たちどまって考える
50歳を迎える直前の秋、夏からずっと続いた活動がひと段落した頃のことだった。
書店でなにげなく手にし、書名にぐっと惹きつけられた本があった。
ヤマザキマリ著「たちどまって考える」。
国を越えて生活する著者の家族のコロナ禍での暮らしのようす、文化の違いからくる自粛生活の違いを綴ったものだ。イタリアと日本の二元生活を送っている著者は、コロナによって文字通り日本に「たちどまって」しまった生活を息苦しく感じるはずが、むしろ歴史を振り返って、パンデミックは繰り返されてきたと達観していた。
「たちどまって」「考える」ことで、今を肯定的に捉えていた。
たちどまって、考える。
そんなことしていいのかな。
「前進」が合言葉のような自分の活動に、寄り添う言葉ではないような気がするのに、どうしてか惹きつけられた。
その頃の私には、身体的な疲れもあったと思うが、全力で進み続けることに息切れしたような感覚があった。
年代も人生経験もさまざまな、自分以外の数多くの方々の人生に深く関わる立場になっていた。自分になんの力もないことを痛感しては、周囲に助けてもらい、自分のできる精いっぱいを果たすことでなんとか歩みを進めているつもりだった。
一方で、ずっと歩み続けているこの道を、果たして私らしく歩けているのだろうかと、どこか心もとなさも感じていた。
「たちどまる」ことなど簡単にできない。たちどまってしまったら、もう二度と歩き出すことができなくなるかもしれない。
だから、否応なく惹きつけられた言葉を、しばらくは自分の中だけで試す眇めつし続けていた。
だが、突破口は自分以外のところにあった。
高校生になった娘とは、他愛ない会話から飛躍して思いがけず哲学的な対話になる場面がある。
その時も、思い付きで話を始めた私に、書棚に同じ題名の本があることを知っている娘は「あー、ヤマザキマリさんね」とすぐに得心してくれた。そのまま率直に、「たちどまって考える」という発想と、思案の末に「振り返って概ね前進だったら、ありなのかな 」と自分で考えるに至ったことを話した。
すると娘は、間髪入れず、
「そんなん当たり前。全然問題ないやん」
と答えた。
「たちどまって、まわりを見渡して、足元確認して、って時々せえへんかったら、無理やで。しんどいもん」
その瞬間、なんだか目の前がぱあっと広がったような気がした。
娘には娘の、苦しんだ先に自分で乗り越えて掴み取った体験がある。だからこその言葉だった。そう言った後、私に向き直って続けた。
「無理って思ってたん? ママ。それはしんどいわ」
ああそうか、結構無理してたんだ私。
いたわりの言葉につい眼が潤んできてしまった。深呼吸して、気を取り直したつもりで答えた。
元気が出てきた。背中をばーん!と押してもらったような感じする。
答えながら、やっぱりまた涙ぐむ私に、
「がんばりすぎやって。そんなんいらんって」
娘の言葉はすごい威力だった。
たちどまって、考えて、いいんだ。
年齢が理由というわけだけではなく、変化する現場の連続に、体も心もくたびれてしまうこともある。
だから、少したちどまって、行き先を確認して、足元を確認して。概ね前進の、それまでの歩みを肯定して、必要なら修正もして。
そしてまた、歩き出してみよう。