忠節を貫いた自己信念の武将 佐々成政
こんにちは。 まさざね君です。
今回は、織田信長の側近で忠節を貫いた戦国武将・佐々成政を選びました。
佐々成政といえば、真冬のさらさら越えが有名です。
さらさら越えの決行には、小牧・長久手の戦いが大きく関わっていたので、その前後を中心に書いてみました。
これを読んで、佐々成政とはどのような武将だったかを知ってもらえたら嬉しいです。
はじまり、はじまり~♪
~忠節を貫いた自己信念の武将 佐々成政~
【エリート人生】
《本能寺の変までの佐々成政》
1536年(天文5年)
佐々成政は、尾張(愛知県)の国人領主(地方の有力者)の5男として生まれる。
元服後は、信長の馬廻り(側近)として仕えていた。
桶狭間の戦いで成政の兄が討死したため、24歳で佐々家の家督相続。
1567年(永禄3年)
31歳で信長の黒母衣衆(親衛隊)筆頭に選ばれ、同じく赤母衣衆筆頭・前田利家と手柄争いを重ねる。
1575年(天正3年)
勢力拡大を続ける信長は、北陸方面を平定のため柴田勝家の与力(助っ人)に佐々成政と前田利家を派遣する。
その後、越前(福井県)一向一揆を征伐する。
1581年(天正9年)
45歳で越中(富山県)平定の功績が認められ、越中一国の守護大名となり富山城に入城。
ここまでの佐々成政は、信長に使え、数々の戦で功を上げた事で、一国一城の主となったエリート人生と言えます。
しかし、翌年の1582年(天正10年)の『本能寺の変』で主君・織田信長が非業の死を遂げたことで佐々成政の運命が大きく変わっていったのでした。
【本能寺の変~中国大返し~山崎合戦】
明智光秀の突然の裏切りによって主君・織田信長が亡くなった事で、織田家中に激震が走ります。
この報せは、越後で上杉景勝と対峙していた北陸方面軍(柴田勝家・佐々成政・前田利家)にも届きました。
北陸方面軍は、身動きが取れない状態でしたが、仇討ちついて話し合った結果、佐々成政と前田利家が上杉防御のために残り、柴田勝家が向かう事になったのです。
金沢城で出陣の準備をしていた時、使者からの報せに驚き言葉を失った柴田勝家。
それは、全く予想外の奴に仇討ちの先を越されたからでした。
柴田勝家と同じく、直ちに行動を起こせない信長の家臣が多い中、羽柴(豊臣)秀吉だけが仇討ちへと動き出すのでした。
あの有名な『中国大返し』です。
信長の死後、毛利の外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を通じて講和を結んだ羽柴(豊臣)秀吉。
直ちに、備中高松城(岡山県)から山城(京都)までの200㎞を9日間で移動して、10日目には『山崎合戦』で明智光秀を討ち取るのです。
これにより秀吉は、主君の仇討ちをした大義名分が成立し、天下掌握の野望へと繋げるのでした。
柴田勝家は、清須会議で後継ぎ決定に関する発言権を失い、翌年には賤ケ岳の戦いへと追い込まれていきます。
佐々成政は、自分の所領を捨てて信長の仇討ちに行くべきだったと悔やみ続けます。
前田利家は、秀吉と勝家のどちらに付くか悩むが、賤ケ岳の戦いで柴田軍を途中離脱して秀吉軍になります。その後、柴田軍は総崩れとなって敗北が決定的となりました。
この戦後、佐々成政と前田利家の不仲は決定的となりました。
信長側近(母衣衆)の良きライバルから敵・味方へと変わっていくのです。
【秀吉征伐へ】
山崎合戦後に開かれた清須会議で秀吉の案が通り、翌年の賤ケ岳の戦いで信長の筆頭家老だった柴田勝家は自刃したことで、秀吉の権力は絶大なものとなっていきます。
しかし、織田の天下を奪って、天下人になろうとしているのが許せない「誠忠の士」の武将がいました。
佐々成政
「平左衛門! 儂は、あの猿面冠者(さるめんかんじゃ:秀吉)が大嫌いじゃ!」
「信長様が亡き後、信雄様(信長の次男)が天下を治めるならならまだしも、なんであの猿(秀吉)が我が物顔で天下統一でもしたような態度をとっているのだ!」
「儂は、悔しくてたまらん!!」
重臣 佐々平左衛門
