっていうじゃないですか。
そんなのともだちにでもぶつけろよと思われるかもしれませんが、私ってほら、ともだち一人もいないじゃないですか。
あとは頭のなかでいつも、自分ならかきまわすものを提供できるのに、とか考えてるくせに、いざチャンスを与えられたら無難なものを提出するのは自分に不誠実だと思ったからでして。
『無難であろうとするくらいなら大失敗を選びなさい』とココ・シャネルさんもおっしゃってましたし。
私もそれに従った結果、キングスマンのラストばりに派手に爆死したというだけの話ですよ。
僕はやりましたよ、ココ姉さん。

言い訳じゃないんですけど『殴りにきた人』を投稿する際に、私にも一応ミカヅキモ程度の良識はあったので、内容が過激でボツになることもあるんじゃないかなという危惧はあったんですよ。でもやっぱり逃げたくはなかったんですよ。それである人の力をかりたんですよ。
ジョン・レノンさんです。
私のツイッターで突然、ジョン・レノンの有名な言葉をリツイートしてるポイントがあるんですけど、それはまさにそのときの私の心境そのものであり、それをリツイートしたのと同じタイミングで投稿しました。
私、年に5回くらいしかつぶやいてないので、どんな言葉かはちょっとスクロールすればすぐ見つかると思います。
ジョン・レノンもツイッターやってたんですね。

それから作品の名誉のためにいいますと、この『殴りにきた人』という物語はループものの主人公なみに新人賞の落選を繰り返している私の腐敗した心情を吐露しているだけではなく、一応、小説としての体も保っており、伏線を引いたりして、それなりに読者に納得して頂けるであろうオチもあるんですよ。
説明してもわかりにくいですよね。
せっかくだからカクヨムにでも投稿してみましょうか。

それで、ですね。
掲載不可のメールを受けた私はこれで電撃さんとの縁はおわったなくらいに思っていたのですが、数日後、なんとなくメールを読み返してみると
『まだ作品掲載の意志があるなら受け付けるので、新しい話を書いて送っておいで』みたいなことがメールの最後のあたりに書かれてまして、その締め切りがもう30分もないんですね。
みなさん、これは私からの教訓です。
送られてきたメールはちゃんと最後まで読みましょう。
もう自分の中にある引き出しを全部ひっくり返して完成最優先で一本書き上げて送りました。
そして『声優』という物語は無事、掲載されました。
内容は覚えてません。というか私はこの話を読むのがこわくて一度もまともに読んでいないのです。
確か声優になりたいけど生まれつき声の出せない少女が山の穴に落ちてさあ大変、みたいな話だったと思います。
おっさんしか出てこないやつと比べれば偉大な進歩といえるでしょう。

結論として、作者の不手際で不完全な状態で世に出してしまったこの物語は私の知るかぎり、世界で一番ひどい小説といえます。
頭のどうかしてる話を送りつけてボツを食らって、それで腐ってもう一度与えてもらったチャンスに気づけなかった。全部自分のせいです。
ただ、ですね。
あのですね、一つだけ自慢話をしてもよろしいでしょうか。
はっきりいって、ここは虚言癖が虚言をばらまいてるだけの空間ですよ。
信じてもらえないかもしれませんが、ここまで書いてきたことのほとんどはデタラメで、本当のことなんて三秋先生がアーティストデビューを果たしたってところくらいですよ。
来年のライブ楽しみですね。

それで自慢話なんですけど『声優』が掲載されている電撃文庫マガジンが発売されて、何日か経ったある日。
当時の私は人生初のiPhoneを購入して、それに装着するケースを探していたのですね。
一つすごく気に入ったやつを見つけたんですけど、マニアックなメーカーの商品みたいで大手通販サイトでは取り扱いがなく、新製品を出しているにも関わらずメーカーの公式サイトは一年以上更新なしというありさまでして。
しかたなく商品名を検索してみたら、どこかのどうやら学生さんの日記にヒットして、その人の日記を読んでたら、なんの予告もなしに電撃文庫マガジンの画像と私の『声優』の感想が書かれてたんですよ。
その方、電撃チャンピオンロードでも私の書いた作品に投票してくれたみたいで、『声優』にもいい評価をくれているんですよ。ここがよかった、あそこもよかったって。作者がまだ一度もちゃんと読んでないのに。
それを見たときの私の様子がどんなだったか、映像で確認できます。
みなさんの家にも一枚あるはずです。
キングスマン ゴールデンサークルのDVDもしくはBlu-rayを取り出して32分25秒ほど再生してください。そこに映ってるマーリンみたいになってましたからね私はマジで。
その学生さん、声優を目指されているようで、私はもうこの人のためだけに話を一つ書こうと決意しましたよ。最近ようやくプロットが完成したので来年公開予定です(追伸、完成しました

