見出し画像

この少年はフィクションである

犬が雄で猫が雌で同じ生き物だと思っていた僕はそのとき七才で裕貴(ひろき)という3歳年上の兄の真似事ばかりをしていた。何もかも先に覚えていく兄が羨ましかったし追いつきたかった。
 学校の宿題で本読みというものがあった。国語の教科書を音読し、それを保護者に聞いてもらい判子を捺してもらうというもの。僕の家では母が聞いて判子を捺す。
 それで僕は兄の本読みを真似ようとしたことがある。十月の寒くなり始めた頃だったと思う。
 兄と僕と僕の二つ年下の妹恵里(えり)の三人は同じ部屋を使っていて、岡田家の子供は夜九時に寝る決まりがあった。
 その日もいつもどおり八時五十分くらいに自分達で布団を敷き終えて、それから僕は兄に話しかけた。
「ひろ兄ちゃん、国語の本貸してや」
「なんで?」
「俺も読んでみたい」
「まだ習ってない漢字があるき、一年生のこうちゃんには読めんちゃ」僕の名前は孝貴(こうき)だ。
「やってみらんとわからんやん」
「別にいいけど」そう言ってランドセルから教科書を抜き取り渡してくれる。そしてコクヨの勉強机に左手を置き僕を見る。
 僕は三つ並んだ真ん中の自分の布団の上に正座して教科書を開き、最初の方にあった『ごんぎつね』という物語を読み始める。
「これは、わたしが小さいときに、村のもへいというおじいさんからきいたお話です。むかしは、わたしたちの村のちかくの、中山というところに小さなお……」僕はそこで止まってしまった。僕には『城』という漢字が読めなかった。『城』という漢字を読める小学一年生なんてそうそういないだろう。
「ほらね!」と兄は自慢気に言い、僕からサッと教科書を奪ってランドセルにしまう。
 悔しくてたまらなかった。僕は同級生の誰よりも漢字を覚えるのが早かったし、句読点での間の置き方が上手だと先生から褒められていたことで兄に追いついた気になっていたのかもしれない。目頭が熱くなる。
「うくっ……くっ、うっ……ふう」僕は必死で涙を堪えようとして何度も大きく息を吸うが、その度に涙が汲み上げられてしまったのか結局泣いてしまう。
 兄は僕を見て不思議そうにしていた。僕の異変に気付いた恵里が部屋を出て行き母を連れてくる。
「こうちゃん、どうしたと?」
「ひろ兄ちゃんが泣かしたんばい」と恵里が言う。
「違うっちゃ!こうちゃんが勝手に泣いただけばい!」
「何もせんで勝手に泣くわけないやろ。何したと?」母は少し困ったように言う。
 僕は布団に潜り込み丸くなる。耳を手で塞ぐ。言うな!ひろ兄ちゃん言わんとってくれ!
「こうちゃんが俺の国語の教科書を読んでみたいっち言って、漢字が読めんで泣いたんちゃ!」クソ~!涙がどんどん出てくる。
「そうなんね……もういいき二人とも寝り。おやすみ」
「おやすみ」「おやすみなさ~い」
 母は僕の扱い方をよくわかっていたんだと思う。僕は泣いている時に決して喋らなかったし、理由を聞かれても余計に泣くだけだった。泣いている間は僕を放っておいてくれたし、泣いている理由を見つけて同じようなことが起きないように僕達に言い聞かせてくれた。
 僕の背中にす~っす~っと撫でる感触があった。「おやすみ」電気を消す音が聞こえて扉が閉まる。いつもは真っ暗になっても、しりとりをしたりして遊ぶのだがこの日はみんな黙っていた。
 涙が止まってもしばらく眠れなくて僕はあの漢字の読み方を考えてみたけど、どんな字か思い出せなかった。
 なんで僕はひろ兄ちゃんと同じ四年生じゃないんやろとか、僕の方が先に生まれとったら良かったんちゃとか、狐は雄雌どっちになるんやろ、なんて考えていたけど次第に頭がぼうっとしてきて何かの塊が近寄ってきてるのか僕が近付いているのかはわからないけどそれとの距離が縮まって目の前にきたその中に落ちるようにして意識が途切れた。

