中央一丁目の窓辺から①『街の灯』
「そびえ立つ摩天楼、明るく輝く電燈の光、活気にあふれた広告の照明。そうしたものがたちまち希望と冒険心を掻き立ててくれた。これこそ僕が住む街だ!」
イギリス・ブロードウェーでチャップリンが名作『街の灯』に際して語った言葉だ。目の見えないヒロインの女性が恋心を抱く紳士。その正体はチャプリン扮するホームレスであった。彼もまた、彼女に恋心を抱き、彼女が暮らしていけるよう健気に奮闘する。彼の頑張りによって、ついにヒロインは目の手術を行うことができる事となる。手術は成功し、その後二人は明るみの中で偶然に出会う。
ヒロインは彼と初めて向き合い、夢から覚めるような感覚にとらわれた。チャップリン扮する主人公の、何とも言えない笑顔で幕は閉じる。目の手術が成功した後、彼は彼女に対しての存在意義を失った。闇の中でのみ光り輝くことのできる、まさしく街の灯のような主人公。こんな映画を観た後から「石巻の街の灯は何か」をずっと考えている。
僕らにとっての街の灯は、中央一丁目にあった日活パールのネオン看板だ。震災後に残っていた市街地最後の劇場である。石巻にUターンしてからまだ間もない頃、このパール裏手にある、毎週水曜日の夜だけオープンしていたとある居酒屋によく通った。
店内は5~6席のみで、歴史や文化、政治や宗教、未来の事から下らない話まで、四方山話が毎度繰り広げられる。聞き役に徹していた僕も、たまには酔っ払った勢いで震災後の石巻の新しい取り組みについて生意気に語る。そこで日活パールと身近な所にいる人たちと出会い、お話しする機会が何度かあった。
劇場がダンスホールだった頃のこと、芝居小屋だった頃のこと、個人運営としては東北最後の館となったこと。そして震災を経て3か月後に再オープンへ踏み切ったこと。ここでは書ききれない映画さながらのドラマがこの劇場にはあったのだ。
2017年6月に日活パール劇場は閉館した。同年7月からリボーンアート・フェスティバルの会場の一つとなり、臨時的に開館する。しかし新しく劇場に興味を持つ人が多くなり始めた矢先、同フェスティバルの会期中である8月5日、館主である清野太兵衛さんが90歳で亡くなられた。結局一度も会えぬままだった。しかし閉館後もなお劇場に渦巻く文化や人のエネルギーのようなものに魅了された。チャップリンの言葉を借りるならば、希望と冒険心を掻き立てられたのだった。
「津波が来ようが地震が来ようが、映画の灯は消しませんよ。われわれには表現の自由が約束されてる。ポルノでもなんでも、懸命に表現している人たちのためにも、私はこの映画館を閉じません」(週刊ポスト2011年7月22・29日号)。館主のこの言葉を読む度に、その情熱に激しく心を打たれ、また悔しい気持ちにもなる。日活パールは今年の春、劇場内の設備もそのほとんどを撤収し、本格的に運営を終える事となったからだ。ランドマーク的に残されていたネオン看板も撤去されようとしていたが、これだけは残さなくてはならないと瞬時に思った。
館主の情熱の灯を僕らのため息で吹き消してしまってはいけない。ニヒルに構え無関心でいることも、悟ったふりをして自然淘汰に身を任せることも簡単だが、もしこれがドラマだったなら、そんな展開はつまらない。日活パールにはもっとロマンチックな未来のストーリーがあるはずだ。館側に強くお願いし、この看板と共に壊れた古い映写機、映画ののぼり、スナップ写真を引き取らせていただいた。
現在、この看板は中央一丁目で始動したシアターキネマティカの2Fで保管している。電源を入れればいつでもあの生きたネオンの赤色が灯る。施設を訪れる人が皆、この生きている赤色を見ると感嘆の声を上げる。劇場を無事にオープンさせられた暁には、もっと多くの皆さんに、この文化通りの街の灯として見ていただけるようにするつもりだ。
街灯は闇の中で輝き、明るくなれば不要になるのだろうか。コロナの時代に入っている今、劇場の閉館や文化事業の衰退は、石巻だけの問題ではない。大切にされるべきものが、人の視界に入りづらくなっている。本当に大切なものはなかなか目には見えない。ならば石巻のストーリーをこれから展開してゆく僕らは、もっともっと、目を凝らさなくてはいけない。
僕らがプロジェクトを開始した後のこと。娘さんの夢の中に、父であり館主である太兵衛さんが出てきて、とても喜んでいたという話をお聞きした。本当に夢枕に立ってくれたのならこんなに嬉しい事はないし、この夢が館長の娘さんの思いによって描かれたものであるならば、なおのこと嬉しい。
今年も8月5日が近づく。館主のもとに手を合わせに行くと、いつも写真の中の太兵衛さんは優しい目でこちらを見て微笑んで、何かを語りかけてくれる。今年もまた灯しますからねと、目をつむり、手を合わせたい。 やぐち
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