「殿、、、。 殿の気持は、十分わかります。」
「しかし、今は我慢の時です。 今の佐々軍は総勢で1万5千、対して秀吉軍は15万以上動員できる力を持っています。」
「今、感情的になって戦をしたところで、佐々家のためになりません。」
「しかし、秀吉を良く思わない武将がいるのも確かです。 ですので、もう少しだけ時が来るのをお持ちください。」
佐々成政
「実はな、平左衛門。 先程、間諜(スパイ・忍び)から報せが入った。」
成政は、ニコニコしながら話を続けました。
「信長様の後継者・三法師様(4歳)の後見人である織田信雄様を秀吉が邪険に扱っているらしいのだ。」
「我慢がならなくなった信雄様が、いよいよ秀吉征伐に立ち上がったらしいのだ。」
「まずは、秀吉に対して最も力のある家康殿に声を掛けているということだ。」
「家康殿が秀吉征伐に立ち上がるのなら儂も参戦するぞ。 いいな、平左衛門!」
重臣 平左衛門
「確かに東海一の弓取りと言われ、今や天下一の戦さ上手の家康様が味方となれば、秀吉の立場が危うくなる事は間違いないと思います。」
「しかし、今は信雄様と家康様からの協力の要請があるまで先走って動くべきではありません。」
「また、隣国の前田利家が、どう出るか見きわめておくのも必要かと思われます。」
佐々成政
「確かにそうかもしれない。 ただ、自分の決意は誰が何と言おうと固まっている!」
それからほどなくして、信雄と家康から書状が成政のもとに届きます。
どちらの内容も協力をして欲しいというものでした。
そして、秀吉からも「反逆を企てる者がいるので、援軍を送るように」と命令文とも取れる書状が届きました。
秀吉からの書状を破り捨てた、成政。
直ぐにでも信雄、家康のもとに向かいたかったのだが、できない立場にありました。
成政の治めている越中国(富山県)は、北に上杉景勝、西に前田利家に挟まれた緊迫状態。
家臣と領民を守らなければいけない領主という立場であることを平左衛門に説得されていたのでした。
動くに動けない状態が続くなか、信雄と家康の連合軍と秀吉軍が遂に激突します。
【小牧・長久手の戦い】
1584年(天正12年)
信雄・家康連合軍と秀吉軍が激突する小牧・長久手の戦いが始まります。
先手を切ったのは秀吉方の池田恒興の軍で、信雄の領内にある尾張犬山城(愛知県)を急襲して、あっという間に落城させたのです。
それに続けとばかりに、秀吉方の森長可も尾張羽黒まで進出してきますが、徳川四天王の酒井忠次、榊原康政に返り討ちにあって壊滅されてしまいました。
この敗戦で、自分の所を離脱する武将が続出することを恐れた秀吉は、自らも出陣して10万の軍勢で3万の信雄軍を包囲します。
しかし、両軍は動くこともなく睨み合いを続け、小競り合いを繰り返すのみでした。
膠着状態が続く中、秀吉軍は再び動き出します。
秀吉の甥である秀次を大将として、家康の本拠地である三河(静岡県)に向けて進軍したのです。
ただ、これを想定していた家康は、直ちに酒井忠次と榊原康政に秀次軍の後を追わせました。
追手が迫っていることを知らない秀次軍が、長久手にある城を攻め落とし、ついでに徳川の猛将・水野忠重が守る砦を襲っているとき、秀次にとって最悪の展開が待ち受けていたのでした。
酒井忠次を中心とする追手が背後を突き、榊原康政が率いる軍は、迂回して秀次軍の前方にまわって襲ってきたのです。
これにより秀次軍は前後左右から総攻撃を受けて総崩れとなり、秀吉側の有力武将の森長可、池田恒興を失うことになりました。
大将の秀次は、わずかな供回りを連れて秀吉のもとに潰走するのです。
これによって信雄・徳川の連合軍の勝利は決定的となったのでした。
【成政の決断】
一方、そのころ佐々成政は、信雄・家康との約定を守って、前田家と上杉家を牽制するために、加賀能登(石川県)と越後(新潟県)の国境に兵を派遣していました。
こちらも大きな動きが見られず、膠着状態が続いていたのです。
佐々成政
「平左衛門、加賀(前田)はどう出ると思う?」
重臣 平左衛門
「断定はできませんが、あちらから出てくることはないと思います。」
