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古木獠「法のトポスを旅する」——エッセイ「私と空間/場所」⑤

『近代体操』では今年7月より「空間/場所」をテーマに読書会を行なってきました。なぜ近代体操は「空間/場所」を主題に取り上げるのか、そもそも「空間/場所」とは何か、あるいは、その漠然とした主題のどこに関心を置いているのか。それを明らかにするために、近代体操メンバーは連作エッセイという形で、「空間/場所」にまつわる自らの考えを記することにしました。今回は、エッセイ「私と空間/場所」最終回、古木獠「法のトポスを旅する」になります。
 これまでに公開されている本連作エッセー・シリーズは、以下からお読みいただけます。
第一弾:松田樹「場所と/の歴史性」
第二弾:安永光希「空間を愛す」
第三弾:草乃羊「ゼロ・グラヴィティ」
第四弾:左藤青「タンデムの方法論」

 暗いひとりの部屋

 学部3年のころ、今から5年も前の2016年。後期に入って最初の憲法のゼミでの報告。割り当てられた判例をまとめるもので、戦後まもなくの不敬罪を担当した。教室は、1994年に建てられた棟のよくある会議室のような場所で、特有の無機質なにおいがした。

 暑さの残っている夏休み明け、リオ・オリンピックはすでに遠く感じていた。祭りは終わってしまうとあっけない。オリンピックの開幕3日後になされた、天皇(現上皇)の生前退位についてのいわゆる「お気持ち」表明の波紋だけが残っていた。
 象徴天皇制における天皇の国事行為の解釈問題もあったが、有識者会議を経て、最終的には「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」(2017(平成29)年6月)によって、この退位問題は対応された。天皇の身体と政治的現実という「事実」が、法と政治を急速に動かしていると感じていた。
 大学に入学したのは2014年、その年の7月には集団的自衛権の行使を容認する閣議決定がなされた。12月には特定秘密保護法が施行される。ニュース番組に憲法学者がよく出ていた。2015年の6月には、憲法審査会で憲法学者3人が揃って安保関連法案について「憲法違反」であるとの考えを示したことが話題になる珍事もあった。しかし、結局、安保関連法は9月に成立する。SEALDsが結成し注目され、国会前デモなど、市民の反対運動も大規模に行われ、その様子もよく報道されていた。

NHK「キーワードでみる年表 平成 30年の歩み」を参考に作成
国会正門前の道路を埋め尽くし安保法案廃案を訴えるデモ参加者=2015年8月30日、東京・永田町で(梅津忠之撮影)「世論を顧みず、敵と味方に分断」東京新聞 2020年8月30日

 僕は国会前にはいなかった。テレビ画面に映し出される政治的「現実」は、ひどく遠く、どこか他人事であり、なんとなくの焦燥感と不安だけがあった。法の場も政治の場も、どこにあるのかまったくわからない。決定的な日付だけがあとに残る。
 次から次にニュースが流れていき、さまざまな問題点が指摘されては、議論がされたりされなかったりして、忘れられているころに、あるいは懸念が示されつつ、
法律が制定されていたりする。
 学部時代のあの頃、多くの事件があったはずだけれど、どれもどこに問題があったのか、まったくわかっていなかった。そして、たぶんあのとき国会前に行ったとしても、なにが問題であるかわからなかっただろうと思う。はるばる国会議事堂前に電車で行き、そこに着いたとして、僕は自分が「どこにいるのか」わからなかっただろう。
 中学卒業から高校入学までの期間、計画停電の暗闇のなか、原発の問題を考えていたとき、なにが問題であるか、どこに問題があるのか、まったくわからなかったのと同じように。東京のはずれに何不自由することなく住んでいる男で、その狭い部屋から、「原発は悪だ」と臆面もなく言ってしまえるほど、ナイーヴでもなかった。つまるところ僕は、問題の所在へと続く道を知らず、さらにはその道を探そうと歩きに出ることをしていなかっただけだ。一人暮らしワンルーム、ではないけれど、僕の部屋は外から切り離され浮遊し、どこにもつながりをもたなかった。そこから敷かれた道をひとりで歩くだけだったなら、世界は少しも見えてこなかっただろう。


