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忠義に生きた奥州の智将 片倉小十郎景綱

こんにちは。 まさざね君です。

今回は、私の大好きな武将・片倉小十郎景綱について書いてみようと思います。

実は、誰について書いてみようかなとネットで検索していたとき、YouTubeで芸人「れきしクン」の『(勝手に)れきしクン的 戦国軍師ベスト10』というのがあって、そこに大好きな片倉小十郎景綱が上位に選ばれたのが決め手でした。

この戦国軍師ベスト10の内容は、軍師を〔統率〕〔政治〕〔人望〕〔軍略〕〔忠義〕の5項目で評価したのを点数化して総合得点の低い10位からランキング発表していくものです。

れきしクンが、それぞれの順位の軍師について解りやすく噛み砕いて説明していたので、凄く参考になりました。

さて、順位ですが1位は片倉小十郎景綱だろうと予想していましたが、松永久秀が10位(結構シブい! 笑)、8位が直江兼続(軍略の評価が低かった?!)など次々と発表され、片倉小十郎景綱はというと残念ながら2位でしたぁ。

栄えある1位は、今川義元に仕えていた太原雪斎と発表されました。

これには「えっ?! なぜに? そうくるか~。」などと独り言してしまいました。

ただ、これはあくまでも「れきしクン的」の評価なので、これはこれでありですね。


片倉小十郎景綱に戻って、
伊達正宗と片倉小十郎景綱の関係といえば、ただの主従関係というよりも一心同体といっても過言ではありません。

景綱は、正宗のために生き正宗のために忠義を尽くした(軍師ではなく)名参謀だったと思います。
《軍師というのは戦国時代には存在しないので参謀とします。 軍師という名称は、江戸時代に講談の一種(軍記読み)で使われていたらしいです。》

この2人に関するエピソードは沢山ありますが、今回は『人取橋の戦い』『小田原参陣』を景綱と政宗の回想録みたいにして書いてみました。

また、政宗の優秀な家臣は伊達三傑と呼ばれていて、その3人は智の片倉景綱、武の伊達成美、吏の鬼庭綱元でした。

伊達成実、鬼庭綱元に関しては、別の機会があれば書いてみたいなと思っています。

ただ、この2人は、政宗とぶつかって一度出奔してしまうのですが。(笑)

では、これから本編に入ります!

はじまり~♪


忠義を尽くした奥州の智将 片倉小十郎景綱

片倉小十郎景綱(以降:景綱)
「また同じ夢を見た。」

病で床に伏していた景綱は、目を覚ますたびに同じ様な事を呟いていた。

今が何時なのか気になり外を見ると、秋から冬の変化を表すような夕焼け空が広がっていた。

空の色は、夏の夕焼けとは異なる鮮明な赤色で、まるで夢で見た色のように映った。。

景綱が繰り返し見る夢は、決まって『人取橋の戦い』『小田原参陣』なのだ。

主君・政宗とは誰よりも苦楽を共にしてきたからこそ、夢にいろんな思い出が現れても良いはずなのだが、、、。

景綱は、なるべく思い出さないようにしていたのだが、この2つの夢には、政宗の父・輝宗と実弟・小次郎の死という共通点が深く絡んでいるのが原因かもしれなかった。


しばらく夕焼けを見ながら思いに馳せていると、、、
景綱のもとに家臣がやってきた。

家臣
「伊達の殿様(正宗)が、大阪討伐へ向かう途中に景綱様のところに立ち寄るとの知らせが入りました。」

景綱
「あいわかった。万全の準備をして殿(政宗)を迎え入れてくれ。」

景綱の心配は現実化しました。
1614年10月1日、家康は「方広寺」の鐘銘に対して強引な難癖をつけて、豊臣征伐を諸大名に宣言して出陣の命令を出したのでした。
いわゆる『大阪冬の陣』です。
これにより豊臣家は崩壊の一途を辿るのでした。


10月10日に伊達軍は、大坂に向けて出陣しました。

翌11日に政宗は、景綱の居る白石城にお見舞いも兼ねて立ち寄ります。

体の不自由な景綱は、不甲斐なさを感じながらも政宗と会うことを楽しみにしていました。

正宗は、景綱の寝ている傍らに腰掛けて手をギュッと握ると

政宗

「景綱しっかりしろ! お前はワシの側にいなくてはダメじゃないか。 今一度、ワシと一緒に戦でひと暴れするのだからな。」

景綱
「殿からの身に余る温かいお言葉を頂けるなんて、大変ありがたく仕合せに思います。」
「しかし、こんな体になってしまって、ご一緒できないとは悔やしくてなりません。」
景綱は、政宗に申し訳ない気持ちで一杯になり目頭が熱くなりました。

景綱
「殿に同行することが出来ないので、代わりに息子・重長が参陣となりました。勇ましいだけが自慢の息子ですが、戦場では存分に使ってやってください。」

政宗
「重長のことなら心配ない! 今では父親譲りの働きをみせているぞ。」
「他に聞きたいことや話しておきたいことはないか?」

景綱
「実は、、、。 私事ですが、この体になって床に伏せる様になってから繰り返し同じ夢を見るようになりました。 もしかしたら、自分の死が迫っているのかもしれません。」

政宗
「景綱、何を言うのだ。お前らしくないぞ。」
「ところで、その繰り返し見る夢が気になるな。 それはどんな夢なのだ?」

景綱
「それが、決まって『人取橋の戦い』と『小田原参陣』の時の夢なのです。」

政宗
「それは、どちらも伊達にとっての一大事だったやつじゃないか。」
「どちらに転んでもおかしくない状況の中、景綱のおかげで本当に救われたと思うぞ。」
「景綱、大坂の戦さ前に気持ちを改めくなった。お前が見た夢をワシに語ってくれないか?」

