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私の人生哲学

私は、一つ一つの行動になぜなぜを繰り返してしまう癖がある。
そうすると、いつも辿りつくのは「なぜ私は生きるのか」だ。
だから、悩ましかった。
何のために働くのか?何のために頑張るのか?何に向かって頑張ればいいのか?すべてが分からない。生きる理由に辿りつく。
分からないから何も行動ができない。暗闇を走るようなものだ。

21歳の時、ふと腑に落ちるアイデアを閃いた。
それから「なぜ私は生きるのか」「何のために働くのか?」「何のために頑張るのか?」「何に向かって頑張ればいいのか?」すべてに明確な答えが出せるようになった。
人生の大きな選択はすべてこれに照らし合わせて決断している。

そんな私の人生哲学を書いていこうと思う。
かなり熟考したテーマなので、長文となっている。
まとめだけ見れば大枠が分かるようになっているが、上から読んでもらうことを前提に作成している。


なぜ私は生きるのか

人が生きる意味は、3つの答えがあると思っている。

一つは「生きる意味は無い」。これは自然の摂理としての真実だと思う。
前提として、「意味」という言葉自体が相対的(自分以外に評価する人がいること)である。
例えば手元のマグカップはなんのために存在しているだろうか。
コーヒーを入れるため?お茶を入れるため?
…それは私にとっての存在する理由だ。私が評価している。
アリがマグカップを見ればただの置物で、存在する理由はない。
赤ちゃんがマグカップを見ればただのおもちゃで、遊ぶものだ。
マグカップが自分自身を見れば、ただそこにあるだけだ。

つまり、生きる理由を答えるには誰が評価するかを決める必要がある。
「生きる意味は何だろう」という自問するとき、評価者は世界や宇宙や神、そういう絶対的な存在から見て私は何の意味があるのだろうともやもやしていた。
その答えとしては、「生きる意味は無い」。
絶対的な存在など無いか、あったとしても私一人なんて勝手に生きて勝手に死んで、自然淘汰で増えたり増えなかったりする自然の一部だからだ。
そんな細胞1粒分くらいの小さな命に何も意味はない。

さて、あと二つ生きる意味の答えがあると思っている。
まず「無限に意味がある」だ。
意味とは相対的な言葉で、評価者の数だけ意味が存在する。
親にとってはかけがえのない子供。
友達にとっては心通じ合える大事な人。
会社にとっては利益を生むために必要な人。
国にとっては労働し、税金を納めるための人。
自分を評価する存在の数だけ、無限にある。
それぞれが、それぞれに正しい私の意味を見出してくれている。

最後に「自分で決められる」だ。
自分が評価者になれば、自分の意味は自分で決められる。
心が評価者となり、自分で決める方法。
心は不安定だから取り扱いが難しいけど、一つの答えだと思う。
"私はこれが好きだ"と言って、それを否定ことは誰もできない。

まとめると、
生きる意味は評価者によって変わる。
・評価者が宇宙なら、生きる意味は無い
・評価者が他者なら、無限に生きる意味がある
・評価者が自分なら、自分で意味を決められる

どれを選ぶかは個人の自由である。

欲求はいつ満たされるのか

生きることに対する大義名分は分かったと。
しかし、人間は欲深い。いろいろなものを欲しがる。
いつも現状に物足りなくて、何かが欲しくなる。
完全に満たされた最高の状態を求めているのに、ゴールに届いたと思ったらゴールも一緒に前に進んでしまう。
いつになったら欲望は満たされるのだろうか。
いろいろ考えてみた。

莫大な資産を手に入れたら満たされる…?
憧れのかっこいい車を手に入れたら満たされる…?
大企業の社長になったら満たされる…?
働かずに生活できるようになったら満たされる…?