 ポツダムと皇居前広場のあいだ

 話を戻そう。そうした意味で孤立していた学生時代を送っていたとき、ニュース・トピックの一つでしかなかった天皇の問題を、ゼミ報告で扱うことになった。戦後まもなくの不敬罪というのは、天皇退位の問題とはかなり異なる問題ではあるが、政治的「現実」と法との関係が問題になる点では同じだった。

 1946(昭和21)年、敗戦後のこの時期には配給が維持されていたが、餓死者も出ていたほどの状態だった。5月1日のメーデー、12日の世田谷の「米よこせ区民大会」、19日の「食糧メーデー」、と政府の食糧配給遅延に抗議する集会が続いて行われていた。この「食糧メーデー」で事件は起きた。約7万人(主催者発表25万人)が宮城前広場(現・皇居前広場)に集まり、押し寄せるデモ隊は、なによりも食糧を求めて声をあげていた。

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小池新「日本の戦後が変わった「プラカード事件」#1」

 松島松太郎は、デモの隊列のなかでその自作のプラカードを掲げていた。表には「ヒロヒト 詔書 曰ク 國体はゴジされたぞ 朕はタラフク 食つてるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギヨメイ ギヨジ 日本共産党 田中精機細胞」と、裏には「働イテモ働イテモ 我々ハナゼ食ヘヌカ 天皇ヒロヒト 答ヘテ呉レ」と書いていた。
 「詔書」「ギョメイギョジ」(御名御璽)という、天皇が明治憲法下で大権を行使する詔勅の形式をとり、この天皇の最高意思を示す形式によって、天皇政治をパロディー化し、問題提起をしたのであった。松島は、「太平洋戦争であれ、現下の飢餓・欠乏であれ、すべての元凶が天皇制にあるのだということを国民に端的に訴えたかった」のだったと、そして、「裕仁天皇と天皇制の問題を、民衆に対して現実の生活において考えてほしいと願って」そのプラカードを作製したのだと語っている(松島松太郎「食糧メーデーと天皇プラカード事件(3・完)——松島松太郎氏に聞く」大原社会問題研究所雑誌 537号、2003年)。

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小池新「日本の戦後が変わった「プラカード事件」#1」

 しかし、このプラカードの文言は、新憲法下での刑法条文の見直しにより削除される以前の、旧刑法74条1項の不敬罪に該当するとして起訴される。

刑法 第74条(昭和22年削除) 「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ不敬ノ行為アリタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役ニ處ス神宮又ハ皇陵ニ対シ不敬ノ行為アリタル者亦同シ」