「ただ、諜者(スパイ)からの情報ですと、国境の砦には戦に備えて糧食、飲水、武器弾薬を十分用意してあるとのことでした。」
佐々成政
「実は、家臣たちの間からも色んな意見が出ていて、このままでは戦意の低下に繋がりかねない。」
『噂では、少数だが離脱者が出ているとの話も聞く。」
「これより、主だった家臣を集めて軍議を開くことにする。」
重臣 平左衛門
「承知いたしました。 早速、皆を集めて参ります。」
軍議では、活発な意見が飛び交うも和戦両論に分かれ平行線を辿り時間だけが過ぎていきました。
これにより最終的な決断は、成政の一言にゆだねられることになったのです。
成政の頭の中では、信雄・家康連合軍と秀吉軍の間でも、膠着状態が続いていると聞いていたので、自分が前田を攻めることで今の状態を破るキッカケとなる。
そして、小牧・長久手の決戦にも繋がるのではないかと考えていました。
また、秀吉がこちらに大軍で向かう前で、前田だけなら勝つ自信もあったのです。
佐々成政
「儂の考えは決まった! 前田を討つ!」
家臣たち
「うおーっ!」
と、待ってましたとばかりに一斉に声が響き渡りました。
【秀吉の奇策】
長期の膠着状態が続いていた信雄・家康の連合軍と秀吉軍でしたが、これを打破しようと秀吉は密かに動き始めます。
この戦いの首謀者である織田信雄と水面下で講和交渉を進めていったのでした。
1584年(天正12年11月12日)
講和の内容が信雄にとって好条件であったため、家康に内緒で応じてしまいました。
1584年(天正12年11月17日)
これにより家康は秀吉と戦う大義名分を失い、撤退することになったのでした。
その後、秀吉は家康との講和にも成功し、この戦いは幕を閉じたのです。
この小牧・長久手の戦いは、戦術的に信雄・家康の連合軍が勝ちましたが、最終的に秀吉軍が戦略的に勝利となったのでした。
ちなみに、信雄・家康の連合軍には紀州(和歌山県)の鉄砲傭兵集団:雑賀衆・根来衆、四国の長宗我部元親がいましたが、翌年に紀州征伐と四国征伐によって秀吉に制圧されてしまうのでした。
【末森城攻め】
前田利家との決戦を決意した佐々成政は、加賀能登に進軍します。
この時、秀吉と信雄の間で講和の話が進んでいることなど知る由もありませんてした。
成政にとっては、「ついていない」としか言いようがありません。
成政は、前田攻略の第一歩として末森城を奪取することにしました。
末森城は、能登と加賀の国境にあるため前田家にとっては重要拠点だったのです。
成政は、能登の国境の手前に陣を張り、軍議を開きました。
佐々成政
「これより我が軍を3隊に分ける!」
「第1隊の3千は能登との国境沿いを突破、第2隊の6千は俱利伽羅(くりから)峠の難所を越えて進軍、本隊の1万3千は少し迂回して末森城を急襲する。」
「3隊をもって鶴翼(かくよく)の陣形をとり、一気に能登を征服する! よいなー!」
家臣たち
「おーっ!」
兵法・軍学にも通じていた成政は、今回の作戦にも自信を示していました。
1584年(天正12年9月9日)
佐々成政の3隊による能登攻めが始まりました。
佐々成政本隊は、一気に末森城下に殺到しました。
末森城内は不意打ちを喰った状態だったので混乱に陥りますが、城主で猛将の奥村永福が短時間で狼狽を鎮めると、佐々軍へ果敢に抵抗をしていきました。
しかし、圧倒的な兵力の佐々軍によって大手大門が破られ、奥村永福が率いる前田軍は本丸へと追い詰められていったのです。
これで落城が目前となった時に、佐々軍の将の一人が失策をおかします。
攻城戦の力攻めでは、逃げ口となる搦手(からめて)を開けておくのが常識ですが、その搦手に陣を張ってしまったのです。
これにより本丸の前田軍は逃げ場を失ったので、どうせ命を失うならと決死の覚悟で激しい抵抗を見せたのでした。
このために1日で落とせるはずの城が落とせず夕刻を迎えてしまったのです。
その夜、軍議が開かれました。
佐々成政
「兵を少し休ませたら、夜攻めをして末森城を落としたいと思う。」
