Lu Yang exhibition
シアトル出身の美術研究者Jeremyに誘われてLu Yangという人の展示に行ってきた。4つのビデオアートといくつかその撮影に使われた小道具などが展示されている。彼女の作品が現代美術として成立しているのは、その極彩色で強烈な作品群の根源にあるのが人類の現代的状況へのアートを使ったひとつの提案たりえているからである。まず普遍的問題、死、あるいは生、そして宗教的テーマ(死後、あるいは救済)といった問題を中心にすえている。ガラクタじみたオブジェクトでできたシンメトリーな祭壇は昨今の美術の意匠をまとっているがしっかりとアジアの宗教美術のスタイルを引用し、さらに数限りないポップカルチャー的引用が強烈なめまいを引き起こす。
重要なテーマは認識器官としての脳にたいするフェティッシュな執着で、その臓器そのものの全能性、つまり脳こそが世界であるという一種の、いまここに立っている自分という存在を疑わざるを得ないような転換を起こすようなしかけがちりばめられている。 その際に使われるのが科学である。死とは脳が機能停止するということであり、脳が機能停止することは脳内にある器官が物質の分泌をやめることである、というような説明によって徐々に我々が認識している生、生きているということの実感が単なる物理現象に過ぎないということに気づかせたうえで、作品は仏教上の死後世界までも描く(ちなみに生まれるときはキリスト教からの引用であった)。仏教哲学に明るくないが、罪を犯したものは地獄へ行き苦しみ続ける。脳機能の停止からその苦しみまでの描写まで(たしか最後は串刺しになっていた)が、死の描写によって麻酔を施された感覚ではさほどの断絶がないように感じられる。
もうひとつのテーマとして、身体改造があげられる。作品では脳にプラグを挿入し薬を注入すれば、人は解脱も可能であろうことを、科学めいた意匠で提示しているのだが、その科学万能主義的なグロテスクさは、倫理と対決している科学の欲望を戯画化しているようだ。今回日本のアイドルがその作品に参加していたのだが、彼女もまた身体を、つまり顔をデザインすることを繰り返した過去を告白していたのを今日知って、腑に落ちた。身体をデザインすることはかなり一般化されており、どのようにも存在できるという可能性の提示、それはある意味ではユートピアとして、それゆえにエネルギッシュに表現されている。
もうひとつ、神の存在について、インドのシヴァ神と日本の風神雷神とが、格闘ゲームよろしく3DCGで踊っている。ここだけシヴァ神と比較すると風神雷神は信仰対象でないのがすこし違和感があったが、神が苦しむ民草のアイドルであったとすれば、現代のわれわれにはこのような姿であるべきであろうと感じられるのだ。それはキャンバスではなく、液晶画面に映り、かく動くべきであろう。その救いの軽薄さは世界が表参道の路上にころがる卵の殻のなかの水たまりのようにもろいものだと告げている。
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