数日前、そろそろ私も『声優』と向き合うべきと思い、電撃文庫の公式サイトにジャンプしました。
ここでも読めるんですよ。
ところで、ちょっと前に電撃文庫の公式サイトってリニューアルされたじゃないですか。
その影響でページが消えてますね。
なんということでしょう。

いろいろあったけど、やっぱり嬉しいものですよ。

あと、この号には私のコメントも載ってまして、本当に何気ない一言なんですけど、ここまでの前提を知ったうえで読むと全く違った意味で受けとっていただけると思います。

自慢をもう一つだけ。
これは自慢というより、いい話ですね。
『声優』が掲載されている電撃文庫マガジンが発売されて、何日か経ったある日。
一通のメールが届きました。
差出人は私を担当してくださった編集部の方です。
『さすがに最初のやつは掲載できなかったけど、きみの熱意はしっかり伝わったから、いいか、絶対にあきらめるんじゃねえぞ』
そういうメッセージでした。
電撃文庫の編集部って、こんなに熱い人ばかりなんですか。
もう私のなかで電撃編集部の方はもれなくこうなってますよ。

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参考資料(島本和彦先生『吼えろペン』1巻より)

だったら私もそれに応えなければ。
受け取ってください、私の最高におもしろいやつを。
今年の電撃小説大賞の結果がこちらです。

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はい。まあ、なんといいますか……はい。
我ながら人生が上手くいかないという点においては驚くほど上手くいってる自信があります。
一次選考落選って面白い面白くない以前の問題とうかがいますけど、それってどういう問題なんでしょうね。
その問題に気づけないことが問題なのか。もはや哲学です。
おそるべきことに、こっちはこれが面白いと思ってるから投稿してるんですよね。
『編集会議 2017 Spring』という書籍にて株式会社ストレートエッジの親分、三木一馬さんがピックアップされています。三木さん曰く、エンターテイメントコンテンツが世に出るためには最低二人の人間が事前にそれを「面白い」と認識している必要があるのだと。
本でいうなら、それは作者と編集者です。
私はこれを心から面白いと確信しているので、つまり私に必要なのは、まだ見ぬ『もう一人』さんということになります。
お客さま、お客さま、お客さまのなかに『もう一人』さまはいらしゃいませんか?
呼びかけても返事はありません。
もっとたくさん人の集まる場所にいけば出会えるかもしれないと思い、小説サイトに投稿してみました。
その結果

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二位です。
悪くないですよね。
一位の『薬屋のひとりごと』は既に出版もされ、複数のコミカライズでも成功してる大人気作品ですし、どう考えても勝ち目ないじゃないですか。相手はチートキャラですよ。
つまり、実質私が一位じゃないですか。
なにいってんだこいつ。

少しは評価していただけているようです。しかし『もう一人』さんは現れません。
だったらこちらから探していくべきなのかもしれません。
それは禁断の果実。
生半可な気持ちでそれに手をのばせば己を滅ぼすともいわれる、その名はエゴサーチ。
ツイッターの検索欄に『キングスマン』以外のワードを入れるのは、はじめてです。
結果はこうなりました。

感想をつぶやいてくれたみなさま、心からありがとうございます。
正直、悪くない感触ですよね。
まあ、てめえに都合のいいツイートばかり抽出しているので当然なんですけど。
よくわからないまとめサイトみたいな場所で取り上げられてボロクソに叩かれてるのも見つけましたけど、精神衛生上よろしくなさそうだったので即座に顔を背けました。
三秒以内だったのでセーフ。

それから、魔王少女と呼吸の生徒会が有名だみたいな意見もお見受けしましたけど、そうなんですか?
有名なんですか、あれ。
作者の耳には一度も届いてませんけど。
スタバやマックにいけば、女子高生が若者だから気づけたエネルギッシュな視点を社会に提唱しつつ「そういえば魔王少女と呼吸の生徒会っていいよね」とかいってくれてるんでしょうか。
電車に乗れば外国人がそのグローバルな価値観で日本社会の問題を浮き彫りにして「だけど魔王少女と呼吸の生徒会は最高だね。あれは海外でも大人気だよ」とかおっしゃってるんですか。
私、その世界線にいきたいんですけど。

さあエゴサーチをしましょう。

こういう動画って、書籍化して大ヒットしてアニメ化くらいしないと作ってもらえないと思っていたので、すごくおどろきました。
といいますか、ものすごく嬉しくて胸がいっぱいです。