 次の日、集団登校の時に兄が最後尾にいる僕に話しかけてきた。
「昨日の漢字な、しろって読むんばい」
「もういいっちゃ。お願いやきそのこともう言わんで」
「わかった」そう言って兄は集団の前の方へ走って行く。僕は完全に落ち込んでいた。
 同級生の中村勇太の家の前を通りかかったときに庭で飼ってるクロ(白い雑種犬)が見えた。中村に「なかちゃん、なんで白いんにクロって名前なん?」と聞くと「目が黒いきクロにしたんばい」と言っていた。目のつけどころが違う。
 そういえば犬と狐は似てるからきっと狐は雄だろう、と七才の僕は間違いを拡大させた。
テレビ番組で狼を初めて見た僕は迷わず雄だと判断し順調に恥の木を育てていた。木が実をつけてしまえばすぐに誰かが気がつくだろう。みんなの好物だ。
 小学生って奴は他人の間違いに目敏い。間違いに気付き、それを最初に示す人間が権力を握る。ちょっと言い過ぎかもしれないけどそんな感じ。自分が攻められないように他人を引きずり落とす。
 とにかく僕の周りには狼の皮を被った羊がたくさんいた。この時は気付いていなかったけど。

 僕は小学二年生になり、国語の授業で『スイミー』という物語を上手に読むことが出来るようになったし、自分とスイミーを重ねたりもした。
 学校から帰っている時に中村に聞いてみた。
「ねぇ、なかちゃんはスイミーになりたいっち思う?」
「俺は魚にはなりたくないばい」
「違うっちゃ!そうやないで自分だけみんなと違うようになるんが良いか悪いかっちことばい」
「どっちでもいいばい。違うっちゅうんが良いときもあるやろうし」
「悪いときのほうが多いっち思うんちゃ。仲間外れにされたり、目立つき、すぐ怒られる」
「こうちゃん、俺がスイミーやったら仲間外れにするん?」
「せんよ。俺がスイミーやったらどうする?」
「どうもせんよ。今と変わらんばい」
「ふ~ん」

 その年のクリスマス。プレゼントは兄と同じ自転車が欲しいと広告の裏に書いて母親に渡した。岡田家では母がそれをサンタクロースに電話で伝えるんだ。なんて素晴らしいホットラインを持っているのだろう、僕の母は!毎年そんな風に思っていた。
「兄ちゃんと同じ自転車がいいと?」
「そうっちゃ!」
「でも大きすぎるき、こうちゃんの身長やったら足がつかんよ」
「いいっちゃ!練習するんやき!」
「練習したって体の大きさは変わらんよ」
「ご飯だっていっぱい食べるし!」
「はいはい、じゃあお母さんが電話しちょくきね」
「お、お願いします!」
 翌日、僕は学校から帰るなり母に詰め寄った。
「お母さん!サンタさんに電話したん?」
「サンタさんが、いい子にしちょったらプレゼントを持っていくって言いよったよ」
「な、何か手伝うことないん?」
 その日から僕は風呂掃除を毎日やった。恵里に意地悪もしないようにした。なんとしても自転車を手に入れたかった。
 クリスマスの夜、兄と恵里と同じ部屋で寝ていて……って興奮した僕は息を潜めて起きていたんだけどいつになってもサンタは来ない。嫌いだったピーマンをこっそりごみ箱に吐き出したことや爪を噛む癖が直らないとかそれが影響したのか唾を吐き出す癖までついてしまったことを母がサンタに言いつけたんじゃないかと思い気が気でなかった。
 ぐっぐっぐっと足音が聞こえてきて僕は頭まで布団を被り気配と音に神経を集中させる。ぐっぐっぐっ。足音が止まりざっす~っと戸が開いていく。さすっさすっと足音が部屋に入ってくる。
 布団の隙間から様子を窺うがよくわからない。ガササと音がしてさすっさすっざっす~タンぐっぐっぐっ……。
 足音が完全に消えたのを確認して布団から頭を出し部屋を見回す。さっきと違っているのは恵里の枕元にある大きな箱……だけ。僕と兄にはプレゼントはないのか?風呂掃除と妹を泣かさないだけではいい子になりきれなかったのか?自転車さえあれば兄の遊びについていけるのに……自転車?自転車だから部屋まで持ってこれない?そうだ!きっとそうだ!外に置いてあるんだ!
 庭に同じ自転車が二つ並んでいることに希望を託すといつもの塊が現れた。僕は自らそれに近寄り落ちるように眠った。

