船に乗る
船尾の赤いパドルが勢いよく回転し、水飛沫が上がる。
港では、見送るスタッフの人たちが大きく手を振っている。そう揺れは感じないが、陸からは大きな置き物のように見えていた外輪船がゆっくり離岸していくのがわかった。出航だ。
船は次第に向きを変え、防波堤を越えていくと向こうに大きな建物が見える。船内のアナウンスで、ボートレース場とわかった。旋回して先に見えるのは柳が崎。梅雨の合間、陽射しは強い。湖畔の山々の緑が明るい。
デッキをぐるぐる巡る親子連れや、飲み物を取りに行くカップルがステージのある室内と往復しているようだったが、私たちは左舷の後方、3階デッキの席を2つ陣取ることにした。
湖を渡る風は爽やか、つくづくいいところに連れてきてもらった。
言い出したのは、夫だった。お互いの週末の予定を確認する途中、夫の提案にすぐさま反応できず、私は、え? と聞き返した。
夫は、もう一度、
「ミシガンに乗ろうかなぁと思って」
と繰り返した。
ミシガンって、琵琶湖に行くの? 私の確認に、夫は「うん」とうれしそうに笑った。
私がすぐ思いつくくらいに、私たちに「ミシガン」のワードは馴染んでいた。「ミシガン」とは琵琶湖の観光遊覧船の「ミシガンクルーズ」のこと、そしてそれは、私たちが読んだ「成瀬は天下を取りにいく」の作中に登場するのだ。
そもそも「成瀬」を読んだのは、私の方が先だ。
本屋大賞はじめ数々の受賞を経て、シリーズ2作目の「成瀬は信じた道をいく」も発刊された人気作だ。
書名を知ってから手に取るまで時間がかかったものの、読み始めたら一気に読み進めてしまい、「成瀬」のファンになった私。夫にしつこく勧めた覚えはないが、彼も手にするとすぐさま読み終えたようだった。
感想を教えてくれることはなかったから、「ミシガン」の提案をしてくれるまで、そんなに「成瀬」を“推し”ているとは知らなかった。
夫の提案を受けて、互いのスケジュールを調整し、その日を迎えた。せっかくなら「成瀬」の足跡を辿ってみよう。舞台となる膳所駅の周辺。ときめき坂。公園。フレンドマート。西武百貨店の跡に立つ新しいマンション。大津港に、湖の駅。作中のリアリティを味わってみたい。下調べをして、実際に歩いてみた。
しかし、私以上に下調べしていたのは夫の方だった。
ときめき坂の途中、路地に入ったところにあるパン屋さんに向かった夫。作中に名前の上がるお店だ。QRコードのある店頭の掲示物にスマホをかざし始めた。何それ?
「スタンプラリーやってんねん」
そんなのやってるの? 知らなかった!
本屋大賞のノミネートを記念して、と滋賀県が音頭をとって、「成瀬」の舞台を巡ってデジタルスタンプラリーが開催されていたのだった。集めると、「成瀬」が描かれたクリアファイルがもらえるらしい。
「でももう期間が終わるから、達成するのはまず無理やけど」
たしかに、まもなくやってくる期限まで、13個ものスタンプを集めるのは難しそうだ。そういえば、作中で「成瀬」が大晦日に、年内が期限のスタンプラリーを、行方不明のままあちこち駆け回って集めていたな。
コンビニの前で、駅で、と「成瀬」のイラスト入りのQRコードを探し始めると、わくわくしてきた。そういえばこういうのを、“聖地巡礼”っていうんだっけ。
膳所駅からときめき坂、フレンドマートのある商業施設まで歩いて気付かされたが、「成瀬」に描かれた場所の感覚、リアリティは本物だ。作者はよくよく知り尽くした場所を書いているのだ。だから「成瀬」が、私たちが生きている世界と同じ世界線で生きているように感じるんだなぁ。
またそこかしこに「成瀬」が描かれた大きなポスターや看板があり、地元の方々の盛り上がりを察した。「成瀬」、とっても愛されてる。
午後、夫が予約してくれていたミシガンクルーズの集合時刻より少し早めに大津港に向かった。港のそばの公園をぶらぶら歩き、突堤へと足を伸ばした。目の前に琵琶湖がぐんと広がる。かもめ? いや、雀が湖面からの風を受け、遊ぶように手すりに留まる。
こんなに晴れ晴れとした景色の場所で、あんなに健やかな心の主の「成瀬」が生まれ、育ったといって不思議ではないなぁ、ぴったりだ、と感じた。
定刻、大津港からミシガンが出航した。
60分のコース、地図で確認すると湖南、それもほんの一部なのだと知って、琵琶湖の広さに驚いた。デッキから見渡す限りの湖面は想像以上に広いのに、かすかに見える琵琶湖大橋の向こうに、さらに広い広い湖が広がっていると思うと、不思議だった。
湖面の向こう、緑が鮮やかな比叡の山の連なりは高い。京都市から大津市にやってきた私たちは、逢坂の関を抜けてきたことになる。そういえば近江に都が置かれた時代があったことも頭に浮かんだ。天智天皇の治世だ。
古典も、令和の文学も、ばらばらに知っていた知識がつながり、自分で体感するような感覚があった。小さな旅も充分面白いなぁ。
そして、ミシガンクルーズは父の思い出につながる。
私がまだ父の娘だった頃、会社の旅行で旅した時に、乗船していたのだった。船内のステージで、外国人のカントリーバンドが演奏をしていたことを、楽しそうに話していたことも、不意に思い出した。
父が眺めたこの眺めを、私もこうして眺められるとは。
湖面の向こう、「近江富士」と呼ばれる三上山が見えてきた。船が大津港に向かって戻り始めたことがわかる。
「成瀬」を巡る小さな旅の最後に、父を思い出すとは思わなかった。連れてきてくれた夫に感謝だ。
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