『キューポラのある街』をみる
耳朶缶コーヒー大魔王
1:はじめに
今年の2月11日、『すばらしき世界』が公開された。役所広司演じる主人公:三上は、過去に罪を犯し、刑務所で生活していた。しかし、13年ぶりに出所することになる。人生の大半を刑務所で暮らしてきた三上にとって、「外」の世界は随分と自分の記憶とかけ離れ、また彼自身の性格から、度々人々と衝突してしまう。そんな三上は、津乃田を含む周囲の人々とのやり取りを通して、「外」の世界を一生懸命に生き抜こうと邁進するのである 。
この映画は、社会復帰の困難さを物語る。一度、社会のレールを外れてしまうことで、周囲の人間からの「まなざし」に否応なく晒されることになる。私たちは、社会の一側面を垣間見ると同時に、タイトルにあるように「すばらしき世界」を感じるのである。
ところで、劇中には三上の生活拠点として、おんぼろのアパートが登場する。そのアパート周辺には、割と新しめで大きいアパートが並んでいる。おんぼろアパートのそばには小さい広場。そして、いつかは消えていくのだろうという、どこか儚く、寂しくも時代に抗いがたいおんぼろアパートの宿命を感じてしまう。過去の姿に思いを馳せたくなるのである。
そこで、本レビューでは、敢えて昔の映画を観てみよう。要するに、逆張りの精神である。おんぼろアパートが、おんぼろではない。そんな時期を思い、過去に戻ってみよう。
2:映画『キューポラのある街』
本映画は、昭和37年(1962年)4月8日に公開された。早船ちよの小説『キューポラのある街』(弥生書房 1961)を原作とし、浦山桐郎が監督として采配を振るった映画であった。舞台となるのは埼玉県川口市で、「所得倍増」というセリフがあるため、1960年代だとみていい。主演を務めるのは、当時17歳前後の吉永小百合である。以下に主だった登場人物を示そう。(登場人物の後ろに演者の名前を記した。)
〈石黒家:主人公一家〉
・ジュン(吉永小百合)…本作主人公の中学三年生。
・辰五郎…石黒家の大黒柱。鋳物職人。
・トミ…ジュンの母親。
・タカユキ…ジュンの弟。小学生。
〈石黒家を取り巻く人々〉
・金山ヨシエ…ジュンの友人。朝鮮人。
・サンキチ…ヨシエの弟で、タカユキの友人。
次に、映画のあらすじを示そう。
本作は、鋳物工場のシーンから始まる。そこで、父辰五郎が過去の怪我の影響から解雇されることになった。一方、母トミは小さい病院で四人目の子を産むところであった。お産に立ち会ったのは、娘のジュンで、父ではなかった。
ジュン一家が住む地域は、鋳物職人の街とかつては言われていた。わずか二部屋に家族五人が住んでいる。ジュンを取り巻く人々は、このように貧困に苦しみながらも懸命に生きている。
ジュンは、貧困の中でもたくましかった。父親にも反抗してみたり、弟タカユキの為に年上のチンピラに口答えをしてみたりもした。それでいて、勉強はできる秀才で、家計を支えるためにパチンコ屋でバイトを始めた。
しかし、貧困は彼女の生活に大きな制限を与えていた。映画中、ジュンは修学旅行に行くことになる。補助金が出て、ようやく行くことができるようになった修学旅行をジュンはとても楽しみにしていた。だが当日の朝、辰五郎がやらかすのだ。彼には再就職の機会が与えられていたが、職人気質が災いして仕事を辞めてしまう。辰五郎はトミに手を挙げ、ジュン・タカユキは激昂。だが、辰五郎の「お前たちは卒業したら工場で働くんだ」の一言は確実にジュンから希望を奪い去った。修学旅行をボイコットし、志望校を眺めに向かう。また、体は大人に近づきつつあり、戸惑うジュン。夜、母トミが飲み屋で楽しそうに飲んでいる姿を見て、これまたショックを受ける。ジュン自身、夜の街に繰り出し、チンピラに襲われそうになる。
かくして、ジュンは学ぶ意欲を失ってしまった。そんな中、友人の一人であるヨシエが、”朝鮮”に帰国する。友との別れを経験し、ジュンは自分の進路に答えを出し、働きながら学ぶという答えを導き出すのであった。
