発達障害、そんなに善い子に育てたいか

子供ができると子供がどう育つかを考えるのですが、どうしても自分と重ねてしまうところが出てきてしまいます。
自分のようなADHDにならないだろうか、あれやこれや、などなど。

以前「発達障害は治る!」「個性的な障害者は善い!」という論を持った方とやり取りをする機会があったのだが、その方が言うには、結局「なにがしかを一心に信じて行うかどうか」なのだそうで、つまりは信仰心の敬虔な方なのだな、という感想しか持てなかった。

で、もしかしたらと思ったので、

めちゃくちゃ失礼なことを承知で、と前置きして、

いいですよと言われたので聞いてみたのですが

『「発達障害は治るという理由、もしかして、自分の子どもが発達障害児っぽいなあ、気持ち悪い障害児だなと思われたら恥ずかしいから」なんていう、そんなくらいなものだったりしますか?そんな、本当に、どうでもいいことですが』

と聞いてみた。だとしたら本当にかわいそうなのは子ども本人なのだが。

そうしたら途端にやり取りが一方的に打ち切られてしまった。

なんというか、ASD圏のような発達障害は生涯における有病率が10%かそれ以上にも達するわけだから、クラスメイトの中に四人は必ず発達障害児がいるわけで、そういう意味ではごくごくありふれているわけだから、どうしてそこまでして躍起になって「治さないといけない」と奔走するのかが僕には本当に分からない。もちろん、てんかんや知的障害を伴う場合が多い。

ああ、なるほど、発達障害とはこういうものか、でいいのではないのか?そこまでして「矯正しないとならない(?)」ものだろうか?(本人が望むなら別の話だが)

障害者スポーツや障害者雇用やパラリンピックや障害者施設の慰問などなどでよく見られるように、障害者は「多くのものを失ってきた、不遇の、つらい中を生きている存在」という見方がしばしばされるが、それと同様に、あたかも「善い障害者は個性的で素晴らしい能力や才能を持っているが、そうでないものは個性とは認められない」と決めつけているように僕には感じられて、それがとても気持ち悪く感じられる。

ねえ、そんなに善いものじゃないとだめなんだろうか。

項垂れていたり、嫌に明るかったり、声が妙に甲高かったり、顔が扁平だったりと、いかにも障害者然としているとそんなにいけないのだろうか。そんなに障害者は存在しているだけで社会にとって問題となることをしているのだろうか。

知的障害者施設で支援員をしていた僕にとっては、誰にも個性があったことを覚えている。
それは、正直な所、赤ちゃんの声と言える程度の声でしか感情表現ができない利用者さんにすらも、個性があり、何に満足し、何が嫌いで、何に驚いて、どこまでなら仕事ができるか、どれくらいまでの物事をしたら禁止しなければならないか、どういう時にめちゃくちゃ機嫌がいいか、どういうことが好きか、何を促すとよいのか、どういう順序で始めるとよいか、というところなど色々な所に及んだ。
見方を変えれば、こういうのを障害者然としているとも言える。
これは例えば何か優れて善い必要など特に無い。というかそのままでいい。というかそれ以上何か求めるところがあるのか?あるわけがない。

さて、心疾患や呼吸器疾患で障害を負っている障害者に対して、善い人格や善い道徳を求めたりするだろうか。恐らくそういうことはないだろう。いや、あるかもしれない。「弱々しく、大人しく振るまえ」。といったところだろうか。

発達障害は多くの場合知的障害を伴うが、なぜ、発達障害に対しては善いものを求めたりするんだろうか。同じ物理的要因から生じている疾患に対して、どうして善なる人格や道徳的な善を求めることになるのかが僕には全く分からない。

例えると花粉症で免疫反応が過剰に起きるなら、やりたくなくてもマスクをしたり目薬をする必要がある。視力が悪いなら、やりたくなくても眼鏡をかけたりコンタクトをつける必要がある。注意機能に障害があるなら、やりたくなくても薬を服用する必要がある。そういう話なのに、どうして親が道徳判断をするのだろうか。

そんなに善い子に育てないとだめですかね。そこまで求めるのって、ちょっと酷なんじゃないかと思う。

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