公演中止、入院、退院、復帰
最近のことを振り返ります。
3/9に予定していた、東京・三軒茶屋「よんちゃ」でのキネマズワンマンライブ。SNS等でお知らせし、その日もとっくに過ぎてしまいましたが、当日急遽中止になりました。僕の胃がめちゃくちゃ痛くなってしまい、三軒茶屋のクリニックからそのまま救急車で運ばれてしまいました。診断の結果「急性虫垂炎」・・・つまり盲腸ということでした。わざわざ足を運んでくれた皆様、改めて本当に申し訳ございませんでした。
盲腸になると、盲腸の部分に痛みを感じるわけではなく、みぞおちの下くらいが痛みだし、痛みの箇所がどんどん下へ下がって行くものらしいです。街のクリニックでの診断でも、救急車で運ばれた先でレントゲンやCTを撮ったあとでも、すぐに盲腸だと診断されませんでした。救急の担当医からも「原因が見当たらないので、多分胃腸炎ですかね・・・。念のため入院しますか?」ぐらいの感じでした。その後別の先生が見に来て「これ、盲腸だね」と診断されなければ・・・もしかしたらそのまま夜の東京に放たれていたかもしれません。
急激な寒気が襲ってきてからは、40度の熱が2晩続きました。ベッドの上で点滴のみ。水とポカリは飲んでいいけど食事は不可。メンバーにはなんやかんや言って、お見舞いには来ないでくれと伝えました。元気なのは文字だけで、見た目は完全に憔悴しきってました。誰にも会いたくない、というのが正直な気持ちでした。
入院3日目の朝。毎日の血液検査で、数値が良くなっている場合はそのまま点滴投与~数日後に退院(手術なしの投薬治療のみ)、が一般的らしいのですが、この日はいつもと違う、どことなく威厳のありそうな先生がやってきました。「あ、これだめかな。」と瞬時で察知しました。案の定血液検査の数値が悪いとのこと。「このまま投薬続けて様子見るか、今日切っちゃうか。どうする?」「切ってください。」即答でした。薬で収まったとしても、再発率20%。もうこんな思い(ライブの中止も、盲腸の痛みも)二度としたくないので、とっとと切ってくれ。その思いですぐサインしました。
午後1時。手術室に移動し、全身麻酔からの手術。初めての全身麻酔。万が一、戻ってこれない可能性があるのが全身麻酔。勢いで手術を決めたものの、一瞬死を覚悟しました。
麻酔を投与され、眠った瞬間に「宮下さん」と呼ぶ声。「・・・はい?」「もう終わりましたよ。お疲れ様でした。」「・・・えっ?えっ??」気づかないうちに眠り、そして終わってました。実際にかかった手術時間・1時間半。体感2秒。感動しました。
その日はそのまま身体を動かすことができず、でもスマホを触ることくらいはできたので、そのままSNSを更新したり、YouTubeの動画を観たりして過ごしました。翌日からは歩くリハビリ。すぐにでも復帰したかったので、翌日朝から歩きまくりました。4日ぶりにシャワーも浴びることができました。病は気からだ、と病院で支給された服はすぐに着替えました。切った患部はさすがに腫れてましたが、甘やかさないことにしました。この3日ほどで5kg痩せていましたのでさすがに体力の衰えを感じましたが、その後の努力の甲斐もあり、土曜日退院の予定が二日前倒しの木曜日退院になりました。
退院の前日。クリニックから救急車で運ばれてきて、そのまま寝たまま病室にイン、からの手術、病棟変更・・・で、ほぼ屋内のみで過ごしてきたので、この日ようやく自分がいる病院の外に出ました。正面玄関を見て、こんなところに入院してたんだ。と、自分が東京の、全く知らない場所で過ごしていたんだと思うと、何とも言えない気持ちになりました。もう何もキャンセルしたくないけど、でも直前キャンセルでまた迷惑をかけるわけにもいかない・・・という判断から、この3日後・3/16土曜日に予定していた京都での日本酒イベントをキャンセルすることに決めました。代わりにムッティーと慶司さんが類似イベントを開いてくれることになり、お任せしました。このキャンセルで、復帰するんだ、と気を張っていたのが緩んでしまいました。心の疲れを感じました。
夜、ホワイトとスタッフのよーこちゃんがお見舞いに来てくれました。久しぶりに沢山喋ったら酸欠気味になりました。死ぬかと思いました。
退院の日。荷物全てを持って帰れないと思い、病院で段ボールを貰って一部荷物は郵送。退院の手続きをして、新幹線で名古屋へ戻りました。まだお粥しか食べてなかったけど、なんとなく肉が必要な気がして、品川駅で焼肉弁当を買い、1時間かけて食べました。東京の生活・・・病院の中ではありましたが・・・病室の窓から東京タワーとスカイツリーが見えて、夜は東京タワーがライトアップされていて。ここで暮らすという選択も悪くないな。なんてことも思ったのですが、名古屋に到着した時、ホームに帰ってきた安心感もやっぱりありました 。