景綱
「殿、、、。 承知いたしました。」

【人取橋の戦い】

~人取橋の戦いまで~

1584年、会津の蘆名家は、当主(盛隆)が死去したため後継ぎを巡って内紛の危機に直面していました。

父・輝宗から家督を譲り受けた伊達政宗は、積極的に勢力拡大を推し進めていたこともあり、蘆名家の内紛は伊達家にとって好都合だったのです。

そこで、政宗は伊達領に接する大内定綱に自分の家臣となるように迫りますが、拒否され蘆名家の領地に逃げられてしまいます。
それを知った政宗は、大内定綱と姻戚関係だったということで、同じく伊達領に隣接する畠山義継に対して突然攻撃をしかけたのです。

畠山義継は、圧倒的な兵力に何もできず、政宗の父・輝宗に仲介に入ってもらい降伏します。

ただ、政宗から出された降伏条件は、領地のほとんどが没収されてしまうという内容であったため、畠山家にとっては納得がいかないものでした。

畠山義継は、仲介してくれた政宗の父・輝宗の所に面会に訪れて、領地について政宗への取り成しを頼んだが輝宗から良い返事はもらうことは出来ませんでした。

1585年11月29日
再度、畠山義継が仲介の礼のため輝宗を訪ねてきたので、政宗の重臣である伊達成実、留守政景も同席させて会う事となりました。

降伏条件を受け入れるという事で話がまとまり、談笑しながら畠山義継らを館の門前まで見送った時に事件が起きたのでした。


~父・輝宗の殺害~

談笑しながら門前まで近づくと、突如、畠山義継が脇差(短い刀)を抜いて、輝宗に切っ先を突き付けたのです。

義継
「騒ぐな! 騒げば輝宗の命はないと思え!」
と叫びながら、義継の太い左手は輝宗の首を締めつけました。

伊達成実が、咄嗟に動こうとすると
「えーい! 動くんじゃない! これ以上動けば輝宗を斬る!!」
と周囲を固めていた義継の家臣たちも怒鳴り始めたのでした。

留守政景
「義継! 降伏条件に応じておきながら、狼藉(ろうぜき)を働くとはどういうことだー!」

義継
「うるさいわ!! 文句を言うなら政宗に言え! 畠山家の領地があんなに削られたのでは、どうやって家臣達を養えというのだ!」

義継は、これまでの不満をぶちまけるように大声で罵倒しながら、輝宗を門外に連れ出し、輝宗を用意していた馬に拘束して連れ出したのでした。


この報せは、鷹狩りに出ていた政宗にもすぐに伝わったのです。

政宗は、
「義継!!  ナメたことをしやがって!  絶対に許さんわー!」
と叫ぶや否や、政宗や景網たちも馬で直ぐに追いかけたのでした。

義継を追いかけていた伊達成実らは、人数では勝っていたが輝宗が拘束されているため何も手出しが出来ず、ただついていくだけだした。

阿武隈川を渡られてしまうと畠山の領地になるところまで来たとき、政宗たちが追い付きました。

政宗が到着したことを知った輝宗は、
「ワシを助けようとは考えるな! ワシもろともコイツ等を討て!!」
と政宗に向って何度も叫びました。

父・輝宗の突然の発言に、血の気の多い政宗もさすがに躊躇(ちゅうちょ)します。

しかし、ここで逃がせば伊達家の存亡にかかわることを知ったうえで、政宗に訴えてきたことを理解して苦渋の決断をします。

畠山義継らに向かって銃を構えていた家臣に
「放てー!!」
政宗の怒号とともに鉄砲は一斉に轟音を響かせたのです。

それと同時に伊達成実らは激しい怒りとともに、畠山義継に襲いかかりました。

政宗は、
「コイツが父上を!!」
と繰り返し叫びながら、畠山義継を死しても、なお切り刻んだのでした。

景綱
「私は、あの時、義継の死骸を叫びながら切りつける、殿を見て、かける言葉が見つかりませんでした。」
「輝宗さまは、一族や母親からよく思われていなかった殿をいつも庇ってきてくれていたので、その命を奪った義継に対する憎しみの深さは如何ばかりだったでしょう。」

政宗
「ワシは、あの時に[討て!]と命令して良かったのか、他に手段は無かったのか今でも答えが出ていないのだ。」

景綱
「あの時の判断は、間違ってなんかいませんでした。あーするしかなかったのです。」

~弔い合戦~

政宗は誰も近づけぬほど消沈し、仏壇の前からも動くことなく数珠を握りしめて独り言のように、般若心経を唱え続けていました。

その姿は、父の極楽往生を願うのとは程遠いもので、爆発しそうな怒りを抑えているふうでもありました。

輝宗の初七日が明けた1585年12月6日、政宗は1万2千の軍勢を率いて畠山氏の居城(二本松城)に攻めかかります。

政宗は、この出陣について景綱には事前に伝えていました。

政宗
「景綱。 ワシは、どんなことがあっても畠山を許さん。アイツら一族全員を殲滅する! だからワシに何も言うな。 わかったな!」

景綱
「殿のお気持ちは十分わかっております。 私も弔い合戦にお供いたします。」

しかし、二本松城は山全体が要塞化した難攻不落の城だったため、伊達軍は攻めきれずにいました。

政宗
「いつまでも何をしているんだ! これは弔い合戦という事を忘れたのか!」
「ワシが城の近づきかたというのを見せてやるわ! 誰か馬を持ってこい!!」
と家臣たちを叱責しました。

景綱
「殿! あれは難攻不落と言われている堅固な城。 やがて兵糧が無くなり敵兵の心が折れるはずなので焦りは禁物です。」
「ここで焦って討ち死にしてしまっては、何のための弔い合戦なのか今一度冷静になって下さい。」