 翌日、恵里の声で目が覚めた。
「うわぁ~こうちゃん見てっちゃ!こんな大きい箱見たことないばい!」恵里は赤と緑の包装紙を丁寧にはがしている。シルバニアファミリーの三階建ての家が現れた。ウサギはどっちだろう?
「ひろ兄ちゃんは?」
「もう外に行ったばい」
 恵里は自分のおもちゃ箱の中からウサギの人形を取り出してきて遊ばせ始めている。
「こうちゃん、お父さんウサギの役して~」
「恵里さん、あとでするき」僕の妹は家族全員から恵里さんと呼ばれている。なぜかはわからないけど。
 僕はパジャマのまま玄関へ向かう。玄関を開けると兄が自転車に乗ってふらふらしているのが見えた。そして兄より一回り小さい自転車がある。補助輪付き。
「おんなじのんやない!」
「こうちゃんに乗れるやつをサンタさんが持ってきてくれたんよ」母が玄関から言った。
「違うやつやん!」
「小さいやつで練習せないきなり大きい自転車に乗れんやろ?」
「ほんなら補助輪はずしてえや!」
「まずは乗ってみりよ」
 僕はパジャマのまま補助輪付き自転車に跨る。ペダルをこぐと進む。
「ほら曲がらんね」母が僕に言う。
「わかっちょうっちゃ!」僕はハンドルを操作して曲がる。
 兄はコツを掴んだのかスイスイ運転している。僕はその後を追うように走るがすぐに離され、すぐに追い抜かされる。庭をグルグル回る。
「お母さん、友達んちに行ってくるけ!」そう言って兄は庭から道に出て行った。
「お母さん、俺もなかちゃんちに行ってくる!」
「こうちゃん、ちょう待ち!あんたはまだ上手に乗れてないやろ!」母が近寄ってくる。
「ちゃんと乗れとうやろ!」
「前見て走れてないき危ないやろ!」
「ん~そうなん?」
「下ばっかり見ようよ」
「じゃあ練習するき後で見て」
「勝手に行ったらいけんきね!」
「わかったっちゃ!」

 僕は一人でずっと練習していて昼頃になって恵里が来た。
「こうちゃん、ご飯ば~い!ご飯食べたらお父さんウサギしてよ!」
「あぁ……うん」
 僕は完全に恵里との約束を忘れていた。
 ご飯を食べてから恵里と遊んだ。本当は練習したくてたまらなかったんだけど。
「こうちゃんがお父さんウサギね。私がお母さんウサギするき」
 とりあえず僕はウサギには雄と雌がいるんだと判断した。
 自転車で遊びに行っていいと言われたのは年が明けてからだった。
僕が三年生になったと同時に兄が六年生になりさらに妹が入学してきて、岡田家の子供は全員小学校に通うことになった。
 日々の学校生活で大した変化はなく、恵里は僕を見つけると「あれが私の兄ちゃんばい」と同級生に言っていた。学校内で会っても特に会話をするわけではなかった。
 ただ、この年の運動会は触れることができそうなほどはっきりと思い出せる。
 僕等の通っていた小学校には各学年に二組ずつしかなった。一組が赤組、二組が白組に分かれて競技を行う。それで兄と僕と恵里は一組で三人とも同じ赤組になった。