将兵1
「兵たちは越中からの強行軍と城攻めにて疲弊しているので、今日は休ませてあげたいです。」
「ここまで攻めたのだから、明日には間違いなく末森城は落とせます。」
「このまま無理をして夜攻めをやれば、味方の犠牲者が増えて加賀攻めにも影響が出るでしょう。」
将兵2
「いやいや、すでに城は落城寸前! このあと夜攻めをやれば、一刻(2時間)程で間違いなく城は落ちるはず。」
「もし、明日の朝に前田の大援軍が来たら、こちらが窮地に落ちてしまいますぞ!」
軍議は、安全策と強硬策に意見が分かれてしまったのでした。
どちらの意見も正しく成政は悩んだが、兵の事を考えて安全策を伝えて散会としました。
翌早朝、佐々軍の攻城戦が開始されます。
しかし、この一夜の休養で成政軍も英気を回復したが、籠城している前田軍も救援を信じて昨日以上の激しい抵抗を見せたのでした。
末森城が攻められた翌日の9月10日には、前田利家のもとに末森城が危機の報せが届きました。
前田利家は、直ちに救援軍を招集して末森城に早駆け(移動しながら軍勢を加えていく)で進軍したのです。
その頃、末森城を攻めていた佐々軍にも偵察隊から前田の援軍が迫ってきているとの報せが入りました。
予想外に早く迫ってくる前田軍に対して再び選択に迫られた成政。
城攻めを一旦やめて前田との決戦、または全軍撤退、どちらも厳しい選択でした。
全軍撤退の理由は、前田の援軍と長期戦になった場合、糧食と火器の余裕がないというのがあったのです。
成政は、悩んだ末、自軍の兵の負担軽減を優先して撤退に踏み切りました。
9月18日に佐々軍は、越中に帰還しました。
【驚天動地の報せ】
末森城攻めから2か月後、冬籠りの準備と積雪による戦の凍結により、成政は家臣たちに休息を命じました。
高く降り積もった雪を眺めていると、成政のもとに間諜(スパイ・忍び)が報せを持って現れます。
報せの内容は、驚天動地の驚くべきものでした。
佐々成政
「平左衛門! 平左衛門! どこだー!! 早く平左衛門を呼んで来い!!」
側近
「承知しました!」
暫くして、平左衛門が成政の所に駆け付けます。
重臣 平左衛門
「殿! いかがなさいました。」
佐々成政
「今ほど、間諜(スパイ・忍び)から小牧・長久手の信雄様と家康殿に関する報せが届いた。」
重臣 平左衛門
「それは、良くない事でしょうか?」
佐々成政
「良くないどころの話ではない!」
「信雄様が家康殿に内緒で秀吉と和議を結んだのだ!」
「この和議により家康殿も秀吉と戦う名目を失って、本拠地の浜松に帰ってしまったのだ。」
重臣 平左衛門
「なんと! 信雄様は、この戦の首謀者ではないですか。」
佐々成政
「あのお方が何を考えているのか、、、儂にはわからん!!」
成政は、怒りをぶつけるところがなく、地団駄を踏んで悔しがりました。
【固い決意】
成政は、この報せを聞いた当初は、悔しさと怒りが止まりませんでしたが、感情を全て吐き出したことで少し落ち着いて考えられるようになり、今回の戦の成り行きについて、頭の中で整理していったのです。
すると、幾つか気がついたことが出てきました。
今回の戦の講和が、家康が知らない間に信雄と秀吉の間だけで取り決められてしまった。
それにより、家康が大義名分を失ったため浜松に帰ってしまった。
すなわち、講和も撤退も家康の意思に関係ないものなので、信雄の行動に怒りと不満を覚えているのではないかと推測したのです。
そして、自分が家康に直接逢って秀吉征伐を説いて再び立ち上がることになれば、あの信雄も講和を破棄するのではないかという考えにまとまりました。
であれば、なんとしてでも家康に逢わなくてはと奮い立ち、平左衛門を呼ぶのです。
佐々成政
「平左衛門! 平左衛門はいないかー!」
重臣 平左衛門
「殿、いかがなさいました。」
佐々成政
「儂は、小牧・長久手の戦について振り返ってみた。 そこで問題となったのは、信雄様が家康殿に相談なく講和を受け入れて戦が終了してしまったことだ。」
「このことで、一番納得いかないのは家康殿に違いない!」