うーん、どれもYesとは言い難い。
でも、年上の大人たちを見ているとタイムリミットがあるように思える。
「自分が働く理由は家族のためだ!」
その場所で満足してしまう前に、もっと何かすごいことを達成したい。

….…まてよ、そこで満足するのか?
家族のために働いて、それで満たされるのか?
たしかに、満たされるかもしれない。
親が辛そうだと辛いし、兄弟が何かうまくいったと聞くとすごく嬉しい。心が満たされる。なぜだ?

何か良い出来事の度合いに関わらず、幸せそうならそれで満たされる。
もしかしたら、家族に幸せになってもらうことは、自分の幸せなのかもしれない。

もしそうであれば、その最終形態はどこだろう。どこがゴールだろう。
もしすべての人を家族のように思えれば、究極的な状態ではないか?
もし他人の幸せで喜びを感じることができれば、自分はとてつもない満足感を得られるかもしれない。

試しに想像してみる。
自分が通行人に道を案内する。
通行人からは感謝されるが、感謝が嬉しいのではなくて、与えられたこと自体が幸せと感じる。….なんだか満たされそうだ。

友達が困っているところを助ける。
友達からお礼に飲み物を貰ったが、見返りを貰うことが嬉しいのではなく、困っているときに助けられたこと自体が幸せと感じる。…なんだか満たされそうだ。

最初はちょっと想像が難しいけど、感覚的にYesだとは感じた。
他人に与えることで、満たされた状態になれる感覚がある。
でも、あくまで感覚的なものだ。理論で説明できない。
なので今は仮定として設定させてもらう。

仮定① 家族の幸せは自分の満足につながる
仮定② どんな相手でも家族のように思うことができる
この二つの仮定が正しければ、
「周りの人を幸せにすると、自分はとても満たされる」が導かれる。

さらに、他者から見た自分の生きる意味がどんどん増えることになる。
一石二鳥だ。

私はこの結論を信じて、人生哲学としている。
しかし、こんな甘い話、世の中では通用しないかもしれない。
ここから先は厳しい世の中にどう適用するか、落とし込む話をする。

方法論

周りの人を幸せにすると、自分はとても満たされる。
どうすれば周りの人を幸せにできるだろうか。

周りの人を幸せにするには

残念ながら、他人の幸福感には直接アプローチすることはできない。
幸せとは主観的なものだからだ。
その人がどんな状況であれ、幸せと思っていれば幸せだし、不幸だと思えばその人は不幸だ。
幸せな人はこれ以上欲しいものが無いかもしれないし、不幸な人に何か与えても欲が膨らむだけで幸せにはならないかもしれない。
幸せになるための考え方を説教しても、他人の信じるものを変えるのは相当難しい。
だから、他人を直接幸せにすることはできないと考えている。

しかし、間接的にはアプローチできると思う。
極端な例だが、
今日の食費のために苦労している人へ職を与えたら人生を前向きにとらえられるかもしれない。
楽しみが無くて退屈な人に娯楽を与えたら毎日頑張れるかもしれない。
子供のお小遣いを500円増やすと友達との時間がもっと楽しくなるかもしれない。
どう感じるかは受け取った人によるけれど、お金でも、食べ物でも、物でも、相手にとって価値あるものを与えると、一歩前に進むだろうと思う。

年収で言うと、年収200万円の暮らしよりも年収700万円の暮らしのほうがきっと幸せだ。
一応そういう統計データもある。

出典:独立行政法労働政策研究・研修機構
就業者のライフキャリア意識調査ー 仕事、学習、生活に対する意識

つまり、価値の量だけ幸せになる確率があがりそうだ。
百万単位ではなくても、ちょっと荷物を持ってあげるのもそれは相手にとっての価値で、小さな幸せのきっかけになりうる。
さらに言えば、「与える」よりも「自分で価値を得られるようにさせる」方が良さそうだが、それ自体が効率の良い「与える」行動だ。

人の幸福感に対して他人(自分)が行えるのは、幸せを感じる確率を上げることくらいしかできない。
その確率を上げるためには、できるだけ多くの価値を与えれば良さそうだ。

