30代バンド・キネマズ、海外へ。挫折、葛藤、モチベーション。
8/4(土)京都VOXhallでのワンマンライブを記念して、『キネマズ FLYER MAGAZINE vol.1』を制作しました。4/13(土)のライブ「ムジカムジナ」以降、京都を中心にライブハウス等で配布させていただきます(4/13以降は通販購入時にも封入します)。フライヤーには2本の対談が掲載されているんですが、紙面のスペースの都合上載せきれなかった”完全版”の公開です。第一弾は【宮下浩(キネマズ Vo,AG)×ムッティー(キネマズGt/京都スタジオアイジー店長)】。(2019.4.6 スタジオアイジーにて)
キネマズ / KINEMAS 2015年、ボーカル&ギター宮下浩を中心に結成。主に東京・名古屋・京都に在住の、総勢20名程のミュージシャン達によるポップス集団。日本とアジアで活動中。台湾・覚醒音樂祭-WAKE UP FESTIVAL 2016~2019出演。篠島フェス 2018出演。FUJI ROCK FESTIVAL 2018 オフィシャルラジオブースにてライブ出演、等。WEB/ Twitter/ Instagram / Facebook
STUDIO IZ(スタジオアイジー)京都は西京極にある音楽練習スタジオ。キネマズでギターを弾いてるムッティーが店長兼オーナー。「いい感じのゾーン」等、音楽以外にも色々やってます。 WEB/ Twitter/ Instagram / Facebook
宮下浩(キネマズ/Vo,AG)
宮下(以下 宮) キネマズを始めて今5年目に突入してるけど、ムッティーが最初に参加したのは?
ムッティー(以下 ム) いつやっけな?
宮 2015年に俺が「弾き語り100本ツアー」ってのを始めて。元々俺が「空中ループ」のメンバーと仲良くて。で俺が弾き語りツアーを始めて、最初は特にソロプロジェクト感が強かったから、各地にライブに行った時に「誰かゲストに招いて一緒にライブできないかな?」と思って。で、空中の森ちゅん(ベース)とかおりさん(ドラム)を誘った時に森ちゅんが「ギター、ムッティーがいいんちゃうかな。」って。そこで初めてスタジオアイジーに来て。
ム そうね。
宮 (WEBサイトを見ながら)それで初ライブが2016年1月31日、京都nanoだ。
ム それかー。
宮 この時はどういう感じだったの?
ム ライブに飢えてたかな。当時32歳か。まだ一年経ってない、スタジオアイジー経営はじめてから。
宮 まだそんな時期か。
ム スタジオアイジーって、スタジオやりたいと思って始めたわけじゃなくて。その時やっていたバンド(nurmutt)があって、でライブしてスタジオ入ってバイトして・・・ってやってるんやったら、スタジオやったらいいやん、って。
宮 スタジオ借りなくていいしね。
ム で、スタジオを持ってたら、もっとこのバンドスピードアップするな、って。バンドとセットで決めてん。バンドのために俺はスタジオを始めると。
宮 動機が。
ム にも関わらず、バンド解散しちゃったから。ボーカルが死んじゃった、ってことがあって。それが11月だから。2015年の。
宮 そんな近かったんだ。じゃ、32歳の時に、また新たなバンド(キネマズ)に参加しようと思ったんだ。
ム その時はまだサポート色強かったよね。
宮 「キネマズNAGOYA」「キネマズKYOTO」って。そのエリアのバンド、みたいた感じでね。
ム これメンバーやな。って思ったタイミングが多分あるのよ。おそらくタイミング的に・・・最初の台湾ツアー。
宮 2016年7月の。これがなかったら今どうなってたかわかんないね。この活動。もうとっくに俺は腐ってしまっていたかもしれない(笑)。
ム (笑)
宮 弾き語り100本ツアーをやろうと思ったんだよね、2015年に。結局最後はバンドになってたんだけど。最初に宣言したんだよね、100本やるって。逃げ場ないな、ってしたくて。
ム 最初はソロ活動しようとしてたの?