なおランキングはこのようになっています。

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こっちは詭弁抜きで一位なんですよ。
といいますか、ここでは私が一位なことより二位の方に注目していただきたいんですよ。
大ヒット作品『蜘蛛ですが、なにか?』の馬場翁先生の新作に勝ってるんですよ。
シリーズ累計120万部突破、現在もぐいぐい部数を伸ばしている人気作家さんの作品に私は勝利してるんですよ。
これはつまり、こう考えることはできませんか。
私の作品を書籍化すれば少なく見積もっても480万部くらいは売れて、アニメ化、映画化、舞台化はもちろん、スマブラ参戦だって夢ではないと。
きみもそう思わないか? スカリー。

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アニメ、楽しみです。

エゴサーチして自分に好意的な意見を集めるのって、なんだかぞくぞくしますよね。
いいじゃないですか、あのアップルだって新しいデバイス発表したら好意的なレビューを書いてくれたメディアのコメントだけを公式サイトのトップにどしどし載せてるじゃないですか。
誰だって、ほめられたいんですよ。

ところでお前、この話いつまでつづけるつもりだと問われれば、それはもうずっとですよ。
ここから先は落選への愚痴と反省会ですよ。
私の才能に嫉妬した下読みの方が意図的に落としたに違いないっていういつもの被害妄想を一週間くらいして精神の安定を図る、新作の準備に取りかかるために必要な儀式みたいなものですよ。
ここまで読んでくれてる方だって、まさかこれからまともな感想文がはじまるとは思ってないでしょう。
まだここに残ってるのは文字が読めればなんでもいいか、とにかく文章を読みつづけなければ恋人の姿をトカゲかネギ焼きにされる魔法をかけられた方ばかりなんでしょう?
ここまできたら最後までお付きあいください。
そのために音楽をかけましょう。
まさしくこういう心境のとき、一歩を踏み出す勇気がほしいときの歌です。
聴いてください。

『夢が覚めるまで』オリジナルサウンドトラックより
『Defying gravity』

そうそう、少し前にソードアートオンラインの名前が出ましたけど、それで思い出したことが一つ。
今年(2018年)の七夕は乙姫と彦星がよっぽどお互いの顔を見たくなかったのか、洒落にならない雨が倉敷市にふりそそいでおりました。
当時の様子がどうなっていたかと申しますと、早朝から深夜にかけて毎分のようにスマートフォンから警報が鳴り響いておりまして。
空から水がくるぞ避難しろ、って。
いわれなくてもわかってるから意味ないんですよね。ゴジラが肉眼で確認できる距離にいるのに怪獣警報だされてるみたいで。
そのころ私は食べ物と飲み物を乗せて車で移動してまして、集会場のような場所にいって作業していたら、そこにいたお子様が「あっ、ソードアートオンラインの作者の人が応援してくれてる」っていうのですね。
なんのことだと思ったら、こういうことでした。

みんな経験したことのない不安の中にいて、子供たちもこれは雪やちょっとした台風のときみたいにテンションの上がる感じの状況ではないなと肌で感じていたみたいで、静かにじっとしていたのですが、川原先生のそのつぶやきで、ちょっとだけ子供に笑顔が戻る瞬間を目撃したので、これが作品の力、作家の力なのかと、なんかぐっときましたよ。
川原先生、また倉敷にいらっしゃることがありましたら、おいしい魚の店でごちそうしますよ。
魚が苦手だったら、倉敷名物ココイチでも。
ココイチもダメなら、もう、なか卯ですね。
ちょっと前に開催されたソードアートオンラインのコラボキャンペーンに参加したくて、生まれてはじめてなか卯さんにいきました。
コラボメニューおいしかったですよ。
ちゃんとキリトさんの味がしました。

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お子さんがソードアートオンラインの大ファンでおなじみの、ブリトニー・スピアーズさんのインタビュー記事を読んでいました。
十年以上前の洋楽雑誌に掲載されていたものですが、当時発売されたばかりのアルバムについて解説を求められたブリトニーさんは『自分の曲について語るのは苦手なの』と答えます。
「収録されている楽曲について、みんなには自由に聴いて自由に感じてほしい。あなたの感じたそれがそのまま正解だから」
そのようなことを語られています。
私はアーティストやクリエイターの作品語り大好き人間なので、設定資料集の製作秘話や新作が発売されてそれを記念した一万字のインタビューなど読むと興奮するし、映画やアニメのDVD購入の判断材料にオーディオコメンタリーが入っていることが必須だったりもするので、むしろどしどし語ってほしい派なんですけれども、ブリトニーさんの考えも尊重できます。

なぜいきなりブリトニーさんかというと、実は『イミテーションと極彩色のグレー』を読んでいるとき、このインタビューのことが、ふと、よぎってしまったからなのです。
loundraw監督のファンのみなさんは今ごろCHRONICLEの音楽でも聴いてるはずなので包み隠さずいいますけど、ねえまだ残ってるみなさん──loundraw監督って『傲慢』だと思いませんか?