「そこで、儂は家康殿に直接逢って、もう一度秀吉の征伐に立ち上がるように説得してこようと思う。」
重臣 平左衛門
「それは、良い考えかもしれませんが、この雪深い中をどのようにして行かれるおつもりですか?」
佐々成政
「儂は、これまで高山、しかも真冬の山越えは初めてなので、非常に厳しい事は分かっている。」
「また、大軍での移動は前田にバレてしまうので、山越えは最小人数で決行しようと考えている。」
「その中には、かつて信長様の黒母衣衆で共に戦った平左衛門と前野小兵衛にも来てもらうつもりだ。」
平左衛門
「私を入れてもらえるとは、有難き幸せです。」
成政に随行する者は、この2人を含めて27人の名前が告げられました。
それは、いずれも尾張時代から信用のおける側近達でした。
早速、平左衛門と前野小兵衛は、この者たちを内密に呼出して内容を伝えた後、箝口令(かんこうれい)を敷いたのでした。
平左衛門
「殿がいない間は、いかにして周りの者に隠しておきます?」
佐々成政
「儂が病気になって床に伏せたことにしておけば簡単なんだが、疑われる可能性も高い。」
「そこでだ、山越えをする2日前に城下で早駆けの訓練をした時に落馬をして足を怪我したことにしようと思う。」
「儂が、実際に落馬をして農家に担ぎ込まれ、そのあと輿(こし)に乗せられて城に運ばれれば多くの目撃者がいることになり、疑われることはないだろう。」
「そして、儂は歩くことが出来ないので城奥で療養していることにする。」
平左衛門
「殿、お見事です! それであれば、疑う者もいないでしょう。」
平左衛門は、本音であれば真冬のさらさら越えが、どれだけ危険なのか強く伝えたかったが、成政の固い決意を読み取ることが出来たので、反対を口にすることはありませんでした。
【さらさら越え】
1584年(天正12年11月24日)
現在の暦で1月にあたる雪深い富山城を佐々成政たち総勢28名が密かに出立しました。
このさらさら越えは史実も残っているので、本当に決行されたと思われますが、ルートについては諸説あります。
今回は、最も困難で有名な北アルプス(立山連峰)越えとしました。
成政は、富山城を出て山の麓までたどり着くと、従臣(つき従う家来)一同の前にして決意の程を伝えます。
佐々成政
「この山越えが成功するか、失敗するかで佐々家の存亡が懸かっている!」
「ここで改めて言わせてくれ! 皆の命を儂にくれ!」
従臣たち
「うおーっ!」
前野小兵衛
「殿! 佐々家の家訓は、死のうは一定ではないですか! 我々は、家臣になった時から殿に命を預けてます!!」
死のうは一定とは、信長が好んだ小唄で、成政も好んで使用していました。
人の生きている時間は限られているのだから、後世まで語り継がれるような[生きた証]を残そうという感じの内容です。
佐々成政
「では、良いな! もの供、出発!!」
総勢28名は眼の前にそびえる立山連峰に向かって出立しました。
各々の表情は、緊張と不安で明らかに強張っていました。
佐々成政の一行は、雪深いだけでなく傾斜も厳しく歩行が困難な山を一歩、一歩進んでいきました。
しかし、峰に近づくにつれて積雪は想像を越え、寒風と寒さで肌が硬直して全員が凍傷を起こしていました。
そして、日が暮れれば、風よけを作って主従で肌を合わせて一夜を明かしていたのです。
毎日が、今まで味わったことのない死と隣り合わせの地獄のような行軍だったのでした。
出発から7日後、ついに信濃(長野県)の野口村に一行が到着します。
一行を見た野口村の村長(むらおさ)は、さらさら越えをしてきたのが佐々成政だと信じることが出来ませんでした。
全員の風貌が、武士の姿には程遠いものだったのです。
凍傷で顔が腫れあがって変形し、服は汚れてボロボロで、生きているのが不思議な感じに見えたのでした。
しかし、重臣の平左衛門が佐々成政であることを示す家紋を見せると、納得してもらい村に迎え入れられました。
佐々成政一行は、一人の死傷者を出さずにさらさら越えを果たしたのでした。