 新旧憲法のはざまで生じたこの事件は、法の動態を劇的に示している。新憲法の象徴天皇制において不敬罪が存続しうるか、という問題として。法律の話になじみのない方にはいささか退屈かもしないが、この判例の紹介に少し付き合ってもらいたい。
 第1審は、ポツダム宣言の受諾、降伏文書への調印後においては、従来の天皇の特殊的地位は完全に変革し、その時以後これまで法的に認め難かった天皇の個人性を認め得るに至った結果、天皇の一身に対する誹毀侮辱等に渉る行為については不敬罪を以てではなく、名誉に対する罰条を以て臨むのが相当であるとした。
 この1審判決の翌日(1946(昭和21)年11月3日)、日本国憲法の公布にあわせて、政府による恩赦の措置がとられ(対象者は30万人以上)、松島に対しても大赦が行われた。
 その結果、控訴審は、免訴(公訴権——起訴する権利——の消滅を理由に有罪・無罪の判断をせずに裁判を打ち切る)の判決を下した。もっとも、東京高裁は、ポツダム宣言受諾後、順次天皇の地位内容に変更が加えられ、その実体において天皇の地位に相当の変貌が加えられたと認めつつ、他方、新憲法の下においても天皇はなお一定範囲の国事に関する行為を行い、特に国の元首として外交上特殊の地位を有し、天皇の国家上の地位は新憲法下においても一般国民とは相当に異なっているとした。そして、天皇個人に対する誹毀誹謗は日本国民統合の象徴にひびを入れるものであって、不敬罪の規定が名誉毀損の特別罪としてなお存続しているものと解するのが相当だと述べた。
 これに対して、上告を受けた最高裁は、公訴権が消滅した場合、実体上の審理(当該事件についての事実の認定、その事実が犯罪を構成するかどうか、そして犯罪を構成する場合には量刑の判断)をすることはできないことを確認した。その上で、大赦令の施行にもかかわらず、実体上の審理を続け、その結果、被告人の行為が不敬罪に該当するものと判定してから、大赦令を適用して、被告人を免訴する旨の判決をした原審(控訴審)は、違法たるを免れないと判示した。そして、その違法は、最高裁の判決をもって払拭されるとしつつも、原判決が、免訴の判決を言渡したのは結局、結論において正しいといわなければならないと述べられた。なお、庄野理一裁判官は、本件行為当時、不敬罪は存在せず、したがって、「被告人に対する公訴権なるものははじめから無かった」とする意見を付している。
 本件では、免訴により実体上の審理が進められず、不敬罪の消滅時期とそれにかかわる天皇の象徴としての地位の法的性格はうやむやにされることになった。学説上は、不敬罪の消滅時期として、下図の5つの時点が推測されている(参照、石村修「天皇と不敬罪」『憲法判例百選II [第6版]』)。

不敬罪の消滅時期をめぐって

 上告審で検察側は④の時点を主張していた(弁護側は①)が、①〜③
の場合には、庄野裁判官意見と同様に、大赦令以前に不敬罪はなくなっていることになる。この解釈問題は、日本の国制の連続性ないし断絶性をどのように捉えるかにかかわる重大なものである。しかし、最高裁多数意見は、免訴を理由に不敬罪の言及を避け、不敬罪の消滅時期を不明のままにした。このこと自体、そして「天皇の特権性を保証する<法>の失効を主張していた者が、新たな<法>の下で、天皇の名によって恩赦を命じられる」という「奇妙な事態」(赤江達也「ひとつの運動と複数の論理」哲学 第117集(2007)73頁)そのものが、日本の「国制」を象徴しているように思う。天皇制イデオロギーは、姿を隠しつつ作用しているのである。


 隠れたトポスを探して

遠い秩序は、近い秩序の中に=上に投影されている。しかしながら、近い秩序は遠い秩序を透明のなかにおいて反映しているのではない。遠い秩序は、直接的なるものを諸々の媒介を通して自分に従属させているのであって、自分をひとの手に渡しはしない。それどころか、遠い秩序は、自分の姿を露わにすることなく、わが身を隠すのである。遠い秩序は、まさにこのように行動するのだ。

