【第6回】聖性論読書会レポート:ジャン=リュック・マリオン『存在なき神』、大竹弘二『公開性の根源』
このレポートは、2023年7月に行われた近代体操「聖なるもの」読書会第6回に関するレポートである。本読書会については、以下のnote記事に詳細や参加方法が記されているので、よろしければ参照して欲しい。
今回は、以下のニ冊をテキストとして議論を行った。いつも通り、日付が変わろうかという時間まで白熱したディスカッションが続けられた。ここに掲載するのは、そうした議論の一部である。
◯ジャン=リュック・マリオン『存在なき神』
(レジュメ担当:安永光希)
マリオンの本著作は現象学者にして神学者である彼の専門にふさわしく、神の「現れ」について扱っている。「神とはなにか」という存在論的な問いというよりも、「神はどのように現象するか」という現象学的な問いとして「聖なるもの」がとらえられている。現象学的な神学といってもいい。
たとえば序盤に問題化されるのは、神の表象である偶像とイコンである。神は、それらの記号をまなざす視線の中に現象する。
発表担当者安永は、『存在なき神』の序盤に注目しつつ、「偶像」「イコン」というふたつの記号と、それらを起動させる「視線」について論じていく。
マリオンによれば、「まなざしが偶像を作り出すのであって、偶像がまなざしを作り出すのではない」(14ページ)、つまり偶像は眼差しによって立ち上がる。偶像は眼差しを必要としており、そこでは眼差す主体における「聖なるもの」への狙いや欲求が先行している。
一方イコンにおいては、この見る主体/見られる偶像という二分法は失効しており、むしろイコンの方がこちらを眼差してくる。イコンにおいて私たちは、「聖なるもの」の十全な理解を諦めなくてはならない。ここで眼差す主体は、理解できないままで把握する、という仕方で対象を捉えることになる。
現代社会は、ポスト世俗化の中にある。そうした時代に、私たちの前に「聖なるもの」がどのように現象するのか。「眼差し」をめぐるマリオンの現象学的神学は、「聖なるもの」の表出をめぐる私たちの思惟に重要なヒントを与えるだろう。
たとえばYOASOBIの楽曲「アイドル」とともに流行した漫画『推しの子』は、まさにアイドル=偶像をめぐる物語である。物語は、あるファンが自らの偶像=「推し」に対して押しつけた幻想と、その破綻をめぐってスタートする。私たちは偶像=「推し」に「聖なるもの」を見出したと思っているが、実際は私たちが対象に「聖なるもの」を付与しているのだ。したがって現代の「聖なるもの」は、主体の動揺に応じて揺れ動く、不安定なものとなるだろう。
AKB48やVtuberといった形で無数に乱立する「聖なるもの」。現代における聖性を考える上では、この「聖なるもの」の卑小さと複数性を無視することはできない。
◯大竹弘二『公開性の根源――秘密政治の系譜学』(レジュメ担当:森脇透青)
議員内での根回しによって成立する法案や、政治的腐敗といったトピックにからんで、繰り返し叫ばれるのが「公開性」や「透明性」である。民主的な社会のためには、情報はできるかぎり公開され、誰もがアクセスできるようにしなければならない。そうしなければ、私たちの知らないところで特定の階級にのみ有利な法律が成立してしまったり、特定の業者との癒着がより激しくなってしまったりしてしまうだろう。
しかし本書で大竹が主題とするのは、民主主義の「光」のなかにつねにすでに侵入してしまっている「影」としての「秘密」である。
権力は秘密政治の中で機能してきた。「公開性」と「秘密」をめぐる政治的な緊張関係を通時的に追っていく、500ページを超える浩瀚なこの書物は、現在の私たちが政治を考えるときにも重要なものとして立ち上がる。たとえば、民主主義の一要素である「熟議」を支える議会の形象を見てみよう。大竹が注目するのは、中央の演題である。
大竹は議会を身体になぞらえる。円形にひろがる胴体と、不在として表彰される頭部。頭部=王の不在は、議会の平等性や公開性を視覚的に示しているだろう。ここにあるのは公開性そのものというよりも、視覚的なイメージとして現象する公開性のイメージである。「ここでは、公開性とはイメージ戦略の問題となるのである。代表としての代表としての正統性は、「⾔説的」ではなく、「美的」公開性を通じて調達される」(316ページ)。
大竹の「秘密」をめぐる議論からは、天皇制の問題についても示唆を得ることができる。平成から令和への移行は、近代においては例外的に、天皇の生前退位という形で行われた。そこでいかなる政治的な駆け引きがあったのか、私たちは断片的にしか知ることができない。天皇の退位という、極めて政治的であり、民主主義政治における君主の位置という微妙な問題を含む議論が、「秘密」裡に進められてきたのである。
また大竹の議論の面白みは、「公開」/「秘密」をめぐるアポリアをメディア論的な文脈に落とし込んでいる点にもある。たとえば大竹はゲーテの『若きウェルテルの悩み』に注目しながら、それを郵便制度と結びつける。
従来の郵便制度において郵便物の「秘密」は保証されていなかった。したがって手紙の内容は暗号化されるのが一般的であった。しかし18世紀に郵便制度が整備されると、手紙はプライベートなことをあけすけに語ることのできる、透明なコミュニケーションを可能にするメディアであると見なされるようになった。要するに内面の産出を可能にする「告白」は、郵便制度の整備によって成立しているのである。
アーレントは政治を「現れ」として捉えていた。「秘密」はそうした「現れ」から遠いように思えるが、つねに「現れ」の背後に存在し、公開性につきまとう影である。大竹の議論の重要性は、こうした公開/秘密をめぐるポリティクスを、政治学や神学、メディア論を貫いて考察している点にあるだろう。私たちの「聖なるもの」をめぐる考察も、このような横断性のもとで行われなければならない。
(文:近代体操同人、武久真士)
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