 運動会の一週間ほど前の学級会で赤白対抗リレー(一年生から六年生までの男女十二人でバトンを繋ぐ)の走者を決めることになった。
 クラスで足が一番速いとされていたのは野村良樹だったが、野村は足を怪我していた。ちょうどこの頃、ジャングルジムから飛び降りるのが流行っていて、どれだけ高い場所から飛び降りたかがステイタスになっていた。それで前人未到の八段目から飛び降りた野村が着地に失敗して足を捻挫した。その後、飛び降りは禁止になった。
 はい、と手を挙げ中村が立った。
「岡田君がいいと思います」
 立候補したのかと思いきや全く予想していない自分の名前を出された僕は何も言えずに中村を見る。中村はこっちを見てウインクした。野村の次にクラスで足が速いのは中村なのだ。僕はその次の次くらいだ。野村の怪我をいいことに面白がって僕にやらせようとしたのだろう。
「岡田君どうですか?」と学級委員長の青山陽子が聞いてきた。
「……いや~なかちゃんの方が速いと思います」
「岡田君は本番に強いから僕よりいいと思います」
 僕が本番に強いという事実はない。中村が勝手に言い出したのだが事実上ナンバーワンの意見を退ける者はいなかった。
 白組は正真正銘のナンバーワンが出てくる。勝てそうにないと思ったが中村が僕に短いウインクを送り続けている。
「わかりました。やります」
 僕は仕方ないなぁという雰囲気を醸し出していたが嫌々受けたわけではなかった。この時の僕には好きな子がいて、同じクラスの末廣亜沙美という子に良いところを見せることができるかもしれないという思いが少なからずあった……結構あった。末廣亜沙美は三年生の女子代表に先に選ばれていたのだ。黒板に末廣亜沙美、岡田孝貴と並んで書かれたのを見て少し嬉しかった。

 その日の帰り道。
「なかちゃん、なんで俺っち言ったん?なかちゃんの方が速いやん」
「だってこうちゃん、末廣さんのことよう見ようやん」
 えっ!
「違うし!何言いよん?」
「じゃあなんで末廣さんのこと見よん?」
「だき見ようないっちゃ!」
「もう末廣さんのこと好きっちわかっちょんばい!」
「……そうなん?みんなわかっちょん?」
「たぶん俺だけばい」
「……ならいいや。誰にも言わんでよ」
「言わんよ」
「なかちゃんは好きな人おらんと?」
「おらんばい」
「ふ~ん。できたら教えりよ」
「うん。こうちゃんだけに教えちゃる」
「本当はもうおるんやなかろうね?」
「まだおらんよ!」
「まだっちな……」「それより昨日、クロが赤ちゃん産んだんちゃ」
 えっ!
「クロは雄やろうも?」
「クロは雌ばい」
 えっ!
「クロは犬やろ?」
「そうばい!見たらわかるやろ」
「猫が雌やろ?」
「何言いよん?」
「犬が雄で猫が雌じゃないん?」
「違うばい!」
「そうなん?」
「犬で雄と雌がおって猫も雄と雌がおるんばい!全部雄と雌がおるんちゃ!クワガタみたいに雄と雌で形が違わんやつもいっぱいおるんばい!」
「俺ずっと間違っちょったんやん」
「いいき、今日見にきいよ」
「わかった」

