ゴールデンカムイ配役騒動 ~その3~
はじめに
ゴールデンカムイの実写版キャストについて、「アイヌの役はアイヌが演じるべき。そうじゃなきゃ観ない!」というツイートが流れてきたので、それに対する個人的な意見を書いた記事です。
素直に「そうだ!」と言えない理由
私がツイ主の主張を素直に喜べないのは、次のように考えるからです。
「アイヌのことをよく知っている俳優が演じれば、アイヌの人に対して差別的な表現がなくなる」というのであれば、アイヌ人でなくても良いのでは?
日本人よりもサムライの心をよく知っている外国人がいたら、その外国人がサムライを演じても差別的な表現はなくなるんじゃない?
俳優は与えられた役になりきるために、時間をかけていろんなことを勉強したり身につけたりするんだから、本当に”その人”である必要はないのでは?
おそらく、多くの人も同じように考えるのではないでしょうか?
私はアメリカで教えているので、アメリカの俳優が自分に与えられた役のためにどんなことをするのかを知っています。
軍隊の映画を撮影する場合に、実際に軍隊に入隊して通常の訓練に参加することもあります。軍人の役にリアリティを与えるには軍隊に入隊して経験するのが一番ですから。
一般的に俳優は役に興味を持ってから役の研究を始め、そこから新しいスキルを身につけたり、その役としての生活を実際に試してみたりすると思います。
ひとつ言えるのは、役に興味を持って新しいスキルを身に着けたとしても、それはすべて付け焼き刃なので、その道のプロから見れば”本物”でないことは一目瞭然です。
アイヌとして生まれ、アイヌとして育ってきた人が演じるアイヌの役というのは、ある意味で”本物”の役ですから。
マイノリティ(少数派)にはありがたい
「アイヌの役にはアイヌ人が演じる」となったら、その枠に応募できるのはアイヌ人だけになりますから、オーディションでの競争率はぐっと下がります。
結果的にアイヌの俳優さんは映画デビューの可能性がぐっと上がります。
ツイ主の主張が現実のものになれば、アイヌ人俳優にとって最大のチャンスが訪れることになります。
これと同様に、日本人の役は日本人俳優しか応募できないということになったら、日本人俳優が活躍するチャンスがぐっと上がることになります。
差別をなくすのが目標なのでは?
私の周りにも「差別を許すな!」という俳優がいて、彼らの主張は「我々が演じた役が観客に与える影響を考える必要がある」ということで、彼らは観客に間違った印象や先入観を与えないようにするために、最大限の努力をしています。
俳優は舞台上に現実を作り出すのが仕事ですから、ウソとわかっていても、それがホントに見えてしまいます。
例えば、『ロミオとジュリエット』を観たとしましょう。
もし、ヨーロッパの殺陣を見たことがない人が、ロミオとティボルトの決闘を見れば、そのシーンで使われているテクニックが日本刀の殺陣だとしてもヨーロッパの殺陣に見えることでしょう。
そして、ここに”すりこみ”が行われるのです。
私の周りの俳優たちは、”すりこみ”を回避する方法がないから俳優はしっかりとその役にまつわる習慣や文化、所作などを勉強する責任があると考えています。
つまり、「俳優が役を演じる中で無意識に実社会の差別につながるようなことをしないようにしよう」というのが彼らの主張なんです。
ツイ主に賛成なところ
だから私は、ツイ主が言っている「ゲイであることをジョークとして扱うことで、ゲイであることが変な人たちであるという印象を強調する」というのはやってはいけないと思います。
花は観手(みて)に咲く
ただ、私もこのシーンを読みましたが、私には「こういう世界もあるよなぁ。ふたりの思いは美しいなぁ。」って思えました。
私には決してジョークで笑えるシーンには見えませんでしたけどね。
返信や引用を読むと、ツイ主の言う通りジョークとして受け止めた人もいるようですが、結局は作者がこのシーンで何を表現しようとしたかは読者が決めるのではないでしょうか?
世阿弥の言葉に「花は観手(みて)に咲く」という言葉がありますが、1人の俳優の演技を100人のお客さんが見れば100通りの解釈が生まれるものです。
だから、作り手の意図がそのまま伝わる人と、違って伝わる人が生まれるのですが、作品を見た人がどのように解釈するかを作り手の責任にしてしまうと、作り手が背負う責任がとても重くなってしまうような気がします。
作品を見る人のことをもう少し信じる気持ちがあっても良いと思います。
ここはとても難しいところですよね。
次回をお楽しみに!
みなさんは、実際に日本人の役を日本人が演じて全米で爆発的なヒットを記録した作品があるのを知っていますか?
私はそんなエピソードをひとつ知っていますので、次回はそれを紹介します。