宮 ソロ活動をしたいというよりは、20代から10年近く音楽をやってきて、何かこう・・・ぬるま湯じゃないけど、慣れを感じてて。最初って、東名阪でツアーしたい。とか思うじゃん?それが出来るようになる時って、色んな人の力を借りながら、突破するじゃん。
ム 突破してたね。
宮 一回突破するとそのツテがあるから、東名阪ツアー自体は組むことのハードルは大分下がってるというか。組むこと自体は。それで俺も30代にして、100本ツアー回ろうと思ったんだよね。俺は俺で、このツアーで新たに何か突破したかったんだけど、でも思ってたほど突破できなかったな。っていうのが俺の最終的な実感で。もちろんムッティーと出会ったり、チームに関わる人は増えて、30代はそういうスタイルでこれから構築していこう。ってビジョンは見えてきたんだけど。でも回っている場所、行ったことある場所ばっかりだったから。
ム そうかそうか。
宮 初めての場所もあったけど、初めての場所にお願いしていくというよりは、nothingman(宮下が20代に結成したバンド)の10年で知り合ってきた人たちにお願いして場所借りたりして・・・だったから。もちろん、それで新たに興味を持ってくれた人もいたけど、べらぼうに増えたってわけじゃないし。どちらかというとnothingmanの時のお客さんってどんどん減っていったんだよね。
ム うんうん。
宮 そこは新陳代謝が行われているというか、自分がやってきたnothingmanという3ピースバンドのスタイルと、キネマズのスタイルって明らかに違うと。そのツアーの中にすごく沢山の試行錯誤があって。良い面も見せてたかもしれないけど、良くない面も多分沢山見せてて。逆に興味を持たせなくなってしまった時間が、この100本の中に沢山あったな、って。勿論全て俺の責任なんだけど。その中で、あの最初の台湾(2016年7月)が、その時の自分にとっての、20代の時の東名阪だったんだよね。
ム まあね。それはそうやったと思う。
宮 話が来たってことが超幸運で。あれはドラムの半ちゃん(半田翔)が持ってきてくれた話で。こういう(沢山のメンバーがいる)形態だったからこそ来た話で。nothingmanだったらまず来なかったから。この100本の中でこれが一番、新たなことを突破していくという意味では針の穴くらいを開けられたかな。
ムッティー(キネマズGt/京都スタジオアイジー店長)
宮 ムッティーは30過ぎての今のこの状況を、もっと若い時からイメージしてた?
ム 俺はもう早かったから。プロを意識してたの、中学生くらいからだったから。
宮 早いね!俺は全然考えてなかった。
ム 日本人の一般的な既定路線ってあるやん。学校に行くこととか、大学に行って会社に入るとか。それはちょっと自分には無理やなっていう逃避はあったけどね、俺の場合は。でも今ってみんな「音楽家」だけじゃなくて、色んな肩書を持っていたりして。
宮 変わってきたもんね時代も。
ム そういう意味でも台湾はでかかったよね。久々に振り返るな(笑)。
宮 そもそも俺飛行機もすごく嫌いで。乗りたくねえ!って(笑)。
ム そうなん(笑)。
宮 今は平気だけど(笑)。バンドの活動って、他者評価がでかいじゃん。それめちゃくちゃ大事で、求められてないと存在する意味もない、っていうシビアな目も自分に向けるけど、でも自分の人生で考えた時に、他人の評価にあんまり左右されたくないなって。
ム うん。
宮 自分としてモチベーションを保って、新たなことを初めていこうと思った時の原動力に、他人からの評価が少ないからそれができない、みたいな。勿論お客さんからの評価が高いからできることは沢山あるから高いに超したことはことは無いんだけど、でも評価が低いからと言って自分が信じているものの価値が下がるのか?っていったらそうじゃないし。評価が低いからできないし諦めなきゃな、では何もできんやろ。と。
ム そやねん。
宮 評価されたら、それはもちろんとても感謝なんだけど、それがなくてもやりたいことはあって、それを突破していきたいなっていうのがあって。俺はそれを東日本大震災の時に感じて。人って死ぬな、って。だからやんなきゃな。せめて、勇気なくてやれないってことは無しだなって。そういう考え方にすごく振りきれた瞬間で。だから台湾も、新しいところに踏み込むことはビビるんだけど・・・とにかく行ってみて。その最初がムッティーも一緒に行った、1回目のWAKE UP FESのステージ。MCとか何喋るんだ、みたいな(笑)。
ム そうやな(笑)。