政宗は、景綱の言葉で我に返り、何とか落ち着きを取りもどしました。
しかし、その後も戦況は変わらず時間だけが過ぎていきました。

さらに、未明より降り始めた雪が膝下まで積り、全く止む気配もなかったため、一旦兵を引かせることにしました。

その後も天気の悪い状態が続いていたため、畠山攻めを出来ずにいたところに、最悪となる悪い知らせが入ってきました。

~伊達包囲網~

なんと二本松城の畠山が、常陸国(北関東・茨城県)の佐竹義重に援軍の要請を出すと、それに応じて大軍を率いて須賀川城(二本松城の近く)に入城してきたのでした。

この佐竹義重は、猛将ぶりから鬼佐竹とも呼ばれており、武勇だけでなく源氏の血を引く名家でもありました。

さらに悪いことに佐竹義重は、会津の蘆名氏や伊達に対して危機感を持っている諸大名にも声を掛けたので、その数は3万までに膨れ上がったのでした。

対する伊達軍は、総勢1万2千の中から5千を畠山の籠る二本松城包囲に割かなくてはいけなかったので、7千の兵力で3万の佐竹を中心とする連合軍と戦わなければいけなかったのです。


これにより窮地に陥った伊達家では、緊急の評議(会議)が開かれました。

伊達成実
「なんの心配もない! アイツらは大軍といっても所詮は烏合の衆。 何を恐れることなどあるものか!」
と伊達家の猛将が自信をみせるが、他の者の顔は最悪の状況に対抗案も出ず強張っていました。

戦のベテランである宿老たちからは
「この数では分が悪いので、一旦引いてから再起を狙ってはどうでしょう。」
「敵の数を知れば、我が兵は萎縮してしまって、実戦で使いものにならなくなると思われます。」
などの意見が多数であった。

このようなやり取りが暫く続いたので政宗は、終始沈黙していた景綱に意見を求めました。

景綱
「今は、敵のおおよその数だけで、どのように兵を進め、何処に陣を敷くかなど分かってないところで、このような話をしていても埒(らち)が明かないと思われます。」
「敵の様子について詳しく調べることが、先決ではないでしょうか?」

政宗
「景綱の言う通りだ。 次の評議(会議)までに情報を集めよ。 以上!」
評議(会議)は散会となりました。


その夜、政宗は景綱を居間に呼んでどうすべきか話し合いました。

政宗
「先ほどの評議で、自分の考えをハッキリ言わなかったが、実際のところどう思っているのだ?」

景綱
「殿は、何でもお見通しですね。」
「この戦は、誰の目から見ても厳しい戦というのは間違いないですし、伊達家の存亡をかけた戦いとなると言っても過言でないです。」

政宗
「ワシもそう思うが、、、。 父上の弔い合戦も終わってないのに、ここで負けて伊達家が壊滅したとなっては身の蓋もないぞ!」

景綱
「相手が大軍なので上手くいくどうか難しいですが、寡勢(少ない兵力)で勝つには相手よりも先手を打つしかありません。」

「兵を分散させて、それぞれが城に籠るふりをして総攻めをしてきたところに分散していた兵で挟み撃ちするのです。」

「もう一つは、黒脛巾組(伊達家お抱えの忍び集団)に働いてもらいますが、これは最後の砦になるかもしれないので内密にお願いします。」

政宗
「あいわかった! 今の話を聞いて、なんだか負ける気がしないような感じがしてきたぞ。では、明日早く皆を集めて直ぐに取り掛かる。」

~人取橋の戦い~

1586年1月6日
翌早朝に皆を集め、景綱から作戦の説明が行われました。

その作戦に消極的な意見も出たが、他に対抗できるような案が出なかったため、政宗が
布陣を発表しました。

伊達軍がそれぞれの場所で待ち構えていると、佐竹義重を大将とする連合軍は三方に分かれて一気に攻めてきたのです。

三方に別れて攻めてきたことにより、景綱の予想が大きく外れしまいます。

伊達軍の支城は瞬く間に落とされ、分散していた隊の敗走も相次ぎました。

それでも、伊達一番の猛将・伊達成実の隊は、粘りを見せますが非常に厳しい状態にありました。

分散していた伊達の隊を破った敵の大軍は、伊達の本陣を攻めるために本陣近くの人取橋に集結してきましたが、それを死守しよう伊達軍も奮戦したため人取橋一帯が激戦地となったのです。

いよいよ連合軍が本陣前まで迫ってきたため、伊達軍の敗色が濃厚となってきました。

伊達軍大将の政宗もこの時、鎧に矢1筋、銃弾を5発受けていました。

そこで、政宗を逃がすために鬼庭左月斎が殿(しんがり:最後尾で迫ってくる敵を防ぐ役割)を務め、敵陣に突入して奮戦します。
しかし、猛将と言われた左月斎も老齢のため重い鎧を着けずに戦ったこともあり、老体に数本の槍の穂先が貫き絶命してしまいしました。(享年:73歳)


