草乃羊「ゼロ・グラヴィティ」——エッセイ「私と空間/場所」③
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ゼロ・グラヴィティ
地球には重力があるから、私たちは地に足をつけ、仰げば翼を持たない人間には到底飛べないような空が広がっている。肌で触れる大地との近さを、皮膚と土の摩擦の感触によって幸いにも立証することができるが、二メートルもない人間の身長に対して最も地表に近い層雲でさえ数百メートルから千メートル以上の高さにあるのだから、いくら手を伸ばしても、いくら足掻いても、「空」は手の届く範囲をはるかに超えた、上の場所にある。
だから、「神」や「天国」は空にあり、地下には「地獄」がある。手の届かない天上という場所には浄化された理想の世界があり、地下には一歩でも踏み外せば転び落ちる底知れぬ地獄がある。上には幸福、下には不幸。上は崇高の表象であり、下は卑下の換言である。
ユークリッド幾何学の公式によって表現される三次元空間は、私たちが感知できるいわゆる日常的空間と言える。その空間は、直交座標系のx・y・z軸で表現できるものであるーー横方向に広がる数直線はx軸、縦方向はy軸だとしたら、奥行き方向に広がるはz軸である。紙でそれらの直線を引き、三次元空間とその中にある事物の大きさや、事物と事物の間の距離を表現しようとする際に、私たちはまず各軸において「正方向」を決め、その方向に向けて矢印の記号をつける。
しかし、不思議に思うことが一つある。奥行きのz軸において正方向に任意性は残るものの、縦のy軸において、下に向けて矢印をつける人はそうそういないだろうーー縦のy軸の正方向は、常に上を向いているのである。それは、地面に足を付け、頭上が天空に覆われている人間にとっては、あまりにも当たり前すぎることなのかもしれない。自らがいるとされる空間を表現する際は、白い紙に自らの姿を投影し、何も疑うことなく上を正に、下を負に設定する。
このような上と下における空間認識ーーあるいは方向感覚というべきものは、重力によって地面に吸いつけられ、頭を上に両足で歩行する人間であるゆえに生まれる感覚であろう。深海に漂うクラゲの気持ちを私たちは知る由もないが、彼らの中にももし方向を感じ取るクオリアなる機能があるとすれば、それはどの方向に矢印がつけられているだろうか。
幸か不幸かを判定できるまでまだ年月がかかるが、私たちもついに「深海に漂うクラゲ」になっていきそうなのである。百年前からすでにたくさん思い描かれ、たくさん予測されてきた、宇宙空間の開拓ーーそして、サイバー空間の開拓ーーこの二つの空間の開拓は、現に資本主義という形に則りながらもーーいや、むしろ、資本主義だからこそ――日常的な実用化が目指せるところまで来ている。
一つのツイートだけで株の世界を一喜一憂させるイーロン・マスクと、新たな生活インフラを全世界に広めたアマゾンの創業者のジェフ・ベゾスは、我先にーー時に口喧嘩をしながら(最富裕層だからできるような口喧嘩をしながら)ーー宇宙開発のビジネス的戦争を巻き起こしている。
自社フェイスブックのスキャンダルをかき消す裏目的があるかもしれないものの、世界で初めて大々的に「メタバース」たる空間の開拓ーー何億人がそこに接続し、仕事をし、生活をする仮想空間の開発ーーに、社運をかけてーー何兆円をかけてーー乗り出すと宣言するマーク・ザッカーバーグと、それに負けじとすぐさま追いかけるマイクロソフトは、平面的なインターネットを無理矢理にも進化させようとしている。
資本をベースに、資本の増殖を目的に、地球外の居住地(コロニー)の開発を進め、あるいは仮想空間に生活の主軸を移すすべを探ることによって、どのような摩擦が起きるのかを検討するのはこの文の趣旨ではない。もし二十世紀までのコロニアリズムが二次元的ーーつまり、平面の地図的ーーな拡張なのであれば、宇宙空間の開拓とサイバー空間の開発は、紙の地図では到底表わすことのできないような、空間的ーー三次元的な拡張になる。
左右を表すx軸と奥行きを表すz軸において、その方向性は相対的であるに対し、地球にいる限り縦のy軸の正方向は常に上を向いている――地面に立つ私たち人間にとって、上と正と善は、この意味では常に決まっているものーーつまり、参照系のあるものなのである。
しかし、地球の絶対的な重力から解放され、宇宙空間や仮想空間に飛び込んでしまったら、空間認識が狂わされ、上下を判断する基準とそれによる方向感覚は失くされてしまうのである。
人間という集団が新たな植民地としての宇宙空間と仮想空間に足を踏み入れようとするその時、どのような変化あるいは変異が起きるのか、今の私たちにはまだ予測もできないであろうーー重力の消失によって、左右と前後のみならず、上下も相対的でしかありえない空間では、浄化された天上の理想の世界はどこにあり、また、私たちが今いる場所はどこなのか、そのような問いに答えるすべがあるかどうかすら分かっていない。
上座と下座のような考え方がこの変異によって粉砕されるだろうか。このような意味において、位置関係の転倒による社会階層のシャッフルは起こりうるものなのだろうか。そして、重力が作り出す天上と地下という絶対的参照系がなくなっていく今、私たちが信仰する方向、信じて進むべき方向は、どこに向いているだろうか。
新世界の開拓における高ぶる気持ちと同時に、ゼロ・グラヴィティの宇宙空間と仮想空間について思考がまったく重ねられてきていないところに危うさを感じずにはいられない。私たちは、ギリギリにでもいいので、少しだけでも先回って、その思想的な基盤の整備を図るのが、この時代において試みべきものではないだろうか。[了]
文/草乃羊