新しい世界をつくるのは
すごいものを読んでしまった。
お腹の下の方にぐんと響く読後感。こういう感動は久しぶりだ。
村田喜代子さんの「新古事記」は、書店の新刊書の棚で見つけてから、実際に手に取るまでに1年かかった。
実は、発刊後すぐの時期に新聞かなにかで書評を読み、物語の筋を知って、読むのを躊躇していたのだ。これはおいそれと手を出しては、ぐっと飲み込まれてしまう。覚悟のいる本だ。
少し手が空くようになり、ちょっぴり気分に変調を起こしても大丈夫と思えたので、読みたい本リストの上位にあったこの本を読むことにした。
物語の舞台は、1943年のニューメキシコ州の外れ。秘密裏に行われた原爆の開発に携わった壮々たる科学者たちと、その家族たちが集まった秘密の居住地・Y地だ。科学者たちは、家族にも研究内容について口を閉ざしており、Y地には住所もなく、外部との接点は私書箱が1つだけ。
そこに若い研究員の婚約者としてやって来た日系3世のアデラが語り手となって、物語が始まり、進んでいく。
彼女が日系人であることは秘密だ。アデラの祖父は、
「トクガワ将軍の時代にカンリン丸に乗ってきた少年水夫・ヒコタロウ」
であり、彼女は祖父が故郷の言葉で書き、祖母が手を加えたノートを大切に持っている。Y地にも密かに持ってきたそのノートには、漢字の意味や、日本の1番古い物語(「古事記」の神話)が書き留められている。
Y地で彼女が勤める動物病院に、ネイティブ・アメリカンの居留地から働きにやってくる
アーイダ。プエブロ族の彼女の素朴な歌も相まって、寓話の世界のように物語は進む。
しかし太平洋戦争は開戦、すでに日系人の排斥運動が始まっており、アデラは自分が日系3世であることを婚約者のベンジャミンにも告げていない。
日系移民ではないが、両親は日系人収容所に入ることから逃れるために、カリフォルニアからペンシルバニアへ転居した。
母との手紙のやり取りにも、本当のことは書けない。検閲があるからだ。
さらに、1日遅れで届く新聞には、日本との戦線、ユダヤ人の虐殺の記事がある。生々しい、現実にあったこと。
その一方で、Y地ではいたって日常的な生活が営まれている。
犬を散歩させ、家事をし、そして祈りの場であるシナゴーグを作り、結婚し、子を生み、育てる。時折「ドーーン」と大音響が響く以外は、至って人間的な暮らしがある。その大音響について、誰も口にしない。
歴史に名を残した科学者たちの名前も登場するが、研究所での高官である以外は、人間的な人物として描かれている。しかし、造り出された大量破壊兵器は彼らの意思と外れ、広島と長崎で引き起こした結末と裏腹だからこそ、胸に堪える。
これはフィクションとして物語られているが、モデルとなる体験記がある。(フィリス・K・フィッシャー著『ロスアラモスからヒロシマへ』)
巻末に添えられた謝辞に綴られているが、村田さんは「いつかこの本を小説化させて貰いたい」と準備にかかったものの、フィッシャーの原書の翻訳、出版にあたった方の急逝で「危うく膝をつきかけた」そうだ。そして原書に沿いながら、あらためて登場人物や設定を作り直したという。
小説化を諦めなかった村田さんの強い意志に、寓話のように物語られた現実の重さを感じる。
一方で懐かしくもあるのは、村田さんの初期の作品「慶應わっふる日記」のエピローグを思い出したからだろう。
新しい時代へ、希望のある結末。
「見渡す限り岩混じりのニューメキシコの大地の、草と岩の海の中で、赤ん坊に乳を含ませている女たちの姿が見える。子どもたちが辺りを駈けまわり、赤ん坊は四つん這いになってもぞもぞと動いている。
その草、草、草、草、草の海を、子どもたちや犬の歩いたり這ったりする影がある。
まるで小さな神々たち。ヒコタロウの故国の草の神々だって思う。
でも、いいえ。そうじゃないとも。
あの草の中の影は神じゃなくて人間だ。人、人、人、人、人、人、人と、犬、犬、犬、犬、犬、犬たち。新しい世界は神じゃなくて人の子がつくる。人の子、人の子、人の子、人の子、人の子、人の子たち。」(※)
つくづく、すごいものを読んでしまった。
※ 村田喜代子著『新古事記』 第五章「新しい世界は神じゃなく、人がつくるのだ」より