戦場の報せは、景綱のもとに次々と届けられていました。

家臣
「報告! 鬼庭左月斎殿、、、。人取橋にて討死!」

景綱
「左月斎殿が逝かれたか、、、。いいかー! 者ども、殿を守ってくれた左月斎殿の仇を討つのだー!!」

景綱の兵たち
「うおおおーっ!!」

その時、左月斎を討った連合軍がこちらに気がついて一斉に向かってきたのです。

景綱は、連合軍に向けて鉄砲を構えさせ、確実に仕留めるためにギリギリまで近づけ
「放てー!!」
の号令とともに連合軍に向かって一斉射撃されたのです。

辺りは轟音と煙に包まれましたが、視界が開くと倒れている屍を乗り越えながら連合軍の兵たちが景綱たちの近くまで迫ってきたのでした。

ここが崩れてしまえば、政宗の本陣までは半里(200m)もないため、何としても死守しなくてはなりませんでした。

だが、こことは別に佐竹義重の本隊と支城を落とした連合軍の隊も人取橋から本陣を目指していたのです。

敵軍がいよいよ本陣前まで差し掛かかると、政宗は采を振り下ろします。

政宗
「者ども! 今こそ、伊達の底力をみせるのだ!! 一人でも多く討ち取って、コイツらに目にもの見せてやれー!!」

本陣の兵たち
「うおおおおーっ!!」

雄叫びとともに本陣の兵たちは、連合軍に突進していくのでした。

佐竹ら連合軍との衝突が始まると、弦月の前立てを付けた兜の政宗を発見した連合軍の兵たちが、大将首を得るために次々と凄い勢いで攻めてきました。

政宗は、向かってくる敵を次々と斬り捨てていましたが、相手の勢いは一向に止まりませんでした。

そこへ、政宗が連合軍に打って出たと報せを聞いた景綱たちが、政宗の救援のために自陣を引き払って合流してきたのです。

景綱は、政宗と向かい合うと周囲に聞こえるように突然叫びだしました。

景綱
「景綱!! 助けに来たぞー! 政宗は、ここにいるからな!」
と咄嗟の判断で身代わりとなり敵を自分の方に引き付けたのでした。

政宗は景綱の咄嗟の判断を理解し、これを無駄にしないように退却を決意しました。

退却する政宗たちを追いかける連合軍でしたが、殿(しんがり)を務めた原田宗時たちの奮戦により無事退却することが出来ました。

また、日が落ちたこともあり、今日の戦は明日に持ち越しとなったのです。

この激しい戦によって両軍に多大な犠牲者がでましたが、数で勝る連合軍の勝利といえました。

~戦に負けて勝負に勝つ~

景綱
「殿、ご無事で何よりです。」

政宗
「景綱。ワシは連合軍に負けたのか?」

景綱
「初日に関しては、負けを認めざるを得ません。 殿、ここから勝てば良いのです。」

「今こそ、黒脛巾組に動いてもらいましょう。 明日になれば形勢は逆転しているはずです。」

政宗
「よし頼んだぞ。 戦は、最後に勝ったものが勝者だからな。」

一方、連合軍の陣中では、勝利の酒宴が開かれていたが、飲み足りなかった佐竹義重の叔父・小野崎義昌は、近くから女性を搔き集めて、酌をさせるなどをしていました。

その女性の一人に黒脛巾組の者が紛れ、スキが出来た瞬間に小野崎義昌の脇差を抜いて急所を刺して絶命させると、スキを見て逃亡したのです。

更に連合軍の諸大名の中に裏切り者がいるとの流言が、同時に数か所から流れ始めたことで諸大名の陣内で混乱が起き始めていました。

そこに追い打ちをかけるように、翌早朝になると叔父・小野崎義昌の仇討ちの準備をしていた佐竹義重のもとに、常陸国で留守居をする義重の長男・義宣から、北条(神奈川・相模)や里見(千葉・南房総)の連合が常陸国へ侵攻の準備をしているので、早急に帰ってきてほしいと連絡が入ったのでした。

この一大事に対応すべく佐竹義重は、急いで陣払いをすると帰国していきました。

大将が居なくなった連合軍は統率の取れない烏合の衆となってしまったため諸大名も次々と帰国していったのです。


政宗
「景綱、これはどういうことだ? 連合軍がバラバラに帰っていくぞ?!」

景綱
「殿、私にもわかりません。 しかし、相手が撤退したという事は、伊達の勝利ということになります。」
「まさに、戦に負けて勝負に勝つですね。」

政宗
「そういうことになるな。 ということは、ワシらは大軍を追い返したことになるな。」
「皆の者、敵に聞こえるように勝鬨(かちどき)を上げるのだー!!」

伊達軍
「えい、えい、おおーっ! えい、えい、おおーっ! えい、えい、おおーっ! ・・・」

しばらくの間、伊達軍の勝鬨が止むことはありませんでした。


政宗
「景綱、あの時は本当にダメかと思ったぞ。 一夜明けて、あそこまで形勢逆転するなんて奇跡としか言えないな。」

「黒脛巾組の奴らには何と命令したのだ?」

景綱
「相手を混乱させて少しでも戦を長引かせてくれと伝えただけです。」

「黒脛巾組の者たちが状況を判断して行動したことが予想以上の結果を招いたのでしょう。」

政宗
「九死に一生をえるというのは、まさにこの事よ。」

「このあと郡山合戦で連合軍と再度戦うことになるが、あれも激戦だったな。」

景綱
「そうでございました。 そのあと摺上原の戦いで蘆名家に壊滅的な打撃を与えることが出来たので、念願の会津一帯も我々は手に入れることが出来ました。」

政宗
「これでワシも天下取りの仲間入りが出来ると思ったが、すでに巨大な勢力となっていた秀吉に本気で戦に挑むのは厳しかったな。」

「ただあの時、景綱からの助言がなければ小田原参陣はなかったかもしれなかった。」

「そして、小田原参陣前の出来事については、あまり思い出したくないが、、、。景綱、お前にも嫌な思いをさせてしまった。」

景綱
「殿、、、。あれは、伊達家を守るためには仕方のなかったことです。 そうしなければ、伊達家で内紛が起きたのを良しとする隣国(最上家など)に襲撃されて、それこそ滅亡の危機に瀕していたと思います。」