 家に帰って兄にリレーの事を伝えると兄も学年代表のリレーに選ばれたと言った。つまり赤組のアンカーは兄の裕貴だった。

 僕は自転車で中村の家に行った。傷だらけで泣きながら猛練習したお陰で補助輪はもうついていない。
 クロの赤ちゃんは四匹とも掌くらいに小さかった。そして白かった。


 運動会の練習で一度だけ実際に赤白対抗リレーを走ることになった。
 一年生の女子がそれぞれスタートラインに並ぶ。先生が小さな鉄砲のような物を空に向けて「よ~い……」パンッ!短く乾いた号砲で二人が勢いよく走り出す。
 一年生の女子から一年生の男子、そして二年生の女子に渡り、二年生の男子がバトンを受け走り出す。自分の出番が近付くのに比例して僕の緊張は強くなっていた。僕のことを本番に強いなんて言ったのは誰だ?
 末廣亜沙美がスタートラインに立つ。彼女はショートカットで僕と同じくらいの身長だった。
 白組が結構リードしている。彼女は二年生の男子からバトンを受け取り走り出した。とても綺麗なフォームだったし速かった。きっと僕より速かった。
 その様子を見ながら僕はスタートラインに立つ。白組が少しだけリードしていて差はほとんどない。
 僕の相手は内田という背が低くて殆ど話したことのない奴だった。足が速いのは知っていたが相手が誰だろうと全然構わなかった。兄が見ている前で格好悪いところを晒すわけにはいかないし、何より末廣亜沙美からバトンを受けるのだ。
 彼女が最後のカーブを曲がってこちらに近付いてくる。白組との差はない。並んでいる。緊張に緊張が重なる。走る前から鼓動が早鐘を打っている。
 僕は右手を伸ばし助走を始める。彼女が僕にバトンを渡すときにちょっと笑った。
 あっ!
 僕はバトンを受け取り損ね、落としてしまった。すぐさま拾い走り出すが内田はもう先を走っている。バトンを落とした事で焦ってしまってうまく体が動かなかった。
 差は縮まらぬどころか、広がっていくばかりで悲しくなった。結局、十五メートルほど差がついて四年生にバトンタッチすることになった。
 悔しかったし、かなり恥ずかしかった。内田は足の速さを白組の六年生から褒められて笑っていた。
 末廣亜沙美が僕を振り返った。
「バトン落としてごめんね」
「いや、いいよ」と僕は言ってしまったが明らかに手元を見ていなかった僕のミスだった。
 兄が僕に近寄ってきた。アンカーを示す赤い襷をかけている。
「こうちゃん、俺が取り返しちゃるばい」
「まだ本気出してないし」
「そうなん?まぁ見とき」
 他人から見てわかるほどに僕は駄目だったのだろう。
 白組が十メートルほどリードしたままそれぞれのアンカーにバトンが渡った。兄はバトンを受け取るとロケットみたいに走り出してどんどん白組の人との距離を縮める。トラックを半周過ぎてカーブに差し掛かった辺りで白組に追い付いた。僕は白組の人がインコースだしカーブでは抜きにくいだろうと思ったが兄はあっさりと抜いて余裕でゴールテープを切った。
「あの人、孝貴君の兄ちゃんやろ?めちゃくちゃ速いんやね」
「うん。速い」
 兄が横に来た。
「見た?取り返しちゃったばい」
「うん。ひろ兄ちゃん速かったばい」

 その日、僕は家に帰ってから兄にどうすれば速く走れるかを聞いた。
「背中を真っ直ぐにして手を大きく振って地面を強く蹴ればいいんよ」
「そんないっぱいできんちゃ!」
「教えちゃるき、外行くばい」
 僕は暗くて兄が見えなくなるまで走り方を教えてもらった。