宮 あれが意外と盛り上がってね。そこから海外行こうと。ライブだけじゃなくて、その前後にもコミュニケーションとって。日取り決めたり宿とったり飛行機買ったり、全部自分たちでやるわけだから。そういうのも含めて、これは自分という人間の新たな成長のチャンスだなと。自分をもっと強くしていきたいというか。今までと同じで、ずっとアリアハンにいたらダメなんだ、みたいな(笑)。
ム そうね(笑)。
宮 サッカー選手が「海外行け」とかよく言うやん。あれ結構好きで。俺も海外行った方がいいなって。MCなんか全然通用しないから、言葉での説明って少なくなってくるし。今まで、言葉で何か伝えてから曲に入るって構成結構あったけど、これ日本独自かもな、とか。そういうストーリー的なステージの作り方って。もちろん世界中の全てを見たわけじゃないけど、
ム 台湾とかそうね。
宮 MC、うえーい!みたいな(笑)。海外にかぶれたいとかじゃなく、もっと音楽自体で楽しませるってところにシフトして行けたらいいなって思うと、俺は弾き語りよりはバンドかな、って。表現したいものとしては。ドラムのビートが鳴ってたら楽しいし。
ム それはすごく、自分の欲求のほうをよく見れるようになったというか。
宮 そうね。
ム やっぱ売れたいとか、人気が欲しいとか、ウケたいとか。他人の感情を動かしたいとかはもちろんあるけど、結構なんか・・・俺はやけど、自分にとって音楽をやるってこととか、音楽をやっている自分の状態とか、それが好きやなっていうのがあって。それこそ2016年に戻るけど、俺こんなにライブしてない期間が空いたことないな。ってくらい空いてん。2015年にスタジオ始めて、ライブ決まっていたやつが突然無くなって。18歳くらいからライブ活動を始めて、初めてやってん。
宮 ライブの予定が無かったのがね。
ム まず、ライブに対する活動、っていうのがあって。でキネマズに参加させてもらって。キネマズってほんま、これまでやってきたものがないとできひんやん。
宮 ああ、そうね。
ム アレンジがガチガチに決まってるってこともないし。4分なら4分の中に全然違うフレーズ入れてくるからみんな。
宮 CD出してるけど、誰もCD通りに弾かないもんね(笑)。CDでレコーディングした人は大体その通りやるけど(笑)。
ム 一人変えたら全員変えなかんみたいなとこあるやん(笑)。でももうステージに出なあかん、っていう(笑)。でもいけるな、っていうか、やるしかないんやな、っていう感覚を得て。サポートって、言うたら与えられた仕事をこなすわけやけど、キネマズやと自分がメンバーとしてこの瞬間を良くしないと、っていう。
宮 指示じゃないもんね。
ム そう。やるやる!っていう(笑)。でもやるなら良くしたいやん。曲も好きやし。もっと詰めてないと人前に出れないと思っていたことが、意外と出れるし。で、出ることのほうが重要やし。そういう場としてキネマズはありがたくて。キネマズの場合は毎回メンバーが違うから、良い演奏の定義も変わるから。そういうチャレンジが多分メンバー全員にあるから。それはみんながずっと音楽をやってきたからできてるというか。
宮 最初不安だよね(笑)。
ム セッションミュージシャンみたいなところもあるけど、ちゃんと歌にストーリーがあって、メロディーもあって構成もあるような状態でのセッションって、もうアレンジやんか。ってなるし。そういうところを楽しめたというか、そういうところが本質やなというか。結局自分が演奏したいから、音楽を良くするために楽器を弾くとか。身体を動かして行動するということ自体が好きなんやなというか。キネマズをやってると強烈に感じる。
宮 そうね。元々自分もnothingmanで、週に2・3回スタジオ入って週末ライブする、ってのを10年くらいずっとやってきて。そういうルーティンでいたから、メンバーのやることって大体わかるし、だからこそ生まれてるグルーブってのがあるし。そういうの好きな人には評価してもらえることがあったのかもしれないけど。そうじゃないプレイヤーと音を合わせるてことが、まず受け入れる側の俺が経験なかったんだよね。
ム そもそもね。nothingmanしかやってないから。
宮 だからその・・・とんでもないことになる可能性あるじゃん(笑)。
ム 常にあるのよ(笑)。
宮 だから本当に運だったね。あ、これやれるな。って、俺もやってみて思ったから。こういうメンバーの迎え入れ方ってあるな、って。
ム それ作家視点ではどうなの?自分の曲がとんでもないことになるかもしれんっていう可能性をはらんだ状態で身を預けるわけやん。
