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「未熟者」な自分を受け入れると、はじめの一歩が踏み出せる。

私のキネシオロジーの師匠、本間先生が来日していたので、デモ&お話会に参加してきた。

キネシの集まりに出かけるのは本当に久しぶりで胸が少しドキドキする。

一昨年、娘の子育てが、七五三を終えて、一区切りついた気がした。ここから違うステージが始まるなぁと感じていた。

そのタイミングで、父が脳卒中で倒れ、母が他界した。昨年のことである。その一年は、父や母のことで、沖縄を行ったり来たり。10往復はしたのではないだろうか。

そして先日、母の一周忌を終え、心がひと段落したのか「本間先生のお話&デモ会しますよ~」のお知らせにすぐにポチリと指が動いた。


会場はキネシオロジー東京の森田達也先生のサロン。二階建ての素敵な館。その二階にある一室に入ると私の前に一人すでに本間先生と話しをしている方がいた。

おずおずと、部屋に入ると、本間先生は「りかさん、来てくれてありがとう!」と言って、力強い握手をしてくれた。

先生のいつものやつだ。先生は、会うたびにぎゅうっと固い握手をしてくれる。しっかりと、しっかりと握ってくれる。お愛想ではない、本気の握手。

握手をするだけで、こんなにも大切にしてくれているということが伝わるものだろうか。毎回思う。

部屋に懐かしいメンバーがちらほらと集まり始め、雑談からテーマが浮かび上がり、先生が話し始める。いつの間にかスタートだ。


参加者のうち、9人ぐらいだったかな、デモをみることができた。テーマは多岐にわたる。生きるということ、死ぬということ、体のこと、心のこと、仕事のこと。

みるみる表情が変わる、姿勢が変わる、動きが変わるのを目撃する。東京の片隅の、小さな館の一室で行われていることとは思えない。

でも、お部屋のたたずまいやぬくもりが、それを「奇跡」とか「すごいこと」にもちあげず、「私たちが目撃すべきこと」というレベルにおろしてくれる。

その場にいるだけで、体が整っていった。心が整っていった。こうやって深夜に筆を執ったのも体が整ったからではないだろうか。


デモも終えて、お茶をしながら先生とおしゃべりする機会もあった。その中で「人の目を気にするから、やりたいことができない」というくだりがあった。

「目の前のことを一つ一つやっていくのよー。人の目を気にする暇はないのよー」と先生は言う。どうして先生が言うと、心の中に入ってくるんだろう。

他の人に言われても、「わかっているよぅ」と私は毒づくだろう。いや、先生に言われたとしてもいつもなら、「知っているのに。。。」とすねるだろう。

このタイミングだったから・・・かな。先生のパワー?・・・もあるけれど。


9回もデモをみて、見ている方も整ってくる。その上で言われるからこそ、入ってくるのかな。

先生の言葉に、疑問を持ったり、反論したり、感動したり、そういうことか!を体感したり、心や頭が忙しい。

この動いている感じが、凝り固まった私の筋肉やこだわりをほぐしてくれているのかもしれない。


先生の所作、たたずまいは、言語化できない。本間先生は、「キネシオロジーは芸術なんだよ」という。

どなたかが、「芸術ってどういうことですか?」とお聞きすると「言語化できないんだ」と答えていた。

先生が見せるセッションも、なかなか言語化できない。言語化して、自分レベルに落として、自分も使えるようにしたいのに。


先生が、ひとつひとつおいてくれる宝物のような言葉を、ノートに一生懸命書きとる。でも、言語化したとたん、違うものになってしまう。

芸術というのは「言葉ではない」表現方法ですものね。

隣に座っていた、本間キネシ歴20年越えの男性は、一切メモを取っていなかった。よく見るしかないように思った。


帰宅後、私は追加で自分を調整した。

・私は不完全です。
・私はいつまでたっても不完全です。
・私はまだ、こんなところにいます。
・私はまだ、この程度です。
・「まだこの程度なの」
・「まだそんなところにいるの」

これらの言葉を一つ言いながら筋反射チェック。オフが出たら、調整。

オフというのは、筋反射で力が入らない状態で、ストレスを感じているということ。調整は、アロマか、エッセンスが選ばれて、全部整えた。

セルフキネシは、自分が整うだけでなく、自分という実験台を使って、オフリストが浮かんでくるのがいいね。


明日は、セルフセラピーカードのお茶会だ。こんなに遅くなると思っていなかったから、準備もしていないもの。

早く寝なきゃ。もう2時を回ってしまった。。。心地よい学びの時間が終わるのを惜しみながら、急に吹き始めた秋風を感じていた。

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