地下鉄サリン事件も8時ごろ
1995年(平成7年)3月20日8時ごろ、都内、営団地下鉄(帝都高速度交通営団)の 丸ノ内、日比谷線 及び、千代田線車内で、神経ガスのサリンが散布された。乗客や駅員ら14人が死亡し、負傷者数は約6,300人とされる。
3月20日は年度末で、多くの学校では終業式または、春休みに入ったことである。当時は、「春高バレー」が東京で開催され、フジテレビが全面的にバックアップし、大会を盛り上げていたことを思い出す。
この時期は、春休みといっても、人事異動や年度末の生徒指導要録の提出や各種書類の提出等で、公立学校は多忙な時期である。
一部の私立学校では、修学旅行等が実施される場合もあるが、公立高校は、多くの学校で生徒は春休みを楽しんでいる。
春高バレーも、時期変更の要望が公立高校からは出せれていたが、出場校の大半が私立高校であること、そして、この時期は、その他の大きなスポーツイベントがないため、大きな会場を確保しやすく、また、番組の改変時期で、視聴率も稼げるため、スポンサー集めが比較的容易である等のいわゆる「大人の事情」により、なかなか変更されなかった。
しかも、サリンが散布されたのは、8時ごろ、通勤ラッシュのピーク時間である。
この事件が、通勤時間帯のピークに実行されたのは、オーム心理教の幹部、村井秀夫と井上嘉浩が「乗客数および官公庁の通勤のピークが8時10分ごろであると考えたためである」とされている。対象者に確実に危害を与えるためには、通勤時間帯を狙うという理屈がこの事件でも採用された。
8時代の通勤時間帯の殺戮といれば、下記を思い出す。
「警察庁関係をはじめとする中央官庁に勤務する公務員の多くをサリンで殺害すれば、政府機能が麻痺し、結果としてオウム真理教へ捜査の手が及ぶことを先延ばしできる」のでは、と考えたようである。
しかしながら、オームの関係者の中に、中央官庁の役人はいなかったようである。少なくとも、計画を立案した幹部の中には、・・・。また、事前に十分な下見もなされたいなかったと思われる。
偶然にも、8時前後の時間帯に出勤する中央官庁の役人は当時ほとんどいなかったのである。年度末の多忙を極めるこの時期、中央官庁の役人の多くが長時間の時間外勤務を余儀なくされ、「午前様」(終電後のタクシーチケット利用)であった。そのため、朝起きられないことが日常化しており、始業時間に合わせて出勤するものは、全職員の1割程度。特に中堅以上、及び幹部職員はまだ、自宅で朝食をとっているころであった。
中央官庁勤務の長時間労働問題は、まだ、知られていない時期で、ちなみに、週2日以上、超過勤務に終電に間に合わない職員は、通勤のための定期を購入していなかった。定期より、割引券の方が、使えていたからである。
地下鉄サリン事件で、もう一つとても驚いたのが、自衛隊には化学対応部隊があり、このような緊急事態に即応して除染に当たったことである。
各師団に化学兵器対応部隊が設置されたのは、元号が平成に代わるころの様である。
(私はこのような部隊が組織され、活動していることを知らなかった。)
https://www.mod.go.jp/gsdf/eae/1d/unit/1nbc.html
https://www.mod.go.jp/gsdf/mae/3d/3nbc/unit.html
https://www.mod.go.jp/gsdf/nae/7d/hensei/team/cml/prev.html
対化学兵器対応の完全装備の自衛隊員が専用車両で登場し、現場に残された資料の回収と車両の洗浄作業をてきぱきとこなす様子がNHKで報道され、対化学兵器戦の可能性を自衛隊が真剣に考え、そのための部隊まで組織していたことに驚かされたものだ。
阪神淡路大震災以前は、自衛隊に対して、否定的な意見を持っている国民が一定数いて、積極的な広報活動はあまり行わていなかったように覚えている。