これまでいくつもふざけたことを書いてきましたが、これから語る数行のことは本当に自分の根っこの部分から出てきた本音であり、それゆえに上手く言語化できていないので、ご了承ください。

自分でもなぜそう思ったのかはわかりません。でもとにかくそう感じたんですよ。
ああ、この人たぶん傲慢なんだろうなって。
それは『イミテーションと極彩色のグレー』の第3回以降を読んで芽ばえた意思であり、それを手にしたままloundraw監督の画集『Hello,light.』を読み返して確信に変わった気がします。
おそらくloundraw監督の絵のタッチは繊細と評されることが多いと思います。
そこに異論はありません。
でも、なんだろう。
ちょっと、こわくないですか?
『Hello,light.』に収録されている作品でいうなら『よるのばけもの』よりも『カーディガンと午後』のほうに視線を奪われる。そういうこわさ。
怖いでも恐いでもなく、こわい。
例えていうなら、岡本太郎さんやジャクソン・ポロックの絵をはじめて見たときと同じ衝動とでもいいますか。
表層的な絵の見た目そのものよりも、その奥にある作者の情念がみなぎって、それにあおられているような感覚というか。
そういうものをぶつけられた気がしたのです。
作品を見た人の数だけ答えがあればいい、ではなく、自分の描いたこの世界の解釈を1ミリもずれることなく正しく受けとれと、胸ぐらを掴まれたような圧迫感。
そういうやつがあったのですね。
私はそれを傲慢だと思いますし、同時に表現者として圧倒的に正しいとも思います。
(全て個人の感想です)

だけど本当にこれは個人の、私だけの感覚なんでしょうか?
私が考えている以上に、そう思っている人は大勢いるのではないでしょうか?
特に海外。
来週からロンドン、北米と英語圏でも『夢が覚めるまで』が公開されますけど、宣伝で使われている楽曲がこちらなんですね。

Halestormというバンドの『Hate It When You See Me Cry』という曲です。
お聞きの通り、ゴリゴリのロックです。
一見、につかわしくないように聞こえなくもないですが、歌詞に注目すると

 私は世界を救うためにここにいる
 でもスーパーガールは誰が救うの?
 何があってもあなたの涙だけはみたくない

まるで『夢が覚めるまで』のために書き下ろしたかのようのではないですか。
日本版はBUMP OF CHICKENの『66号線』という曲が使われているのは、みなさんご存じの通りで、こちらは説明不要の名曲でloundraw監督が最もふさわしいと信じたからこそ採用されたのだと思いますが、だけど英語圏のみなさんが私と同じような『こわさ』をloundraw監督のフィルムから受けとったと考えるとHalestormという選択は正しいとはいわないけれど間違ってもいないのではないでしょうか。
それから本当にどうでもいい話なんですけど『66号線』が収録されている『COSMONAUT』というアルバムに入っている『セントエルモの火』という曲はとても好きでして、たぶんBUMP OF CHICKENの歌で一番聴いてます。少なくとも2000回はリピートしてます。

では聴いてください。
こちらもまるで『夢が覚めるまで』を鑑賞して書き下ろしたような一曲です。
BUMP OF CHICKENで『記念撮影』

流行を疑い、軋轢を恐れず、愚直なまでに自分であろうとする。
loundraw監督の作品から伝播してくるそれは、実は三秋縋作品からも伝わってきます。
傲慢なまでの表現欲で隙を作らないloundraw作品と、余白の先にある景色に導いてくれる三秋作品。
相反しているのではなく、二つが出会うことで誰も見たことのない一つになるのです。
だから今回のこのコラボは、芸術的といっていい相乗効果を生んでいるのです。
劇場版と小説版。
見てから読むか、読んでから見るか。
読んだのなら見るしかないし、見たなら読むしかない。
どちらかが欠けてもいけません。
ではどちらを先に見るか。
選ぶのは、あなた次第です。

ここまで読んでいただいて、本当にありがとうございました。



loundraw監督も三秋縋先生も、いずれ名前がジャンルになる人なのは間違いないでしょう。
loundrawっぽいとか、三秋っぽいとか、そう呼ばれる存在。
正直loundraw監督っぽい方は、ちょくちょく本屋さんでお見かけしますよね。
ああ、影響受けてらっしゃいますねって感じの人。
それ以前にloundraw監督のイラストは軽く本屋さんを支配してますよね。
年間書籍売上ランキングの上位作品1/3くらいloundraw監督の表紙じゃないですか?
ずっと文字ばかり見て目が疲れたでしょう。
ちょっと絵を見てゲームでもしましょう。
昨年私が購入した本の一部です。
loundraw監督が表紙を担当している本は五冊あります。
全部見つけられるかな?

