息苦しさの正体
どこで何を書いても、なんだか息苦しい。
というのは、私自身が、自分のことを開示することが苦手だからだ。でも、書きとめておくことはしたいし、どこか知らない誰かにそれを読んでもらうことも望んでいる。
最近は匿名だったはずの活動に関して、本当の私を知る人が出てきた。それはすなわち、私が笑顔でいるとき、なんでもない顔で生きているつもりのときに、本当はこんなことを想って、こんなことを考えていたということが、知られてしまうと言うこと。
なんてやっかいだと思う。どこにも書きとめることが出来ない。そんなことを思う。でも、まあ、見たいなら見ればいいと言うそういう気持ちもあるし、知っておいてほしいと言う気持ちもある。
つまりは、その時そのときによって感情が違う。人間とはそういうものなのかもしれない。
あまりパーソナルなことを書くと、人を傷つけてしまうかもしれない。これもまた、つながりがあるとやっかいなことだ。
そんな小難しいことを考えてしまうのは、私は他人の気持ちを、知ることもできないようなことを、気にしてしまうからだ。その根源はなんだろう? それは、自分の知らないところで人を傷つけたくないということ。そして、嫌われたくない、なんて。そんな感情が出てくる。
おかしいでしょう? 普段はそんなことかけらも思わないつもりなのに、深掘りすると知らない自分が出てくる。面白い。
まあ、私をしっているあなたが、わたしの記事を読んでも別に自由なのだし、どうぞと思う。でも、ひとつだけ約束してほしい。
それは、「私本人に、その記事の内容について触れないで欲しい」。
そして、そのことについて極力、「他人に話題を振らないでほしい」。
ただそれだけだ。
こんなことがあった。
私はいわゆるパワハラで鬱状態になった。それは、誰にも言ったことのなかった事だが、自分の中の整理として、セラピーとして、facebookという極めてクローズな場で、限定でひそやかに書いた。その時点では、私にとっては過去のことなのだ。ただ、気心が知れた知人や友人たちに、どこか知ってほしい気持ちがあったのだ。
それについて、ひとり。美容師をしている人が、「私が書いたこと」を、「私の知らないところで」、私が彼女に紹介して、客としてきた新しい仕事場の人に、「ぺらぺらと話した」。
そしてそれを、「新しい仕事場のひとが」、私に、「私の極めて個人的なことについて意見を述べてきた」。
私が悪いのだ。だって、公開した時点で、そうなることはあり得るのだから。でも、私の中で、そういうことはぺらぺらと他人に喋らないだろうという価値観があった。しかし、他人にとっては、その彼女にとっては、そのような価値観はなかったようだった。
ひとは信頼を積み上げるのは時間がかかるというが、信頼を失うのはあっという間だ。つまり、彼女は私と言う客を失ったのだ。そして、私は、彼女という友人を失った。そういうことだ。
どうしようもない孤独を抱える時、どうしようもない怒りを抱える時、どうしようもない気持ちが沸き出た時に、わたしは文章を書きたくなる。
自由にただ書きたい。そしてそのことに関して、触れないで欲しい。
私はただ、自分勝手に、自分の心の柔らかいところをさらけ出している。
そしてそれは、私が私のために書いてるだけなのだ。
ただ、それだけ。