政宗
「お前に、そう言ってもらえると助かる。」


【小田原参陣】

人取橋の戦いの後も再び連合軍と衝突したり、各地で戦を繰り返してきましたが、片倉景綱、伊達成実、鬼庭綱元など若手重臣の躍進もあり、勢力拡大に転じていきました。

そして、宿敵・蘆名氏に対して[摺上原の戦い]で壊滅的な打撃を与えて蘆名氏を滅亡させ、念願である会津地方一帯の制覇をはたしました。

これにより伊達政宗は、南奥州(南東北:福島・宮城・山形の一部を除く)の覇者となり、奥州一の大大名となるのです。

しかし、伊達の快進撃は長くは続きませんでした。

[本能寺の変]の後、勢力を拡大して四国、九州の征伐を終えた豊臣秀吉は、関東一帯を治めていた北条氏の小田原征伐を開始したのでした。

そこで、秀吉は自分の力を誇示すべく東北の諸将にも参陣の要求をしてきました。
政宗の所にも例外なく届いていたのです。

ただ、参陣するかどうかの前に伊達家には大きな問題が一つ残っていました。

秀吉が全国の諸将に向けて発していた戦国大名同士の私闘を禁じる[惣無事令]を無視して、政宗は戦をやって会津を制覇していたのでした。

これにより、もし小田原に参陣したとしてもどんな処遇を受けるのか分からない状況でもありました。

~小田原参陣の有無~

1590年の年明け早々、北条家と秀吉から書状を持った使者が頻繁に政宗の所に訪れるようになりました。

北条家からは、秀吉による北条征伐に対抗するため南奥州覇者の伊達政宗との同盟強化の要請。
秀吉側からは、上洛と惣無事令違反の謝罪でした。

政宗は、景綱と相談して両者に対して曖昧な対応を繰り返していました。

2月なると、秀吉側からの書状は上洛ではなく、小田原への参陣して謝罪すれば許すとの内容に変化していきました。

3月になると大将の豊臣秀吉も3万2千の兵を率いて小田原に向けて京を出陣したのです。

この北条攻めには、総勢24万を越える軍勢が小田原を目指して出陣しました。


秀吉側は曖昧な対応を繰り返す政宗に対して圧力をかけるべく、伊達の麾下(きか:家臣として従う)の諸将にも小田原参陣の要請を出してきたのです。

政宗の動向に不安を抱えた諸将が頻繁に訪れるようになったため、主だった家臣を黒川城(正宗の居城)に集めて評議を開くことになりました。

政宗
「ここに集まってもらったのは、小田原参陣についてである。大将の秀吉は、3月1日に京を出立したので、半月もすれば小田原に着陣するだろう。」

「この北条征伐に参加する兵は20万を超えると聞いている。」

「そこでだ。伊達としては、この大軍の数を聞いて秀吉に屈するのか敵対するか決めなくてはいけない。皆の者から何でもよいので意見を聞かせてもらえないか。」

伊達成実
「殿、もう答えは出ています! 殿も幾度の催促に従わなかったではないですか?」

「ここで、おめおめと参陣すれば、秀吉の思うまま。 難癖をつけられて首を討たれるだけですぞ! ここは、北条と同盟を結んで伊達の力を見せてやるときです。」
と口火を切ると、鬼庭綱元、白石宗実などの若手側近からも主戦論の意見が多数を占めました。

留守政景
「殿、伊達家の為にも冷静になって考えるべきです。 秀吉と一戦を交えるにしても人取橋の戦いとは、数も規模も比べものになりません。」

「ここは、直ぐにでも小田原に参戦すべきです!」
宿老と呼ばれているベテラン側近からは、参陣推奨論の意見で占められた。

伊達成実、鬼庭綱元
「年配の方々こそ冷静になって目を覚ませ! どこの出所か分からないハゲザルに奥州の名家である伊達家が何で従わねばならないのだ!」 

留守政景
「何をー! この小童(こわっぱ)どもが、戦を多少かじったからって粋がるな!」

こんなやり取りがしばらく続き、評議はいつも以上に紛糾を極めたのでした。

この間、景綱はというと人取橋の戦いの評議の時と同じように沈黙を決め込んでいたのでした。

それに気がついた成実は、同じく若手側近の景綱に同意を求めようと、

伊達成実
「景綱。 さっきから何も意見を言ってないではないか? お前の意見を聞かせてくれ。」

景綱
「私は、両方の意見に賛成です。ただ意見を言う機会を逃してしまったので黙っていました。」

「成実殿が言っていた関白公(秀吉)のハゲザルの顔を一度も拝見したことがないので、出来る事なら一度は見てみたいと思っています。また、関東と奥州以外を制覇した秀吉とは、どのような戦をするのか一戦を交えてみたいとも思っているのです。」

鬼庭綱元
「それでは、意見になってないぞ!」

景綱
「すみません。 もう少しだけ時間をください。」

結局、この日は意見がまとまらず散会となった。
その後、何度も評議が行なわれるが意見が2つに別れたまま平行線を辿り、ただ時間だけが過ぎていったのです。

3月26日になると、最終通告とも取れる書状を秀吉の使いが持ってきたため、政宗は決断するときが来ました。

前日も評議を開いたが、主戦派と参陣派で考えを主張するだけで結論が出なかったこともあり、政宗は景綱と2人で会うことにしたのです。

政宗
「とうとう秀吉から最終通告ともとれる書状が届いた。 評議は何度も開いたが、これ以上やっても結論は出ないだろう。」

「そこでだ、景綱の意見を是非とも聞かせてもらいたい。」

この時、政宗の中で既に結論が出ていたが、確認の意味で自分に聞いてきたのだと感じました。

景綱
「私が思うには、今の関白(秀吉)の勢いは伊達の勢い以上に巨大なものと言わざるをえません。」

「正直に言って現時点では勝ち目はないでしょう。」

「もし、関白(秀吉)と戦になって勝ったとしても勢力の規模を考えれば、関白の軍勢はハエと同じだと思いませんか?」

政宗
「秀吉の軍勢がハエ? それは、どういうことなのだ?」

景綱
「夏のハエは、いくら叩いて追い払っても後からどんどん集まってきます。」

「つまり、今の関白と戦って何度か勝ったとしても、次から次へと軍隊を送って来られたら、我々が持ちこたえられなくなるだけです。」

「ですので、今無理をして関白(秀吉)と戦ってもかなうわけがないのです。」

「そして、殿は24歳と、まだまだ若い。 一方の関白(秀吉)は、50をとうに過ぎていると聞いています。 そこで、ここは一旦天下を関白(秀吉)に預けて、屈した振りをしてみるのも在りかなと思われませんか?」