では、価値とはどのようなものだろうか。
そもそもどうやって価値を手に入れればよいだろうか。

より多くの価値を与えるために

より多くの価値を与えるためには、まず自分が価値を手に入れる必要がある。
ここでの価値は、人が「良い」と思う感覚を指す。

価値は、究極的には自然から手に入れることができる。
例えば山に行って飲み水を汲めば、その水は自分にとって有用な価値のあるものだ。自然から手に入れることができる。

そして価値は、主観的なものだという性質がある。
価値を表すために、お金という道具を使って考えてみようと思う。
例えば水が入ったペットボトルがあるとする。
ほとんどの人にとっては、100円程度の価値のものだ。
猛暑日の山奥にいる人にとっては、200円、300円もしくは1万円でも買う価値のあるものかもしれない。
このように、同じものでも人によって価値の感じ方が違う。

この性質を利用すると、交換によっても価値を増やすことができる。
ペットボトル一本分のどこでもドアがあって、家にいる人と猛暑日の山奥の人とで水とお金を交換するとする。
家にいる人は100円の価値があると思っているが、山奥にいる人は300円の価値があると思っている。これを200円で取引した。
家にいる人は100円の水が200円で売れで超ラッキーだ。
山奥にいる人は300円でも欲しい水を200円で買えて超ラッキーだ。
二人のラッキーを足し合わせてみると200円分の価値が生まれている。
このゲームに負けた人はいない。全員が勝者だ。
ビジネスの世界では「相乗効果」「シナジー」「win-win」と呼ばれる現象だ。
このように、余っている持っている人と欲しがっている人が交換ことで、価値の総量が増え、そこから価値を手に入れることができる。
ほとんどの仕事でこの原理が働いている。

盲点になりがちなのは買うときも価値を生み出しているということだ。
例えばお腹が空いて、なんとなく1000円のランチを食べたとする。1000円で得られたものは食べ物と美味しさだ。
例えばお腹が空いて、頑張った仕事のご褒美に、同僚とのコミュニケーションも兼ねて、野菜中心の1000円のランチを食べたとする。1000円で得られたものは食べ物と美味しさ、ご褒美としてのうれしさ、コミュニケーションの空間、健康にプラスになることだ。
後者の方が、自分の感じる価値はきっと多い。

この例ではお金を挟んでいるが、お金を挟まなくても同様だ。
友達にプレゼントを与えようと思ったとき、なんでもない日に渡すよりも特別な日や何か達成したときに渡すと受け取り手の価値は跳ね上がる。

買うときも、売るときも、プレゼントするときも、工夫次第で多くの価値を生み出すことができる。
工夫は無限大で、すごく難しいから、この辺はビジネスでうまくいっている人に聞くべき内容だと思う。
しかし中心になるのはこの考え方のはずだ。
価値を手に入れるには価値の感じ方の差が大きい人と交換して価値を生み出すのがよさそうだ。
そして生み出した分、誰かに与えることができる

限りある資源をどう分配するか

そうやって価値を生み出すことに成功したとして、誰にどれだけ価値を与えるかは大きな問題だ。資源はいつも限りがあるからだ。
世界中の人を幸せにしたいけど、それほどお金が無い。
家族、親族、子供、いとこ、みんなとたくさん過ごしたいけどそれほど時間が無い。
自分が関わって生まれた商品を全員に届けたいけど、それほど能力が無い。
すべて、資源が有限だからだ。どこかで線引きをしないといけない。

線引きのために、いくつかの状況を考えてみる。
世の中、白か黒、0か100、YesかNoで分けるのは難しいが、自分の感情を確かめるために極端に仮定して考えてみる。
・世界中の貧困を無くせたけど、家族を悲しませてしまったら?
・家族を幸せに出来たけど、世界の貧困を無くせなかったら?
・世界中の人を幸せにして、友達を悲しませてしまったら?
・友達を幸せにして、家族を悲しませてしまったら?
・世界中の国々の人と出会うことが出来て、家族や友達を失ってしまったら?
・家族や友達とたくさん過ごせて、世界中の国々の人と出会うことができなかったら?