村に招かれた一行は、久しぶりに温かいものを口に出来たことで、改めて大きな達成感を味わい、家康との交渉の成功を確信していました。
【予想外の結果】
野口村を出て、12月12日に家康の本拠地である浜松に到着した佐々成政一行。
家康からも温かい歓迎を受け、翌日には対談する事になりました。
徳川家康
「この度の貴殿の振舞い、まことに感銘を受けました。」
佐々成政
「恐れ入ります。 これも家康殿に逢いたい思いが強かったからだと思います。」
「早速ですが、家康殿。 信長様から受けた恩を忘れたような秀吉の振舞いが、どうしても許すことが出来ません。」
「家康殿さえ再び秀吉討伐に立ってくれれば、私は前田を蹴散らして背後から秀吉を突いてみせます。」
「家康殿が、四方に援軍を呼びかければ、秀吉に反感を持つ多くの諸将が間違いなく集まってくるでしょう。」
「そうすれば間違いなく我々の勝利となります!」
徳川家康
「成政殿。 この戦いは、すでに終わっているのだ。再び事を荒立てれば、多くの民を苦しませることになってしまうと、儂は考えているのだ。」
「なので、儂は再び戦をやろうとは考えていない。」
成政は、何度も家康に再び立つように詰め寄りますが、返ってくる答えは同じでした。
小牧・長久手の戦いは、長い対陣が続いたため、家康が本領に戻った時に、庶民が激しく疲弊しているのを目のあたりにしたので、戦さよりも本領の立て直しを優先したとも言われています。
このあと、成政は織田信雄、滝川一益とも逢いますが、良い返事はもらえませんでした。
このさらさら越えは徒労に終わり、気分が沈んだまま富山城に戻ったのでした。
富山城で失望の状態にある成政のもとに、秀吉から降伏するようにとの書状が届きますが相手にしませんでした。
【富山の役】
1585年(天正13年7月11日)
羽柴秀吉は関白太政大臣の位につき、名前を豊臣秀吉と改めます。
豊臣秀吉は、朝廷に願い出て越中征伐の勅命(天皇の命令)を受けたのです。
これにより、成政討伐の大義名分を得た豊臣秀吉は、自分に従う諸将を集めます。
そして、総大将を織田信雄として、家康を含む12万の軍勢で越中に出陣しました。
勅命という大義名分と総大将を織田信雄、家康も従軍させることで、成政を戦う前から精神的に追い込むのは明らかでした。
また、関白・豊臣秀吉も一緒に越中に向かったのです。
1585年(天正13年8月)
12万の秀吉軍に富山城を包囲された佐々成政は織田信雄の仲介によって降伏をします。
この降伏により成政は、越中の領地をほとんど召し上げられてしまいました。
成政は剃髪して妻子とともに大阪城に移住することとなり、秀吉のお伽衆(話し相手)として仕えることになったのです。
【その後の成政】
1587年(天正15年)
成政は、豊臣秀吉の九州攻めに従い、功績を挙げて肥後国(熊本県)54万石を与えられます。
これは、成政にとって大きなチャンスでしたが、当時の肥後には目立った領主がいなかったため、国人(地方の有力者)たちの争いが絶えず統治が難しい状態でした。
秀吉も肥後の検地を先送りしていましたが、成政は強引に行ってしまったため、国中で一揆争乱が起きて泥沼化して収まりが効かなくなってしまいました。
その為、近隣の大名の助勢を仰ぐことで終息することができたのです。
しかし、この失政を秀吉に咎められ、成政は切腹を言い渡されました。
享年 52歳
この検地を強引に行ったのは、再び挙兵するため、自分が病気であることを知っていたから、秀吉の陰謀など諸説あります。
【まとめ】
佐々成政の人生を振りかえると、信長が生きている頃は、実力を十分に発揮してエリート人生を歩んできましたが、信長が亡くなってからは、運やタイミングに見放されていたような印象を受けます。
最後まで織田家再興にこだわり、武士として最後まで信念を貫きとした典型的な[自己信念型]と言えますが、私も含めそのようなタイプに共感をしめす方は多いのではないでしょうか。
そんな佐々成政ですが、世間にあまり知られてないので、少しでも知ってもらえるキッカケになればと思います。