それからloundraw監督の初作品集『Hello,light.』に収録されている作品の中で私が一番好きなのはヒットした書籍の表紙たちではなくて『Sony Music主催・女優・モデルオーディション』の宣伝用イラストでして。
これを見た女優やモデルの卵さんたちが、そこにいる自分をイメージして、一歩を踏み出す応援をしてくれているようで、すごくいいです。
ポスターがあれば部屋じゃなくて職場に飾っておきたい一枚です。
女優やモデルを目指してなくても、見る人に活力を与えてくれるはずです。その威力たるや、風水のポスターの比ではありません。

ちなみにloundraw監督の異常な表現欲の証左として、みんな大好きデザインとグラフィックの総合情報誌 月刊MdNのVol.283にて、デザインコンサルティングファーム『THINKR』の偉い人、石井龍さんと株式会社ストレートエッジのドクターストレンジ、三木一馬さんの対談内で掘り下げられています。
石井さん曰く、loundraw監督は圧倒的な向上心があり常に変化しようという心構えで、イラストレーターからキャリアがスタートしているけれども、アニメや漫画、音楽など様々な表見活動にも関わり始め、イラストを軸にしつつも『イラストを描くことだけがloundrawの特徴ではない』という意識が強い。とおっしゃっています。

現時点で確認できるloundraw監督のキャリアは
イラストレーター、キャラクターデザイナー、小説家、漫画家、アーティスト、映画監督、スタンド使い、などです。
『かつくら Vol.22』のインタビューによればloundraw監督は少年時代はサッカー選手になるのが夢だったそうなので、近い将来、こちらも叶っている可能性もあります。
あとはアベンジャーズに加入とか、赤レンガでイタリアンのシェフもやってそうです。
私、横浜で生活したいので、レストランをオープンの際はバイトで雇ってください。
高校時代、うどん屋さんでバイトしてたので、汁物を運ぶのは得意です。

それで思い出したんですけど、私ってすごく喫茶店やレストランの人らしいのですよ。
これは昨年自分をおそった不条理な出来事の第二位なんですけど、ある日、たまにいくコンビニの店員さんに突然「お兄さんって喫茶店で働いてるんですか?」とたずねられまして。
私、その人と会話したこと一度もないんですよ。
客に対する第一声がそれってどういうことなんでしょうか。
なお、これまでの人生でコンビニの店員さんに語られて衝撃だった言葉の第一位は、数年前、魔法科高校の劣等生のイベントチケットの料金をコンビニで精算した際に領収書を確認した女子高生くらいの店員さんに「お兄様のイベントに参加なさるんですか!?」と驚愕されたことでした。もちろん、その人とも話したことはございません。
それ以来、仲間だと思われたのか、その女性から「私、今度ラブライブ!のライブにいくんですよ」と、どうだうらやましいか? もっと私を尊敬のまなざしで見つめろよこのブタ野郎みたいな感じでよく話しかけられてます。
で、最初のコンビニ店員さんに謎の喫茶店スタッフ認定された同じ日に数年ぶりに親戚と会ったんですけど、第一声が「なんか喫茶店の人っぽい」なんですよ。
なんでしょう、私は自分にだけ見えないアンゴラうさぎを頭上に乗せているのでしょうか。
もしくは常時無意識に『Daydream café』を口ずさんでいるとか。

他にも職場で仕事してたら近所の人がイベントのチラシを持って入ってきて、私を見るなり「あなたここで働いてたの? ずっとレストランで働いてるのかと思ってた」って意味分からないじゃないですか。
『喫茶店 レストラン スタッフ』で検索したら自分の顔が出てくるとでもいうのでしょうか。こわくて検索できません。
それ以外にも冒頭に登場したよくいく文房具屋さんでも数回、店員さんと間違われて、ノートはどこにあるんですか、みたいなこと訊ねられたことあるんですよ。
そのお店はスタッフユニフォームがあって、私の着てる服はそれと全く似てないのに。
おいお前、俺の顔に『俺はこの店の店員です』って書いてあるのか? 書いてないよな? どうして書いてないのかわかるか? それは俺がこの店の店員ではないからだ!
とか言ってみたくなります。
あと私、やたら人に道を聞かれます。私の前に五人くらい人がいたのに全員スルーして、なぜか私に聞いてきます。
知ってる場所ならいいんですけど、たまに東京いったときに知らない店の名前を訊ねられても答えようがないわけでして。なるべく力になりたいし、道がわからないのならグーグルマップを開けばいいじゃないとも言いにくいのです。
なんなんでしょうね、これは。