私としては、自分に近い人が最も大事だ。
だからといって、自分から遠い人を完全にないがしろにするのも嫌だ。
次の図のように分配するのが感情として納得する。

自分の資源が多かったり少なかったりして、曲線の形は変わるけども、身近な人から順番に与えられるとどれも感情的に納得できる。

価値を生み出すことに成功したら、自分の近くから順に価値を与えたい
近い人ほど、少数人に多くのの価値を。
遠い人ほど、大人数に少ない価値を。
手の届かない場所は、手が届くようになるまで手を出さない。
まずは自分の周りから幸せになってもらい、手が届くようになるまで頑張る。
少なくとも、一番近い人を幸せにできたらきっと幸せだと思う。
すごく遠い人を幸せに出来たら、もっと幸せだと思う。

自分への資源の配分はどうするか

資源は自分の為にも使うべきだと思う。
そうでなければ気が狂ってしまう。
美味しいものは食べたいし、何も食べなければ死んでしまうし、たまには娯楽も楽しみたい。

正直、これはどれくらいの量でも良い。周りに与えていればそれでよい。
ただ、効率的には、自分は最低限の欲求を満たすところまでに抑えるのが良いと思っている。
与えることで、後からそれ以上のものが付いてくるからだ。

どうして後から付いてくるのか、図を使って考える。

※「周り」を表現するために左右に人を配置

自分がいて、自分は最低限の資源を得る。
周りの人は近い人から順にたくさんの資源を得る。
家族にはたくさんの価値を与えて、全人類には少しだけ価値を与える。
そういう状態だ。

それを上から俯瞰した図にすると、次のように見える。濃さは価値の量。

この図を一つ置くとただ穴が開いているだけである。

しかし、同じような考え方の人が近くにいると自分にもちょっと色が付く。

同じような価値観を持っている人は互いに引き合う。類は友を呼ぶ。
その上、自分に与えてくれる人がいれば、誰しも近寄りたくなるものだ。
お互いに与えあえば、お互いに引き合う。

※描画ソフトの都合上、濃さを正確に表現できていません。

すると中心点は濃くなってくる。
同じような価値観を持っている他の人もちゃんと色が付いている。

価値は交換することで増えるから、結果的に最も与えた人の元へ価値が集まる。

でも、自分がやっていることは自分の最低限の欲求を満たし、近くにいる人から順に資源を配分しているだけ。

このように与えて与えられてのサイクルはどんどん価値が生まれる。
誰かに100と感じるを上げると、110と感じるものが返ってくる。
相手から見ても同様だ。

この循環は膨れ上がるので、特に初期のうちは自分への資源は最小限に抑えるのが効率的だと思っている。

もちろん、自分にたくさん分配して余りを周りに与えるのでも良い。
効率の観点では、初期は最小限に抑えたほうが良さそうだ。

それで本当に満たされるか

ここまで、なんだか夢物語のようなことを言っていたり、ビジネスの本質のようなことを言っていたりするが、そもそもやりたいのは自分の欲求が満たされることだ。

先ほどから資源資源と言っているが、ありていに言えば「お金」だ。
場所も時間も能力も、大体お金に変換できる。
多くを与えようとするなら、多く稼ぐ人の方がたくさん価値を提供することができるはずだ。
人に与えて返ってくる循環がどれだけ大きいかを見るには、稼ぎを見ればおおよそ最大値が分かる。
お金を稼ぐことが与えることすべての起爆剤になり、お金が価値の流れを作る。
つまり、たくさん与えるためのカギは「お金を稼ぐこと」だと思う。