黙って聞いていた政宗は、突然大声で笑い出したのです。
それは、これまでの苦しみから解き放たれように清々しく見えました。

政宗
「景綱、お前は面白いことを言うなぁ。 関白(秀吉)の軍隊が夏のハエか。 気に入ったぞ!!」

「では、小田原に出向いて、関白(秀吉)の前で伊達の振りというのを演じてみるか。」

政宗も景綱と同じく小田原参陣を決めていたようで、これでハッキリと不安から決心に変わったのでした。

同日、待たせていた秀吉の使者に黒川城(会津)を4月6日に出陣することを伝え、家臣にも評議の場で小田原参陣の意向を伝えたのち出陣の準備に取り掛かりました。

~母上(お東の方)謀反の疑い~

景綱は、小田原出陣までの限られた時間の中で準備に追われて多忙を極めていました。

佐竹、最上家といった周囲の主力大名に対して使者を送って不可侵条約を結び、当主が留守中の安全を確保などにも奔走していました。

出陣まであと2日という時、政宗は誰にもわからないように景綱を居間に呼び寄せたのです。

政宗
「出陣前の忙しいときに申し訳ない。」

「実は、先ほど黒脛巾組から悪い報せが入ったのだ。」

「ワシが留守の間、弟の小次郎(13歳)を伊達家の当主にして、後ろ盾には最上義光(政宗の母・お東の方の実兄)がなるようなことで話しが進んでいるらしい。」

お東の方は、幼いころから政宗を疎んじていたが、小次郎のことは溺愛していたのです。

はじめこそ冷静を装ってた政宗だが、景綱に黒脛巾組の報せを伝え終えると、一気に感情が高ぶり怒りと悲しみで打ち震えたのです。

政宗
「これは、母上が中心となってワシを良く思わない者たちと手を組んで動いたに違いない!」

景綱
「このような伊達家にとって大事な時に伊達家が分裂するようなことをお東の方がするでしょうか?」

「殿が、ここまで苦労して伊達家を大きくしてきたのも十分ご存知のはずです。」

政宗
「ワシも初めは信じたくなかった。 しかし、このような時だからこそ無視することはできないのだ。」

「このまま見過ごして小田原に行けば、先回りされて関白に嘘の情報を流し、ワシを亡き者にすることも十分考えられるとは思わないか?」

景綱
「確かに殿の仰る通りかもしれません。」
「しかし、その報せが真実かどうか調べる時間がありません。明後日には出陣なのです。」

政宗
「そんなのワシだってわかっている!」

「実はな、、、。 明日だが出陣前に母上の饗応(おもてなし)を受けることになっているのだ。」

「これを利用しない手は無いと考えている。」

景綱
「殿、、、。 それでは、あまりにも母上様が、、、。」

政宗
「では、どうしろというのだ! 悪いが、こうなったのには母上にも罪がある。」

「伊達を守るためだ。 そのためなら、ワシは鬼でも何にでもなる!!」

景綱は自分に相談する前に既に決心していたのだと悟った。

そして、政宗は時折り見せる幼少期からの屈折した気持ちが幾重にも重なった哀しく恐ろしい暗黒の部分を漂わせていた。

そんな政宗を見るたびに景綱は、何もしてあげられない自分に不甲斐なさを感じるのだった。

~弟・小次郎の粛清~

翌4月5日の夕刻がおとずれた。

政宗は、饗応(おもてなし)を受けるため、お東の方の居る黒川城の館にいました。

これから惨劇が訪れようとは全く思っていないお東の方は、いつになく政宗との談笑を楽しんでいる様子でした。

食事が一通り出され、〆となる菓子を口にしていたとき、突然政宗は口を押さえて勢いよく戸を開けると勢いよく全て吐き出したのでした。

お東の方
「ま、、政宗。 どうしたのですか? だ、誰かー!」

お東の方は、不測の事態に対応しきれず困惑するばかりでした。

政宗
「直ぐに薬師(くすし)と景綱を呼ぶのだ。」

と悶え苦しみながらも近習(主君の側に使えるもの)に告げるのでした。

急ぎの使者が景綱の屋敷に駆け込んでくると、毒を盛られた政宗が景綱を呼んでいるとのことだった。

景綱は、政宗が本当に実行したのだと知り、複雑な思いのまま急ぎ登城しました。

居間に移された政宗は寝ていて、薬師と近習が付き添っていました。

景綱がやって来ると薬師と近習が席を外して政宗と2人きりとなります。

すると政宗は、目を開け上体を起こして景綱の耳元で告げたのです。

政宗
「もう後戻りは出来なくなった。 母上には申し訳ないが、、、。 ワシは伊達のために小次郎を粛清する。」

景綱
「殿、、、。 私がやります。」

政宗
「これは誰に頼むものではない。 ワシがやらねばならないのだ。これがワシの定めなのだ。」

「景綱、、、。 頼みが一つだけある。 ワシが小次郎を殺めるときに近くにいてもらえないか。」

「そして、騒ぎが大きくなる前に小次郎の傅役(護衛と養育を兼務する役)を成敗してくれ。」

景綱
「承知しました、、、。」

まもなくして、弟・小次郎が政宗の居間を訪れました。

小次郎は、寝ている政宗の傍らに腰をかけると政宗に優しく声をかけたのです。

小次郎
「兄上、お体の加減はいかがですか?」
小次郎が本当に兄の体を心配しているようにしか見えず、景綱は後悔と罪悪感に襲われました。

政宗は、苦しい表情をしながらゆっくり体をおこすと、小次郎の肩に手をのせて、自分の体のほうにゆっくりと小次郎を引き寄せました。

何も知らない小次郎は、笑みを浮かべたまま政宗に体を寄せていきます。
小次郎が、政宗の腰に手を当てた瞬間、小次郎の体が一瞬浮いたのでした。

政宗
「小次郎、ゆるせ!! お家のためと思ってくれ!」

政宗は、小次郎を抱き寄せた瞬間、脇差(小刀)を腹に突き刺したのでした。

小次郎
「兄上、、、。 どうして、、、。 私は、、、。」

苦しみながらも小次郎は何かを訴えようとしていたが、政宗はこれ以上苦しませないために引き抜いた脇差を心臓に突き刺したのでした。

政宗
「ゆるせー! 小次郎よ、ゆるせー!」

隣室で控えていた景綱が居間の戸を開くと、政宗が血に染まった小次郎を抱きながら悲痛の叫びをあげ泣き崩れていて、その様は歴戦を経験した景綱も初めて見る地獄の光景でした。