せっかくなので昨年、私の身に起きた不条理の第一位を聞いてください。
ちょうど一年前の2017年11月某日のことです。
仕事してたら急に体に力が入らなくなりまして、ちょっとその場に倒れるように座り込んでしまったのですよ。
五年近く費やした人生の一大プロジェクトがようやく完結した翌日だったので、まあ疲れが噴出したのかな、程度に思っていたのですよ。
数日後、一向に体調が改善しないのですね。
体に力が入らない。食欲がない。やたら電気がまぶしい。めまい、耳鳴り、胃痛がする。
明らかに症状が悪化してるんですよ。それでも私はそれをストレスか何かのせいだろうと思っていました。厳密にいうと、そう思うようにしていました。
明らかにそうじゃないだろうというのは本能的に悟っていても。
それである日、何もしていないのに異常な動悸がしてきて、さすがにもうアカンだろこれと思って病院にいきました。
お医者さんに症状を全部説明すると、ちょっと慌ただしい雰囲気になりましてすぐに精密検査という運びになりまして。
体中にAVケーブルみたいなのをつけられたり、なんだかよくわからない機械にしばりつけられてぐるぐる回されたり、機械に入れられたり、体液を提供させられたりしたわけですよ。
それでは結果発表の時間です。
『どこも悪くありません』
まじですか。
そう言われているあいだも私の動悸は太鼓の達人の難易度『おに』みたいになってるんですよ。

イメージ映像

「心臓に異常みたいなものは?」
「なんの問題もないですね。あとあなた、綺麗な体液してますね」
そう言われてるあいだも、私の鼓動は騒がしいんですよ。
この地区の中学生、全員の初恋を一人で背負ったようなこの胸のドキドキがあなたには聞こえないというのですか、ドクター。

それで話してみた結果、どうやらこれは自律神経失調症なるものではないのかと。
ネットで調べてみたら、20個くらいの検査項目があって7個以上にチェックが入ったら心療内科にGOって書いてあるのですね。私は18個くらいにチェックが入ったような記憶があります。
それでどうしようか考えていたら、おそろしい項目を見つけてしまいまして。
自律神経失調症と思っていたら頭の病気である可能性もあるので侮らず脳外科を受診しましょう。みたいなことが書いてあるんですよ。
その一文がすごい怖くて。
確かに変な感じの頭痛がするんですよ。これまでの人生で頭痛なんて感じたことなかったのに。
それで自分の症状を検索してみたら、それはそれはおっかないことしか書いてないんですよ。
やばいやつAか、もっとやばいやつBか、さらにやばいやつCの可能性がありますって。
軽く絶望しました。いや、軽くはなかったです。
現実から目を背けてだらだら先延ばしにしてたんですけど、体調は一向に回復しないし、頭痛はするし、もういいやと半ば自棄になって脳外科にいきました。
とりあえずMRIを撮ろうという話になりました。タトゥーをしていると地獄の苦しみを味わうことで有名なあれです。
MRIなんてドラマでしか聞いたことありません。まさか自分がすることになるとは。
それでまあ、やったわけですよ。
MRI後も気分はすぐれないし、なにを言われるんだろうと気が気じゃありません。
医療ドラマではおなじみの脳のスキャン画像が貼り出されています。
先生曰く「いやあ、驚くほど綺麗な脳だね」
そういわれて私は、脳って確かしわくちゃのほうがいいんじゃなかったっけ? どうだっけ? と思考をめぐらせていました。
「病気の痕跡も傾向もないし、すごくいいよ。うん、二十代でもここまでの脳はないかもね。本当に十代の脳みたいだよ」
先生の口調からどうやら悪い結果ではないようだと安心しかけた次の瞬間
「いや、待てよ」突然、先生の顔が険しくなりました。「なんだこれ、脳の一部にみたことのない影がある」
はい終わった。と私は首をはねられたような錯覚がしました。
私もだてにドクターハウスのDVD-BOXを全巻所持していないのでわかります。
MRIに映った謎の影とバイコディンの過剰摂取はあってはならないんですよ。
「自分は25年以上この仕事をしてるけど、こんな影はみたことない。きみ本当に大丈夫?」
とかおっしゃってきやがるんですよ。
この人、医者になる前はロシアでスパイの尋問でもやっていたのか、人の不安をあおるのがとてもお上手なんですね。次から次へとさびたナイフで刺すような言葉をぶつけてくるんですよ。
確かに事前のアンケートで『検査結果は包み隠さず全て話てほしい』にチェックは入れましたけど『思う存分ビビらせてほしい』にチェックを入れた覚えはないですよ。
とにかくすぐにでも精密検査を受けてほしいけどここじゃ無理だから、というので大学病院への推薦状を書いてもらって一週間後、そこに向かったんですよ。
もう普通に人生終わったと思ってましたからね。
思えば何もない三十年でした。ありがとうございます。