退院翌日・3/15金曜日。翌日の日本酒イベントはキャンセルしたものの、元々日本酒イベントの前にスタジオでバンド練習と曲作りを予定していて、これについては”やる・やらない”の判断を前日まで待ってもらっていました。体力的にも傷口的にもどうなのか?と自分の心身に問いかけていましたが、ここは思い切って京都まで行ってみよう。ということでスタジオは決行することに。あとは昼も夜も、この日は泥のように眠りました。
3/16土曜。ボランに車で迎えに来てもらい、京都へ出発。いとまとあやこと、ボランと僕とで。最初は足取りもおぼつかなかったけど(上記写真参照)、結果京都まで行ってみて良かったです。家にいるよりも急速に元の生活に戻ることができました。スタジオ3時間と、夜のイベントでも結局少し歌わせてもらいました。ただ、まだお酒は飲めない体調だったので、お酒だけ自粛しました。スタジオでは新曲のアレンジも大分進んだし、新たな曲の種もできたような気がします。深夜、ボランの運転でとんぼ返り。いとまだけ泊まって呑んでいくと言うので京都に置いていきました。僕が呑めないっていってんのに、みんな容赦ないなと思いました。
3/17日曜。自宅で事務作業。急速に復活してきていて、あとはお酒の解禁だけだ。と思いワインを一口飲むが、不味い・・・。身体が受け付けないような痺れを感じる。このワインが不味いのか、自分の身体が酒を受け付けないのか、判断がつかない。
3/18月曜。この日の夜はサカバーズのライブ。当然自分もpelapelaへ向かう。以前のブログで紹介した通り、サカバーズはつまり如何に酒を呑むか?に焦点が当たっていると言っても過言ではないため、ここでは自分も腹を括る。今日は酒を呑む。と。差し入れられるワインを、通常より、むしろハイペースで飲む。「今日このステージで死ぬ覚悟です」という、謎のテンションに突入。あ、ヒローシがね。僕はあくまで見ているだけですので・・・。「ステージで死ぬとしても、ここじゃないだろう」というメンバーの冷ややかな視線とは裏腹に、前日は飲めなかったワインが、どんどん身体に入ってくる。おのずと演奏のテンションもハイになっていく。およそ1時間のステージが終了。やりきった。この日を持って、復活としました。
少し時間は流れて、3/23土曜。京都駅・東広場にて弾き語りライブ。想像していた広場のイメージと違い、京都駅の7Fにあたる、天空のガーデンのような場所。寒の戻りというか、肌寒い中での弾き語りでしたが、楽しめました。誘ってくれた杉本さん、ありがとうございました。知っている人もチラホラ来てくれたり、はじめてみてくれた方がCDを買ってくれたり。写真は共演の児玉真吏奈さんと。
弾き語り、というものに、最近思うことが多くて。自分の音楽活動の中での弾き語りの立ち位置について。この翌日、お誘いいただいていた弾き語りのライブをお断りしました。かなり悩んだのですが、今の自分のスタンスとは少し違う気がしました。この辺の感覚は、中々文章では伝えきれない。音楽のクオリティの話でもないし。ただ自分の考え方が原因で、相手に失礼になるようなことはしたくない。誘っていただいたことには本当に感謝しているし、その気持ちだけでも伝わっていればいいのだけど。
キャンセルとは全く無関係ですが、昔から知っているミュージシャンだから、好きな歌を歌っている人だからこそ・・・その人の今の活動の仕方に疑問を感じたり、言い表せないモヤモヤを感じたりする。この人はあの辺りを目指しているな、とか。この人は小銭稼ぎだな、とか。(別に小銭稼ぎが悪いことだとは思いません。)それと同時に、自分の在り方が本当にこれでいいのか?と再確認する。
自分は、自分が成長することから手を抜くことは無いけど、自分への自信とセットで、自分への疑心も常に抱えているし、そうでなきゃいけないと思う。そういう意味では、色々思わせてくれる存在そのものに感謝の気持ちもある。そして同じようなモヤモヤを、きっと自分も他の誰かに感じさせているんだろう。だとしても、自分としてはただ前に進むしかない。それが誰かが望む真逆の方向だとしても。
自分や自分のチーム以外の制作物が如何に素晴らしい物であったとしても、それは自分をどこにも連れて行ってはくれない。自分がより深く遠くへ行きたいのならば、その足がかりは自分で作るしかない。得難いものを得るためには、本当に沢山の要素が必要だなと思う昨今です。
リスクも沢山あります。でもそれに対して具体的なリターンを求めることは少なくなったというか・・・すでに「やりたいことをやっている」という、一番大事で大きなリターンを受け取ってますしね。その上で、やっぱり野心だらけなんで、まだまだ欲しい物が沢山あるんですが。
ということでストップしていた新曲の制作(仮録音)もリスタートしました。今年も自分を、自分なりに、ちょっとずつ更新していきたいと思います。