[自信の必要性を考える]:後編
(前編の続き)
自信=自分の価値や能力を信頼している精神状態
という定義だった。
前編で、価値の方は述べた。
前編の結論は、自分の価値を信じる必要は無さそう、という話だった。
後編で、自分の能力を信頼することが必要かどうかを考えたい。
ところで、『完全に理解した曲線』をご存じだろうか。
ちょっと勉強しただけですぐ分かった気になってしまうあの現象だ。
私も最近、ゴルフでこれを経験した。
プロゴルファー片山晋呉さんの動画を観て、「よし、完全に理解した」と自信に満ち溢れた。
脳内では完璧にスイングできている。
その状態で、翌日ショートコースに臨んだ。
結果、最初のホールだけで10個のボールが森へ消えた。
なぜ、動画を観ただけでできると思ったのだろう。
愚かにもほどがある。
特に知識や経験が浅いときは、自信がありすぎるのは良くなさそうだ。
能力への自信を自己効力感とも言うらしい。
自己効力感というのは、知識や経験を積み重ねた上で自然と高まっていく方が良さそうだ。
少なくとも気合や精神論で高めようとするものでは無いかもしれない。
ということは、「やればできる!」はシンプルに嘘な気がする。
「やればできるかもしれないし、できないかもしれない。試しに一旦やってみたら?」が、おそらく正しい。
「やればできる!」は、どうやらあまり使わない方が良さそうだ。
おそらく仕事にも当てはまる。
新入社員が自信なんか持ったら、大変なことになるに違いない。
やる気の無い無能が一番危険だというのは、言いえて妙だ。
経験のない20代が仕事で結果や実績を出すことは、少し難しく感じる。
以上の理由により、自分に自信が無いのは自然なことだと思う。
むしろ、胸を張って自信が無いことを受け入れたらいいと思っている。
私の周りを見ても、就活が強いのはそういった賢くて謙虚な人達だった。
「自信が無い自己を肯定する」と言い換えてもいい。
本来の自己肯定感の意味は、こういうことなのかもしれない。
なるほど、どうやら私がひねくれていただけのようだ。
もし自信があるならそれはそれで結構だと思う。
むしろそっちの方が幸せに生きられそうだ。
ただ、未来を悲観的に予測しておく方が、失敗は減らせるかもしれない。
私も部分的に自信がありすぎるので、そこは悲観的になっておきたい(朝の準備にかかる時間など)。
自信が無いなら当然のこととして受け入れる。
仮に自信があるなら、多少悲観的に結果を予測するだけでいい。
結論としては、「自信が無い状態は悪いことではないし、かといって自信があっても対処はできる」ということになる。
「自信が無いことは当たり前で、自然なこと」
自信の無さは賢さの証拠。
日本人は自信が無いとよく言われるけれど、別にそれで良いではないか。
そんな価値観の方が、私にとっては楽に感じる。
参考