大学病院にて先生とお話をします。
「確かに見たことのない影だけど、きみまだ若いし、重い病気になると思えないし、そもそもきみに問題があるように見えないから、たぶん、そっちでやったMRIの解像度の問題じゃないかなあ」
結論から言うと、その先生の推測は正しかったのです。
とはいえ、私はまだそのことを知りません。
「とりあえずもう一度MRIをやろうか。来月と再来月どっちがいい?」
え? すぐにやってくれないんですか? 誰もみたことない影なんですよ?
どうやらMRIのスケジュールがいっぱいのようで、これでも割り込んで入れてくれているみたいなのです。
ここまできたら引き延ばす理由はないと、来月にしてもらいました。
そこから一ヶ月は頭のことしか頭にないんですけど、そうもいってられない事情が一つありまして。
この時点での日付は今年の三月です。MRIの予定日は四月十日であり、その日は電撃小説大賞の応募〆切でもあります。
作品はほぼ完成していても私はいつもぎりぎりまで推敲しているので、まだ送ってはいません。
私は意外と集中力のあるほうで、例えば夜の二十二時から作業をはじめて、気がつけば窓の外に朝日が昇ってる、みたいなことも珍しくありませんでした。
ところがですね、自律神経失調症になった方ならわかっていただけると思うのですが、症状の一つに集中力がなくなるというのがあるんですね。
めまいや体力の低下と同じくらいこれがつらかったです。
とにかく集中できない。いろんなことが気になってしかたない。
レポート提出期限の迫った大学生も驚きの散漫ぶりでして。
しかも何をするにしてもMRIのことが頭にちらついてしかたない。
私はこれを試練と思うことにしました。
ここを乗り越えれば必ずボーナスステージが待っているに違いないと。
もし一度だけタイムマシンが使えるなら、あのときの自分の前にいって「きみがいま一生懸命書いてるそれだけどさ、たいへん申し上げにくいんだけど、一次選考で落とされるから、無理せずゆっくり休んでなよ。レイジングループの本を読むとか、Flowersをするとかしてさ。体動かすのもきついんだろ? それから体については半年後には全快復してるから心配するな」と言ってやります。

そして運命のMRI当日。
近所の病院でやったのとはスケールの違うMRIのアルティメットレアみたいな中にはいりました。
結果発表。
先生「結論からいいます。これは副鼻腔炎の影です」
私「フクビクウエン? それはやばいやつなんですか?」
先生「いえ、ただの鼻カゼです」
私「ハナカゼ」
先生「このタイプは放置していても問題ないと思いますが、心配なら一度耳鼻科に」
私「なるほど」
先生「それにしても本当に綺麗な脳だね。二十代でもこれだけの(以下略)」

二度もMRIを受けて得た結論は、私の頭は十代から成長していないという医学的証明でした。
とにかく問題ないとわかった瞬間、数ヶ月間苦しめられていた胃痛と頭痛が嘘みたいに消えました。
心因性の頭痛や胃痛は病院にいって問題ないと診断されると消えるとネットに書いてます。
病は気からというやつですね。今回の件で唯一真実だったネット情報です。
これ本気で思ったんですけど、体の症状についてネットは怖いこと書きすぎですよ。
『頭がズキズキする? あーそれもうアカンやつですわ』
ではなくて
『頭がズキズキする? それはもしかしたら無条件で五億円もらえるチャンスかも。とりあえず病院にいってみようよ』
くらいの感覚でちょうどいいと思います。

念のため耳鼻科にいって診察してもらったら
「副鼻腔炎ですね。これ放置してて問題ないやつです」
と体感的にも実時間的にも10秒で診察は終わりました。
ロバート・マッコールより仕事の早い耳鼻科さんでした。