翌日の昼休み、末廣亜沙美からバトンの受け渡しの練習をしようと言われて二人きりなのかとドキドキしたが中村と学級委員長の青山陽子も一緒にやると聞かされてなんだか残念な気分と安心が入り混じってモヤモヤしてしまった。
 放課後、練習を始める前に作戦会議が行われた。内容は会議というほど大袈裟なものではなく、末廣が用意していた意見を取り入れるかどうかというものだった。
『バトンを受ける人は手を差し出すだけでなるべく動かさない』
 誰も反対することはなかったし、僕は関心したほどだった。
 それから、僕と中村で職員室へバトンを借りに行くことになった。
「なかちゃん、俺らもなんか良い意見出した方がいいんやない?」
「そんなん言ったってすぐに思いつかんばい。末廣さんにいいとこ見せたいなら内田を抜くとか、差を広げるのが分かりやすいっち思うばい」
「そうやけど……」僕は黙ってしまう。
 職員室に失礼しますと言って入っていき、担任の藤村先生に練習したいのでバトンを貸してほしいと申し出ると、すぐにバトンを持ってきてくれた。
「本番では落とさんように頑張れよ」
 僕は前の日のミスを思い出して嫌な気分になったが、藤村先生に悪気はなく励ましてくれたんだと思う。
 僕達は三十分ほど練習した。バトンを落とすことはなくなったし受け渡しもスムーズになった。作戦成功。
 あまり帰るのが遅くなってもいけないと藤村先生に言われていたので練習を終えて、青山と末廣がバトンを返しに行った。
 残された僕と中村は二人を待つことにした。すぐに二人が来て一緒に帰ることになった。
 当然のように話題は運動会に関するものになった。
「俺の兄ちゃんと妹は同じ赤組なんばい」
「私のお兄ちゃんは白組ばい」と青山。
「岡田君の兄ちゃん速かったね~」
「こうちゃんの兄ちゃんが学校で一番速いんやないと?」
 僕はそれを聞いて黙ってしまった。三人が僕の顔を見る。
「そうかもしれん」そう答えるのがやっとだった。
「私、こっちやき。じゃあね~バイバ~イ」と手を振る青山。僕達は別れの言葉を口にし手を振り返した。
「末廣さんっちなんで走るの上手なん?速いし」と中村が聞いた。
「走るの好きなんよ!」
「へぇ~そうなんや。練習とかしよん?」
「お父さんと練習しようばい。お父さんは高校の先生で陸上部の人を教えようき」
「それで走り方が上手なんやね」
 僕は二人が話しているのを聞くだけになっていた。中村の家が近付いてきて僕はあることに気付いた。まずいことになるかもしれない。
「なかちゃんは好きなことないん?」と末廣が言った。中村をなかちゃんと呼んだのが少しショックだった。僕のことは岡田君だ。
「サッカーやね!」
「昼休みサッカーしようもんね!」
 クロの吠える声が聞こえてきた。クロの赤ちゃんは四匹とも貰われていったと前に中村が言っていたのを思い出した。
「俺んちここばい!」中村はクロのところへ向かった。僕はそのあとを追う。途中で振り返ると末廣は庭の入り口のところに立っていた。
「末廣さんもきいよ」と言ったが末廣は首を振った。
「咬まれたことあるき怖いんちゃ」
「クロは咬まんばい!」と中村が言ったが、それでもこちらに来ようとはしなかった。
 僕はクロを一撫でして庭を出る。末廣は中村に大きく手を振った。
 そして二人きりの時間が始まってしまった。恥ずかしさが溢れてくる。しばらく黙って歩く。
「岡田君の好きなことはなんなん?」
「えっ……」急に質問されて僕は戸惑う。「え~っとね~あの~……」
「ないん?」
「いや、あの~志村けん!のテレビとか見たりするばい!」
「あっそうなん。私もこの前の見たばい」
「たぶん俺も見た」
 それから沈黙が続いてしまう。何かを喋らないといけないと思うほど焦って何も浮かんでこない。
 そのまま自宅付近まで来てしまった。
「俺んちあっちやき」
「じゃあまた明日ね!」
「じゃあね!」
 僕達は手を振って別れた。