影綱は、異常を察して駆け込んできた小次郎の傅役を見つけしだい成敗しようとしていましたが、地獄の光景を見たまま何もできず逃げられてしまいました。

小次郎の粛清を知った、お東の方が血相を変えて駆け込んでくると、あまりの光景に半狂乱になり小次郎の遺体にすがりついて、政宗にこれ以上ない罵倒を浴びせるのでした。

景綱
「小次郎様は、小田原参陣を利用して殿(正宗)を亡き者にしようとした逆賊の中心だったのです。今回の件は、お東の方様にも少なからず責任があります。殿の小田原参陣が決まった後、実家の最上家と頻繁にやり取りをしていたことが伝わっています。そのようなことをしなければ、小次郎様は伊達にとって重要な重臣となっていたはずです。」

景綱は、政宗に代わって母上(お東の方)の行動を戒めるため正当性を伝えたのです。

しかし、失望のどん底にいるお東の方の耳には全く入っていないようでした。

お東の方は、その場を周囲の者に支えられ離れていったのです。
そして、翌日には数人の供を連れて最上(実家)の山形城に向かったのでした。

伊達 小次郎  享年:13歳

~一ヶ月遅れの出陣~

小次郎の粛清が伊達家中に広がると少なからず動揺が走り、小田原参陣を前に内紛の危機に見舞われましたが、景綱が政宗の正当性を重臣に説いて回ったおかげで内部分裂を免れることができました。

当初、4月6日に小田原に向けて出陣をする予定が、沈静化するまでに8日間も掛かってしまったため、4月15日に出陣となったのです。

ところが小田原に向かっている途中、不可侵条約を結んだはずの隣国の大崎氏が伊達領に侵攻する準備をしているとの報せが入り、政宗は引き返してしまうのでした。

帰城後、急ぎ調べると侵攻の動きがないことがわかりましたが、この後も同じような事を繰り返されれば小田原参陣は益々遅れてしまうことになるので、景綱は城代に伊達一番の猛将の伊達成実にお願いすることにしました。

しかし、成実は小田原参陣の評議の際、主戦派の中心人物であったため、今でも小田原参陣を良く思っていませんでした。

景綱は、小田原にて殿や自分達に万が一のことがあれば、成実が我々の仇討ちをして一人でも多くの豊臣兵をあの世に送ってほしいと何度も説得すると渋々引き受けてもらえたのです。

これで、隣国からの伊達領侵攻の心配がなくなり、参陣を公言してから一か月遅れの5月9日に改めて出陣したのでした。

この間、4月末になっても小田原に現れない政宗のもとには、秀吉側から矢のような催促がきていました。

また、京を出陣していた関白(秀吉)軍は3月末には伊豆、箱根の支城を次々と落城させて、4月3日には小田原城を包囲したのです。

秀吉は、小田原城を攻めようとはせず、小田原城を見下ろす山に巨大な城の普請(工事)を始め、城下には市などが立ち並び巨大な城下町の様相を呈していました。

これは、北条攻めに参陣した諸将に自分の力を見せつけて謀反を起こさないようにするための秀吉の作戦でもありました。

~小田原へ大遅参~

一か月遅れで小田原に向けて出陣した政宗は、黒脛巾組から秀吉が長期戦を考えているようだと報告を受けていたので、急いで南下はせず、生まれ故郷の米沢(山形)から越後(新潟)、信濃(長野)、甲斐(山梨)、駿河(静岡)と大回りして小田原に到着したのは、大遅参ともいえる6月5日でした。