宮 あー。ムッティーもこういう形態は経験なかったし、俺ももちろん無いし、森ちゅんとかおりさんも多分無かったよね。決まったメンバーでだけのバンドをやって、作り上げていくスタイルでやってきたから。でもみんな10年とか、バンド変わったりはしたかもしれないけど、ずっと音楽やってきた人たちじゃん。長い時間ステージ立ってきた人達の、バンドマンとしてのフィジカルというか、それ結構信用に値するなっていうか。俺が25の時だったらちょっとこれは出来ないな、自分はこれに乗っかれないなって思うんだけど。やっぱり一緒に音出してみて思うけど・・・みんな上手なんだなって(笑)。
ム (笑)
宮 ライブのステージ見ててもさ、もちろん毎週のように他のバンドのステージ見てきたから、このバンド上手いな・下手だなとかってなんとなくわかるけど、ステージを見てた時のその人のクオリティと、一緒に合わせた時の感じって、ちょっと違うよね。この人はこういうの得意なんだな、とかよりわかるし。
でも何よりも、ステージ上がる時って不安もあるじゃん。もちろん振り切って、気合い入れて上がるんだけど。でも人によっては、バンドにもたらすものが、メロディーのライン・ギターやベースのフレーズってのも当然大事なんだけど、それを踏まえた上で、この人はこういうポジションでこういう空気作るな、とか、この人はこういうステージングや立ち振る舞いで俺のテンションを上げてくれるな、とか。やっぱりステージの上って戦いだから。
メンバーによって音もそうだけど、テンション上げてくれる人とか、落ち着いたクオリティをもたらせてくれる人、とか。そういう立ち位置がそれぞれ違うって思って。一概に音だけじゃないな、ライブって。だから色んな人とやるってことは色んなことに気づけるなと思うし、自分もそういうものを求めてたんだな、って気づかされるし。
あとはみんなが、ムッティーが開けてくれる俺の引き出しと、須江くん(ギター)が開けてくれる俺の引き出しって違うな、とか。俺という人間に、30年以上生きてきて、その分色んな音楽が自分の中に蓄積されていくじゃん。様々なものの積み重ねで自分のフレーズが出てくるけど、やっぱり忘れてることもいっぱいあるから。
昔、身体に染み込んだはずなのに、それがなんだったかが思い出せないことが沢山ある中で、みんながセッションの中で「あ、こんなんあったな」ってことを思い出させてくれるから。それが俺にとってはすごいプラスっていう。曲作りとか助かってる。
ム 曲作りね。もうセッションして「できた」ってなってる(笑)。
宮 20代で培ってきた音楽的な能力をみんなそれぞれ持っていて、それを瞬発力として出す、っていう。有名な画家の話で、10分くらいで書いた絵が「売ると100万円になるよ」っていうと、こんなの今ちゃちゃっと書いただけじゃん。ってもらったほうが言うんだけど、画家が「これは私が生きてきた時間プラス10分の時間がかかっているんだよ」っていう。それと同じことが行われてるなって感じる。
ム みんな積み重ねてきたんだなってことがめちゃくちゃ感じる。俺が多分ミヤシー(宮下)以外ではキネマズの中で一番違うメンバーとやってるじゃん。
宮 色んなところの遠征も参加してるしね。
ム それが結構面白い。
宮 それぞれの人生だし、みんながみんなこの選択ができるわけじゃないってことを承知の上で言うんだけど、30歳を過ぎてからの活動のほうが楽しいっていうか、より次のフィールドがあったなっていうか。20代の活動って、本当に下積みだったっていうか。でも20代の頃はそう思ってなくて、むしろ20代が最も脚光を浴びるべき黄金の時間のような気がしてて。
ム その焦りを25、6くらいの頃から感じてたとこはあるよね。
宮 大体25くらいまでに芽が出なかったらやめる。みたいなことを俺も言ってたし。田舎から出てきたから(笑)。当然そういう発想をもってたけど、違ったな。って。
ム 違ったね。全然違った。
宮 でも今も最新の音楽はそれはそれで好きで、まだ音楽やれるなっていうか。もちろんみんなの人生が少しずつ狭まっていくというか、選択肢が限られてくるって人もいるのはわかるんだけどさ。本当は狭くなってなくて、そう感じているだけかもしれないけど。
ム 選択しなくなってくるというかね。
宮 タイミングの取り方が難しくなってくるとか、そういう人もいるから。それはすごく理解できるし。だからこそこのスタイルで、メンバーが今東京と名古屋と京都にいて、韓国だったり台湾だったりに行く時は、各エリアからの混合編成にするじゃないですか俺たち。それが作れたのが、この活動の大きなメリットだなと。