3:規定する社会問題
この映画を理解するうえで、社会問題は考えなければならない。本作において、貧困は大きな問題である。
例えば、画像は、ジュンが友達の家で勉強を教えるシーンの一幕である。貧困の直接的なセリフはないけれども、二人の階層差は十分に感じることができる。ジュンの「家」には、話題の歌手のポスターのようなものが貼っている。友達の家にも同じものが見えるシーンがあるが、友達の場合、「部屋」に貼ってある。つまり、ジュンは「家」によって表現されたものが、友人は「部屋」のみで済ましている。また、ジュンの家は一階建てであるのに対し、友人宅は二階建てである。
このように、貧困を思わせるシーンが、映画中の節々に巧みに表現されている。勿論、セリフで直接表現されるものも多い。
生まれの階層をものともしないジュンの振舞だったが、自分は抜け出せないと悟っているのではないかと思わせるシーンがある。というのも、画像は、友人の家から外を眺めているシーンである。そこから映る景色は、「屋根」であった。つまり、友人の家は周辺の建物に比べて、高いことを物語る。実際、この時のジュンは心から笑っていないように思えてならない。何を思ったのだろう。
また、当時の社会に"朝鮮"の人びとが生活していたことも見逃せない。よく思わない人々がいたことは歴史が証明する所であるし、本作においても描かれる。例えば、ジュンがヨシエと親しくしていることに対して、「あの"朝鮮人"のとこかい?危ないよ。お前。」(トミ)、「"朝鮮"と付き合ってのか!このろくでなし!」(辰五郎)と冷たくあたる。
以上のように、今から半世紀以上前の作品ではあるが、社会問題が今よりも顕著に描かれ、それによって生活が規定されている様子を表現している。本作は、その中でも、ジュンが家族・友人・周辺との人々たちと交流し、懸命に生きる姿がエネルギッシュに描かれる。
四:「新」と「旧」のはざまで…
さて、社会問題が大きな枠として存在することを前節では確認した。その上で、この作品の物語に迫ろう。
本作は、「新」と「旧」をつなぐ物語である。まず、「新」とは、子どもや若い世代の世界であって、「旧」は大人たちの世界である。ありふれた物語構造であるとは思う。しかし、時代が目まぐるしく変化した高度経済成長期に鑑みれば、妥当な構造ではあるまいか。
「新」・「旧」は往々にして衝突するものである。例えば、以下のようなシーンがある。
辰五郎「中学出たらみんな働くんだ!鋳物工場(こうば)で」
タカユキ「働け働けって言ったって、今にどの工場でもオートメ化されてよ、父ちゃんみたいな鋳物職人は、どうしようもなくなっちゃうんだよ!」
辰五郎「(略)また、戦争でもおっぱじまってみろい。朝から晩まで俺は吹通しだい」
タカユキ「戦争だって!」
ジュン 「父ちゃんなんか戦争が起こればいいとおもってんだろ。自分のことばっかりかんがえて!」
タカユキ「そういうのがいけないんだ!自己中心主義って言うんだぞ」
辰五郎「なに!」
ジュン「自己中心主義!」
(二人に手を挙げる辰五郎へつながる)
これは、ジュンの修学旅行当日の朝での出来事である。このシーンで明らかにように、辰五郎は戦争が終わって20年が経過しようとしているにもかかわらず、未だに戦争の時の記憶を捨てきれてはいない。それに対して、子どもは「自己中心主義」であると反発する。また、タカユキのセリフにもあるように、工場の自動化に伴って職人の衰退が暗示されている。時代の変化の中で、職人=旧が、「オートメ化」=新に負ける未来が読み取れよう。