アンリ・ルフェーヴル(森本和美 訳)『都市への権利』(ちくま学芸文庫、2011)76頁
原文の傍点とっている。太字は引用者(以下同様)。

 論理学における「トポス論」はアリストテレス以来の伝統をもっている。通常「場所」と訳される「トポス」が、議論の基本要素(論点および議論の根拠)として呼ばれる。なぜそう呼ばれるかについては、「ものごとを場所と関連づけることによって覚える記憶術と結びつける解釈」がある。このトポス(論点および議論の根拠)を記憶するために、それぞれのトポスを何らかの場所に配置していたことに由来するというものである(山口義久「『トポス論』解説」『アリストテレス全集3 トポス論 ソフィスト的論駁について』(岩波書店、2014)479-502頁)。
 アリストテレスが論じたのは弁証的推論であり、分析的推論から区別される。それは、形式論理学的に前提から結論へと一直線に移行するようなものではなく、熟慮や論争にかかわるからである(Ch. ペレルマン(江口三角 訳)『法律家の論理——新しいレトリック』(木鐸社、1986)9-10頁参照)。
 法学には、「皮肉半分、まじめ半分にそう呼ばれる「法的三段論法」」というものがある(ウルフリット・ノイマン(亀本洋ほか 訳)『法的議論の理論』(法律文化社、1997)19頁)。この法的三段論法とは、条文を前提とし、それに事実を当てはめ、結論を導く論理構造をいう。しかし、裁判で見出される法とは、こうした法的三段論法を遂行することによって得られるものではない。法がつくられ、また見出される過程、その場がたとえ明示されずとも、その場は確かにある。
 さて、法の場を探すために、都市の理論家の文章を借りることにしよう。

都市は常に社会全体と、その構成やその働きと、その構成要素(田舎と農業、攻撃的および防御的な力、政治的権力、国家など)と、その歴史との関係を持っていた。[...]都市は、ひとつの中間部、近い秩序と呼ばれるもの(大きさも組織化や構造化の程度もさまざまな集団のなかにおける諸個人の関係、これらの集団のあいだの関係)遠い秩序、すなわち大きくて強力な制度(「教会」、「国家」)とか成文化された法規や成文化されない法規とか《文化》やさまざまの意味する総体とかによって規制される社会の秩序との途中に位置するのである。

ルフェーヴル『都市への権利』72-73頁

 ここで「都市」という言葉を「法」に置き換えても通用するだろう。遠い秩序が、「成文化された法規や成文化されない法規」を意味するといわれている。またしても法学になじみのない方にはややこしいかもしれないが、「法」という言葉は多義的で、実際には、ここで「遠い秩序」、「都市」、「近い秩序」の三層すべてを「法」と呼ぶことが可能である。

ルフェーヴル『都市への権利』については、近代体操「空間/場所読書会」第4回を参照されたい。

 ルフェーヴルの整理とは若干相違してくるが、法を大きく3つに分けるとこうなる(駒城鎮一『理論法学の方法』(世界思想社、1978)230-234頁参照)。すなわち、第一に、裁判官が判決の根拠とする成文法ないし先例(判例)——法源という——がある。第二に、その法源の解釈が存在する——これは解釈者の数だけ存在する。最後に、観念の世界に成立するそれぞれの解釈が争われた結果、権力の網の目のただ一点に現実化された法が、いわば「制度としての法」である。法源と解釈の結節点たる「制度としての法」こそ、「都市」としての法と呼べるものだろう。

都市、それはさまざまな媒介のなかのひとつの媒介である。都市は、近い秩序を内包しつつ、それを維持し、生産や所有の諸関係を保持する。都市は、それらの関係の再生産の場である。都市は、遠い秩序のなかに内包されつつ、その秩序を支え、それを体現し、それを地所(風景)の上に、面の上、直接的生活の面の上に投影し、それを記入(アンスクリール)し、それを処方(プレスクリール)し、考察によらなければそのようなものとして捉えることのできないより大きな文脈(コンテクスト)のなかにあるテクストとして、それを書く(エクリール)。

ルフェーヴル『都市への権利』73頁(原文のルビは括弧内に示した)

 個々の解釈が現実化をめざして争うというのは比喩ではない。真の解釈活動とは権力闘争である。諸権力の関係が法の場である。だから、法を知るには、そのコンテクストを知らなければならず、現実のその一点に書き込まれている、姿を隠しているイデオロギーを透かし見なければならない。そして、法を自分たちの手で現実化するためには、この法の場に出向き、現われ出なければならない。
 今言ったように、法の場が関係の場であるなら、ひとりの部屋にとどまってはいられない。私たちは関係の網の目をつむいでいかなければならない。そして、互いに見、見られる、光のなかで、私たちの都市-法を築いていかなければ。


(文責/古木獠

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