しかし一番知りたいのは自分が満たされるかどうかだ。
たくさん稼ぐほど満たされるのか?たくさん与えるほど満たされるのか?ということが知りたい。
だから、お金を稼げたかどうか、人に与えられたかどうかでどんな未来が待ち受けているかを想像してみる。

もし好循環が生まれてお金を稼げたなら、それは幸運だ。
きっと妬まれることもなく、自分は困っている人を助けることができ、周りに人はお返しをしたくてうずうずしながら傍にいてくれる。
遠くにいる人にも影響を及ぼせたのなら、歴史に残る可能性だってある。
お金持ち、成功者、有名人、欲しがらずとも、自分に見合う言葉になっていると思う。しかしそれは自分の幸せの根源ではない。
お金を稼ぐ過程で人を幸せにしていることが自分にとっての幸せだと感じると思う。

もし不運が連続し、財布が空っぽになっても、きっとそれほど不幸じゃない。
一番近くにいる人だけを幸せにできたら、心は満たされていると思う。
苦しいけど、不満じゃない。お金は必要だけど、もっと大事なものがここにある。
「大事な人を幸せにするためにお金を稼いでいるんだ」と胸に秘めて働いていると思う。それは素敵だ。

もし誰一人幸せに出来なかったら、それは悲しい。
お金が無ければもっと悲しいし、お金があっても虚無が待ち受けていると思う。
きっと何のために働いているのか、分からなくなる。
人に価値を与えていなければ、稼ぎに関わらずきっと悲しい。

与えて稼げた未来、与えて稼げなかった未来、与えなかった未来は、きっとこんな感じだと思う。
どう転んでも、人に価値を与える行動をしていたらきっと満ち足りる。
家族に「いつもありがとう」と言ってコンビニのデザートを渡すだけでも自分の心はきっと満たされる。
プレゼントするものがデザートではなく、コース料理に、旅行に、とグレードアップできたらもっと喜んでくれるし、自分もきっと満たされる。
与える価値の量が多ければ多いほどいい気持ちになれるが、どの地点でも満たされている
どう転んでも、満足はすぐ目の前にある。
だから、この厳しい世の中でも
「周りの人を幸せにすると、自分はとても満たされる」
という状態にはたどり着けると思う。

この考え方の弱点

この考え方にはいくつか弱点がある。

①社会性が前提にある

これらは人間が社会的な生き物、つまり、与えられたらお返ししようとか、自分を大事にしてくれる人を大事にしようとか、そういう考えが本能として備わっていることを前提に成り立っている。
災害時のパニックのように、社会性が失われて皆が自分のためだけに行動するような状況では、この行動は一人虚しく負けてしまうことになる。
秩序が保たれた環境では成立するが、本能むき出しのカオスな状況下では得策ではないと思う。

②与える相手をミスると自滅する

同じ価値観の人間関係が出来上がればすごく強力だが、我先にモノを欲しがる人が周りにいると、吸い取られておしまいだ。
その人が自分の大切な人ならば全く問題ない。
しかし、貰ったのにお礼も感謝しない人の周りには同じような人が近くにいることが多い。
そこへいくら与えても吸い取られるだけなので、そういう人たちからは一定の距離を取る必要があると思う。
見返りを求めようということではなく、社会的な行動は社会性のある環境で行おうということだ。

③自分を犠牲にしがち

人のために頑張っても、自分の腹が減っては元も子もない。
喉が渇いた人が喉が渇いた人に水をあげても、お互いに300円だと認識しているものを交換したところで増えた価値は0だ。
お金が無いのにお金をあげても何の価値も生まない。
時間が無いのに労働力を提供しても何の価値も生まない。
ただ等価交換しているだけ。資源の形が変わるだけ。
だから、自分の最低限の欲求は最優先にしないといけない。