これで晴れて自律神経失調症の疑いが強くなりました。
さあ心療内科にいこうかと思った矢先、新たなる壁が立ちふさがります。
ネットで調べてみると心療内科の食べログみたいなサイトを見つけて、そこでやたら評価の高い場所があって、健常者であってもいってみるべきみたいなことが書いてあって、だったらそこにいこうと思ってみたものの、問題が一つ。
車で一時間くらいの距離にあるんですよ、そこ。
自律神経失調症にかかったことのある方ならご理解いただけると思うのですが、体に力が入らない、軽くめまいを覚えるなどの症状に加え、頭がふわふわするってのがあるんですよ。
本当にふわふわとしか表現できないもので、頭の中が焼きたてのシフォンケーキになったみたいになるんですよ。
それは本当に不意打ちでやってくるので、運転中にそうなって意識が飛んで事故が起きるとしゃれにならないじゃないですか。
私がどこかで勝手に一人でのたれ死ぬなら問題ないけど、人様を巻き込むことはできません。
それにちょっと前に夫をなくしているのに、それからほどなくして息子もいなくなると、さすがに母は悲しむと思い、さてどうしようと。

こういう装置一発でなおしてくれたら早いんですけど。

それで考えた結果
『自律神経失調症 なおし方 自力で』で検索ですよ。

複数のサイトを見て、共通している項目だけを試すことにしまいた。
とにかく早寝早起きを徹底して、適度な運堂とバランスのよい食事。これを繰り返す。
それまでは不摂生のテーマパークみたいな生活をしていた私にとって、深夜十二時より前に寝るのなんて中学生のとき以来でした。
結果が出なくても絶望しないでとにかくなおると信じてつづけることが大切と書かれていたので、それを信じてつづけた結果、五月の終わりくらいから体調の回復を実感しはじめて、九月くらいにはこれといった症状も出なくなり、それ以降、極めて健康であり快復を確信した次第であります。
なにより集中力が戻ったのが嬉しい。
この感想文の日付を見ていただければわかるように今年の一月から書いているのですが、冒頭の女子高生に自転車を寝取られたところで一年近くとまっていました。
それより下は昨日と今日の二日で書き上げています。
やっと調子が戻りました。ありがたい。

一年前の私

現在の私

私の苦しんでる様子なんて私ですら読みたくないので、おもいっきり省略しておりますが、自律神経失調症になった最初の二週間が本気で地獄でして、生まれてはじめて死んだ方がマシという心境になりました。
それを救ってくれたのが、三秋縋先生の『恋する寄生虫』でして。
ねたきりの体勢だけど眠れないので近くにあったそれを手にとって適当にページを開いて読んでたら、ああ、そうだよな、そういうことだよなって、そのページに書いてあったことがやけに共鳴してきてボロボロ泣けてきて、それが起き上がる力になったんですよ。
別に本だったら何でもよかったのかもしれませんけど、そのときの私を立たせてくれたのは恋する寄生虫だったんですよ。
泣くのは自律神経失調症改善に効果ありとのことなので、同じ症状で苦しんでいるみなさんには規則正しい生活と恋する寄生虫をおすすめします。あとマリオオデッセイも。

そうそう。調子も戻ったので三秋先生の新作『君の話』の読書感想文を12月19日にアップする予定です。実はもうほとんど書けてもいるのですが、12月19日にアップすることに意味があるのです。
その日が何の日か説明はいりませんよね?
そう、早見沙織さんのセカンドアルバムの発売日です。
もともと私が三秋先生の本を買うようになったのは早見さんのライブにいけなかったのがはじまりなので、ある意味で記念日です。
それに早見さんが12月19日にアルバムを発売するというのにはもう一つ、大きな意味があります。
私の誕生日って12月20日じゃないですか。
つまりこれは早見さんの歌声を聞きながら自分の誕生日を迎えられるという最高のシチュエーションを早見さんが用意してくれたというとじゃないですか。
これに関してはスカリーも「yes」と言ってます。

前に進むために、あるいは立ち止まってしまったことにおびえることはないと知るために物語は必要です。
物語なんて最終的に何かを得るか失うかの二種類しかないといいます。
だったら小さなころに聞かせてもらったあれとあれでことたりるかといわれれば、まったくもってそんなことはないわけで。
栄養と同じで、同じようなものばかり体に入れていれば飽きるしバランスも偏って体調によろしくありません。
同じものしか並んでいないお店には新規のお客さんがやってこないので、先細りは明らかです。
強い鼓動となるのは新しいものだけであり、新しいものがあるからこそ古いものは寂れていくのではなく、歴史という新しい価値が与えられるわけでして。
だからこそ人は新しい物語を追求していくべきなんです。

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あなたが順風満帆な人生をおくっていようと、もう何年も相変わらず同じ悩みを抱えていたとしても、あなたの中の物語の種が芽を出す瞬間は必ずあって、きっとそれは表現するべきだと思うんです。
絵や文字や歌やゲームや動画でなくても、挨拶や仕草にその物語をのせるだけで世界は今よりほんの少しだけよくなる。そう信じています。

ある日、私のツイッターに流れてきたこのつぶやきを見て
こんな物語が生まれましたよ。

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