また、タカユキが「自己中心主義」と辰五郎を形容したことに注目したい。というのも、映画を観ていると、ジュンが学校に行っているシーンは多数描かれるのに対し、タカユキはわずかである。学校の帰り道であるシーンと学芸会のシーンのみであった。また、ジュンは画像➀のように、人に勉強を教えられることや「無知蒙昧」という難しめのセリフがあるため、ある程度の学力 を推し量ることができるが、タカユキについてはかなり未知数になってしまうのである。つまり、「自己中心主義」という言葉は、ジュンから発せられる方が自然であるはずなのである。
では、なぜタカユキが発したのであろう。筆者は、ここに作者なりの社会(高度経済成長期の日本社会)に対するアイロニーを混ぜた、いわばメタ的な描写ではなかろうか。だからこそ、タカユキが発することに意味があり、重厚な印象を視聴者に与えうるのである。それは、「新」の側から発せられた「叫び」でもあるのだ。
また、別の問いを設定するのならば、「なぜ、ジュンではいけなかったのか」ということにもなろう。そして、この理由こそが、ジュンに与えられた役割に関わってくると思うのである。
もう一度ジュンについて注目してみると、中学三年生、溌溂な元気な娘であり、自分の進路と家庭の事情に悩む女性である。青年期をまっしぐらに進んでいるといっても差支えはなかろう。青年期とは、子どもと大人の境界にあたる時期であることは周知の通りである。そのなかで、大人とは何か等の問いに立ち向かう。つまり、ジュンは子どものタカユキとは違い、大人と子どもの間にいる中途半端な存在なのである。
作中において、ジュンが大人への入り口についてどう考えているのか、垣間見ることができるシーンがある。
(ジュンに口紅をつける友人)
友人「どう?ジュン」
ジュン「やだあ。肌が気持ち悪いわ」
友人「慣れるわよ、そのうち」
ジュン「どうして大人ってこんなもんつけるの?」
友人「何言ってんの?あなただってもう大人でしょ?」
ジュン「あら、私まだないよ」
友人「ええ?まだ?」
ジュン「母も遅かったらしいわ…(以下略)」
この後、ジュンは口紅を持って帰る。これは、写真でのシーンの直後のやり取りである。このやり取りを見ればわかるように、ジュンにとって、大人への入り口は身体的特徴であることは明白である。まず、前半の口紅のやり取りは、「大人がする」ものを表しており、口紅はそのシンボルである 。後半のやり取りは、女性特有の身体的特徴を表しており、第二次性徴とも言うべきである。いずれにしても、ジュンにとっての大人は、まさしく身体的特徴にほかならなかった。
しかし、ジュンはそれだけでないと気付いていくのである。
ジュン「だけど父ちゃん。わたし、県立第一いかないわよ」
辰五郎「な、なんやと?」
ジュン「定時制高校に行くの。働いて生活はちゃんとしてね」
辰五郎「だって、おめえ。あれほど高校行きてぇって言ってたじゃないか。(中略)どういう了見なんだ?反対ばかりするじゃないか」
ジュン「反対してるんじゃないわ。自分で決めたから変えないってことよ(中略)父ちゃんに頼らない生活をたてるつもりなのよ」
残り五分ぐらいで交わされたシーンである。「自分で決めたから変えない」と精神的に自立していくことが読み取れる。このジュンの姿勢が真に大人であると気付かされる。
さて、まとめると、ジュンがこの映画で果たした役割は、衝突する世界をつなぐ緩衝材であった。もし、「新」の叫びを体現しているのであれば、ジュンが出した答えは、定時制高校の進学ではなかったであろう。辰五郎の言うように、全日制の高校に進学したはずだ。なぜ、ジュンが緩衝材の役割を担わされたのか。それは、子ども・大人―「新」・「旧」―はざまを生きていたからにほかならない。
五:おわりに
以上、この本作をジュンについて注目してみた。改めて、この映画の魅力は、社会問題に規定される人々が、衝突などのやり取りの中で生き生きと描く。そして、子どもと大人のはざまを生きるジュンを通して、私たちはエネルギーにあふれた「すばらしき世界」を感じるところにあるのではないだろうか。
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