 運動会当日、この日はとても暑かった。
 午前の種目で恵里が五十メートル走で一番になってとても喜んでいたし、兄は六年生のリレーでスターターとしてロケットみたいに走った後にアンカーとしても走って見事にゴールテープを切った。岡田家は足の速い家系なのかもしれない。
 僕は玉入れと障害物競争に参加したけれど目立ったところはなかった。
 昼休みの休憩で両親と恵里と兄と僕の五人で弁当を食べた。以前も家族揃って弁当を食べることはあったけど、一体感のようなものが感じられ特別に楽しかった。だけど僕は午後から行われる赤白対抗リレーのことを考えてお腹いっぱい食べることはしなかった。
 休憩が終わった後の種目で保護者と先生が参加するリレーがある。それに両親が出ると言って僕は驚いた。去年までは一度も参加しなかったのだ。
「今日はみんな赤組やきね!」と母が楽しそうに言った。
 まずは先生達がスタートした。そして、父にバトンが渡る。父は必死に走っていたが体力が尽きたのか相手に抜かれた。
 父から母へバトンが渡される。すると母は今まで見たことのないような真面目な表情をして走り出した。半周もしないうちに相手の走者を抜いた。しかも相手は男性だった。母の走りは信じられないくらい軽やかで速かった。
 結局、白組の先生と保護者チームが勝ったのだが大して気にならなかった。あの優しい母が速く走ることが不思議だった。
 それから五年生と六年生の組体操が行われて、大玉転がしで白組が勝って遂に赤白対抗リレーが始まった。このリレーで赤組が勝てば逆転優勝というドラマチックな展開も用意されていた。
 空に号砲が響く。一年生の女子がスタートして、ほとんど差がないまま次々にバトンが渡されていく。
 そして末廣亜沙美が走り出す。背筋が真っ直ぐで綺麗なフォーム。風の間をすり抜けるように進む。僕はそれをじっと見つめる。末廣がリードしてこちらへ向かってくる。
 僕は練習通りにバトンを受け、走り出す。バトンを渡す瞬間に末廣は笑っていた気がした。
 僕は大きく手を振り、強く地面を蹴り上げ走った。半周してもまだ内田に抜かれてはいない。すぐ後ろに迫ってきているような気もしたが振り返るわけにはいかない。真っ直ぐ前を見て走る。お~っという歓声と同時にザシュッザシュッザシュザシュと聞こえてきた。後ろから右肩に何かが当たって僕はバランスを崩し、転倒しかけたが両手を地面についてなんとか免れる。その間に内田に抜かれてしまった。怒りのようなものがこみ上げてきて歯を食いしばり内田を追った。だが追いつけないまま四年生の女子にバトンを渡した。
 赤組のみんなが僕の顔を見る。嫌な感じが伝わってくる。僕のところで逆転されたのだから仕方がないのかもしれない。
「岡田君、手から血が出ようばい!消毒せな!」末廣が驚いたように言った。
 見ると左手の指の背と右掌をズタズタに擦りむいていた。
「あぁ……ほんとね」
 この時は痛みを感じなかった。それよりリレーの行方が気になった。
 兄が僕に近寄ってくる。
「こうちゃん、よう転けんかったな!」
「転けんかったけど……抜かれた……」
「まだ大丈夫ばい!」
「教えてもらったんに……」僕は泣きそうになった。自分が抜かれたことで負けると思うと不安だった。バトンの練習もしたのに。兄に走り方を教わったのに。兄は足が速いのに僕はそうでもない。
「一番で帰ってきちゃる!」
 白組がずいぶんリードしている。差は縮まることなく六年生の女子にバトンが渡る。兄がスタートラインに立つ。肩をグルグル回して足首を回し、ゆっくり屈伸運動をした。そして構える。
 白組のアンカーが走り出す。赤組はまだ……いち、にい、さん。三秒遅れで兄にバトンが渡る。
 次の瞬間、僕は叫んでいた。
「兄ちゃ~ん!頼むき抜いてくれ~!」
 聞こえたかどうかはわからないが兄はグングンスピードを上げていく。差は縮まっていく。瞬きができない。とにかく速い。僕の兄は学校で一番足が速いんだ!ほら、追い付いていくやろ!
 最後のコーナーを抜けたところで兄は白組の走者に並んだ。最後のストレート、相手も抜かれまいと必死に競る。兄はそれをサッとかわす。約束通り一番で白いゴールテープを切り、そのまま僕に近寄ってきた。
「兄ちゃんのおかげで勝てたばい」
「なんでもかんでも人のせいにするな!こうちゃんが転けんかったき、バトン落とさんかったき勝てたんぞ!こうちゃんが少しでも手を抜いたり諦めんかったき勝てたんちゃ!」

僕はずっと泣いていたことしか覚えてない。

いいなと思ったら応援しよう!

キングAジョーカー
僕の言葉が君の人生に入り込んだなら評価してくれ

この記事が参加している募集