政宗たちは、見晴らしのよい高台から小田原城の惣構え(城下町全体が要塞)の全貌を見ることができました。

小田原城は難攻不落と呼ばれるのに相応しい壮大な城郭で、政宗たちが今まで見てきた城とは比較にならないものでした。

ただ、それ以上に愕然としたのは、小田原城の周囲を取り囲み、彼方の海岸までギッシリ埋めつくしている圧倒的な関白の兵数の多さだったのです。

兵数は、人取橋で戦った佐竹連合軍の時とは全く比べものにならず、自分たちの無力さを思い知らされた気分になりました。

その後、使者を通して政宗の到着を伝え、秀吉との謁見を賜ったのですが許しが下りず、箱根山中の建物に幽閉されてしまいました。

幽閉から2日後の6月7日、秀吉との謁見の前に政宗の所に詰問の使者が訪ねてきたのです。

使者の前田利家、浅野長吉からは、鋭い内容の詰問が長時間にわたり続きましたが、政宗の理路整然とした答えに最後は納得して帰ってしまったのです。

詰問の間、景綱たちは後ろに控えていて何かあれば手助けできる状態でしたが、政宗が
終始完璧に答えていたので、当主の偉大さを感じずにはいられませんでした。

景綱
「殿! さすがでございます。 豊臣の重臣である前田様、浅野様を前に理路整然とお答えしている姿は、さすがとしか言いようがありません。」

「私など、心臓が破裂しそうでした。」

政宗
「豊臣の家臣ごときに臆してどうするのだ。 ワシは、伊達の当主であることを忘れたのか?」

「しかし、惣無事令違反に対する返答で、会津は、関白が参るまで預かっているだけで、いつでも引き渡すと言ったのは惜しまれるな。」

景綱
「確かに苦労して勝ち取った領地なので悔やまれますが、しかたのない事です。」

「関白が先程の報告を受ければ、殿を罰する理由がなくなったことになりますね。」

政宗
「いや、それはまだ分からないぞ。 関白は日の本一の曲者だから、謁見までに関白が驚くような策を考えておかなくては。」

景綱
「この景綱、関白が驚くような一世一代の大芝居を考えてみせます。」

政宗
「あいわかった。 景綱、頼んだぞ! 会津で美味しい酒を酌み交わそうな。」

景綱
「はい! では、失礼いたします。」

~秀吉との謁見~

6月9日、政宗は秀吉との謁見が認めらました。

政宗は景綱らと共に、完成が近い石垣山城に向かいました。

ただ、その謁見する政宗たちの恰好は、あまりにも型破りな出で立ちでしたが、同時に政宗の覚悟のあらわれでもありました。

政宗は、髷(まげ)を落として白装束(死装束)を着て、家臣に黄金の磔を背負わせ秀吉の前に参上したのです。

これが景綱の考えた、伊達一世一代の大芝居です。

謁見の場には、秀吉以外に豊臣重臣の徳川家康、前田利家などの諸大名も同席していて、ざわめきが起きたあと珍しい者でも見るように眺めていたのでした。

政宗は、秀吉の前に恭しく跪くと深く頭を下げ、事の成り行きを説明しました。

そして、ここからが政宗の振り(芝居)の見せ所でした。


ゆっくりと頭をあげた政宗は、秀吉に向かって
「もし、いま申したことに嘘偽りがあると思いなら、我らを用意した磔にくくり付け、如何様にも処罰していただいて結構です! 我々は、その覚悟で関白様の前に参上いたしました!」


暫く沈黙の時間が続いた後、秀吉がゆっくりと正宗に近づいて行ったのです。

秀吉
「伊達正宗! お前は、人を驚かせることが好きな奴だな。若いやつにしては肝も据わっていて、この場がどういうとこかも心得ている。」

「もう少し遅ければ、ここが危なかったぞ」
と言って、笑いながら持っていた杖で首を二回叩いたのでした。

政宗
「恐れ入ります。」
と言って深々と頭を下げ、恭順の意を示したのでした。

この後、景綱の謁見も許されると、秀吉は景綱に

秀吉
「お前が、片倉景綱か? お前の活躍は、噂に聞いているぞ。」

「そこで相談なんだが。 五万石をお前に与えようと思うのが、ワシに仕えないか?」

景綱
「大変有り難いお言葉でございますが、私は伊達家から与えられた領地で十分満足しております。」

「また、主君・政宗公に仕えるのが私の定めとしておりますので、ご理解いただきますようお願いいたします。」

秀吉
「ワシに仕えるのが、そんなに嫌なのか?」

景綱
「いいえ、決してそんなことはございません。」

「実は、政宗公が右目を患ったときに私がその目を抉り取りました。 ですので、その責任として私は、政宗公の右目となり仕えねばならないのです。」

秀吉
「あの政宗の右目を抉ったのは、お前だったのか!」

「政宗、よくそんなことをさせたな?」

政宗
「私は、他の者より見え過ぎていたようなのでしたので、今が丁度良いくらいです。」

秀吉
「丁度良いか。 政宗、実に面白い奴だな。 お前は、本当に良い部下を持ったな。 誠にうらやましいぞ!」

「景綱、お前みたいな武士の鏡の様な奴は嫌いではない。 これからも政宗のもとで忠勤に励んでくれ。」

秀吉は、景綱を褒めることで己の器量を同席していた諸大名にも示していたのです。

政宗は、一世一代の大芝居で謁見を無事終えることが出来たのでした。

翌日になると、政宗は秀吉の茶会の席に招かれました。

そこで、勢力拡大に尽力を捧げてきた会津、岩瀬、安積の領地を没収するという命令が下されたのです。

それでも本来の領地については安堵されたので、何とか事なきを得たのでした。

6月14日、政宗たちは小田原を発って帰途についたのでした。


政宗
「あの時の謁見は、ハラハラしたが今となっては良い思い出だな。」

「あの秀吉も亡くなり、今度は家康様の天下になろうとしている。」

「なんとも時代の流れというか、皮肉なものだ。」

景綱
「そうですね。 時が過ぎるのは早いものです。」

政宗
「では、そろそろ大阪に向けて出発しようと思う。 もう遅れるわけにはいかないからな。」

政宗の遅参をまじえた冗談に2人で笑いました。

景綱は、政宗と2人でゆっくり話して笑ったのは、いつの頃か思い出していました。

その後、景綱は、どうしても政宗を送りたいと言って、みこしに乗って門前までお見送りをしたのでした。

この大阪冬の陣で、豊臣家は崩壊の一途を辿る事となります。

次の大坂夏の陣にて秀吉の息子・秀頼と母・淀君が自刃したことにより、栄華を誇っていた豊臣家は滅亡して、265年間続く徳川の時代(江戸時代)へと時代が流れていきます。

景綱は、大阪夏の陣が終結した半年後の1615年10月14日に家族や家臣たちに見守られながら静かに亡くなりました。

享年 59歳

伊達正宗と片倉景綱は「血よりも濃い主従関係」で結ばれていたのでした。


~追記~

景綱に代わって大坂夏の陣に参加した重長(30歳)は、伊達軍の先鋒を務めることとなります。

戦が始まると一軍の将にも関わらず、自ら先頭に立って敵と刃を交え、かつて黒田家に仕えていた猛将・後藤基次(又兵衛)を討ち取り名声を上げるのです。

これ以降、周囲からは父に負けず劣らず勇猛な武将と認められ「鬼の小十郎」と呼ばれるようになりました。

ただし、それを知った景綱からは「一軍の将である者が直接刃を交えるなどありえない行為だ!」と叱咤されたらしいです。

また重長は、この戦で敗北した真田幸村に娘(阿梅)の保護を頼まれ、徳川に見つからないように匿いました。

その後、正室が亡くなると阿梅が重長の継室(再婚した後妻)として迎えられることとなります。


現在の片倉家は、仙台市の伊達政宗を祀る青葉神社で神職をしているそうで、現在も固い絆で結ばれているように感じます。


以上、忠義の男:片倉小十郎景綱でした。


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