残業続きで薄給なら、自分のために時間とお金を使った方がいい。
それで、より待遇の良い職場を見つけてから周りに与えたほうがいい。

この考え方の位置付け

個人的に、この考え方は腑に落ちている。
答えの一つだと思っているが、答えは一つではないと思っている。
恐らく自分を満たすルートはいくつもあり、これは一つのルートだと思う。
例えが悪いかもしれないが、民主主義と共産主義のようなイメージだ。(党ではなく、主義の話)
たぶん、どちらも筋が通っていて正しい。
同じように、他にもルートがあるように思える。
だから強要は禁物だと思っている。

この考え方の表現方法もたくさんあると思っている。
私は「周りの人を幸せにする」からスタートして構築したが、「たくさんお金を稼ぐ」からスタートして同じような考え方になっている人も見たことがある。
「周りの人を幸せにするためにはお金を稼ぐことが必要」と言ったり、
「お金を稼ぐためには周りの人を幸せにする行動が必要」と言ったり、
いろんな表現がある。
だから、これは本質の照らし方の一つだと思っている。

この考え方の良いところは、持続可能でスケール可能な点だ。(なんだかカッコいい)

人に与えずに自分の資源を全部自分に配分すると、周りの不満が増すから持続しない。
でも、「あの人が成功すると自分の生活が良くなる」と周りが思っていれば、誰も不満を感じない。
与えることで相手は喜び、価値が生まれ、生まれた価値をまた与えることができる。この循環は持続可能だ。

あるゲームの必勝方法を発見したとして、真似されると自分が負けるのであれば誰にも教えたくない。
しかしこれは誰も負けない。全員が嬉しい。むしろ真似する人が増えるほど勝率が上がる。たとえ真似されなくても、自分一人で完結できる。
真似を歓迎できるということは、スケール(拡大)が可能だということだ。
一人の力で頑張るよりも、みんなの力が合わさった方がより良い結果を期待できる。

まとめ

かなり長文になってしまったが、まとめるとこういうことだ。

仮定① 家族の幸せは自分の満足につながる
仮定② どんな相手でも家族のように思うことができる
この二つの仮定が正しければ、
「周りの人を幸せにすると、自分はとても満たされる」はずである。

そして生きる意味は相対的なものだから、周りの人を幸せにすると自分の生きる意味さえも見出すことができる。

だから、周りの人を幸せにしたい

人を幸せにするためには、その人に価値を与えればよい。(人の幸福に対して、それくらいしかできない)
価値は、価値の感じ方の差が大きい人と何かを交換することで生み出すことができる。
価値を生み出すことに成功したら、次の配分で分配したい。
・自分に近い人ほど多く、遠い人ほど少なく与える
・自分への資源の配分は最低限の欲求を満たすだけにする(効率の為に)
すると、後から与えた以上の価値が返ってくるはず。
そうやって生み出した分、また誰かに与えることができる。

この循環を強化するため鍵は「お金を稼ぐこと」だが、
それがあまり出来なかったとしても、大した問題では無い。
一番大事な人を幸せに出来れば、自分は満たされるから。




最後までお読みいただき、ありがとうございました。

この記事は、"インターネットで繋がる人"という距離のあなたに、少しでも価値を感じてもらえたら嬉しいと思い作成しました。
本当はもっとたくさんの価値を与えたいのですが、まだ力不足でそこまで届きません。でも、ほんの少し、気付きを与えることが出来たなら私は嬉しく思います。それだけでも、私が存在する意味を一つ作ったことになるからです。

もし共感していただけたなら、さっそく実践してみて欲しいです。
例えばコンビニでデザートを買って、家族に「いつもありがとう」と言って渡すだけで十分です。
見返りがなくても、満たされる感覚がきっと分かると思います。

その後は、それより小さなことを友人や同僚にやってみて欲しいです。
満たされる感覚が分かれば、この考えを自分の経験として落とし込むことができるはずです。

これからも、少しでもお役に立てる情報を発信していきたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。

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