ム キネマズ無かったら絶対会ってないもん、東京のメンバーとか。
宮 このスタイルじゃなかったら行けないもんね、そんなに海外。
ム そうそう。
宮 この日はだめだ、って人出てくるから。それは仕方ないことだし。でもとにかく俺はまだ切り開いて行きたいというか。20代の時に足りなかったこととか、届かなかったこととか一杯あったし。
キネマズの活動を始めた当初は、めちゃくちゃ評価されていないって思うゾーンに入っていったのね、俺は好きだけど。だけど100本ツアーの中で幸運にも台湾に行けて。台湾から帰ってきてすぐに、これからは海外でも「この日ライブさせてもらえませんか」って、直接自分で連絡して決められるようにしていこうって決めて。今度(2019年)5月に韓国も行くけど、そうやって行けることができる国を少しずつ増やしていこうと。この日ライブしたいんですけど、って言って上海行く、みたいな(笑)。そういうのは自分の人生においてすごい財産だなって。
もちろん難しいことも沢山あるけど、でもそれを受け入れることが、自分が成長していけるきっかけなんじゃないかなって。お客さんからの評価を得られてないなって思ってた時だったからこそ、今は自分を高める時間なんだって思えて。ていうかそれしか俺にできることはなかったというか。
作ってるものは提示してるけど評価されていない場合、自分にできることは、諦めるか、食いしばって自分を高めるかの、どちらかしかない。って思った時に、諦めるって選択肢はないから。それも一緒にやってくれるメンバーがいたからやってこれたんでね。
ム 結構考え方自体がブラッシュアップされたと思うよね、あの台湾以降に。
宮 変わったね。結局あれから毎年行ってるもんね。
ム 台湾に行くことに対してはもうハードル低くなってるよね。
宮 台湾に行けることが難しくなくなってきたってことも、通ったからだと思うしね。やっぱり現場じゃないすか結局。足運んで、人と会って、ライブ見てもらって、が。今年もWAKE UP FES出させてもらいますけど、日本のバンドで4回も出てるバンド他にいないと思う。
ム WAKE UP 好きだからね。最初は完全に無名だからガチで音楽のみで勝負するしかなくて。
宮 あの時(2016年の初台湾)にあんなに盛り上がってくれなかったら、多分もう行ってないね(笑)。
ム めちゃくちゃ盛り上がったもんね。
宮 人生観変わるくらいの衝撃だったね。こんなことあるんだ、みたいな。でもちょっとずつ日本での活動でも、京都でライブしてて思うけど、耐え忍んできた4年間で、ちょっと変わってきたなって今思ってて。日本で回るツアーももちろんめちゃ大事なんだけど、それだけでは他のバンドと同じ成長になっちゃうから。それプラスアルファで自分たちを鍛え上げなきゃいけないなと。もっとずば抜けて成長したいし。その中で海外っていうのは、自分の中で高いハードルに感じたし、それであればトライしよう、ってことで。ライブハウスの人とか、現地で手伝ってくれる人たちに出会えたこととか色々あったけど、そういうのを2018年までやって。この4年間でキネマズってだいぶ変わったじゃないすか。
ム だいぶ変わったよ。
宮 雰囲気とか。メンバーが増えたりとか形態が変わったとかもそうだけど。ここでもう一回原点に戻って、きっかけは去年有堀さん(VOXhall店長)と久々にバーベキューで会って。まず京都っていうのが俺たちのホームタウンの一つだし、俺もしょっちゅう来てるし、だから「一回昼間に無料のワンマンさせてください」って(笑)。
ム (笑)
宮 ここで旗上げしなきゃなと。今のライブの状態ってすごくいいと思うし、今こそ沢山の人に見てもらいたいなと。言葉が通じない場所でも伝わるようにと思って作ってきた曲とか、盛り上げてきたこととか。今、時は来たな、と・・・(笑)。
ム なるほどね!
宮 でも俺の気持ちは高まっているけど、それがまだお客さんに伝わっているわけじゃないってことはわかっているから、一回見てみてくれと。それで昼間の無料ワンマンどうすかね、と。有堀さんも「やろうややろうや」って。有堀さんと俺らも付き合い長いしね。
ム 長いね~。
宮 20代から京都に来てたし。だからこそ今の感じを一度見てもらいたいよね。
ム 見せたいよね。あとワンマンの尺で仕上げてきたものをやりたい、っていうのがある。
宮 単純にやっぱ、ライブっていいよね(笑)。
ム いいよね(笑)。
宮 絶対楽しめるから。今回はお客さんへのお試しワンマンみたいな感じだけど、がっつりやるので是非一回ここで見てほしいね。