フォッサ(発作)で辛いのでドッグマン見た。
フォッサ特有の辛さに対処するのに、なぜか辛い映画しか観られない。

ドッグマン(ダグラス)のいつも泣きそうな目をじーっとみる。見てるとなぜか辛さに耐えられる。

じーっと目を観るための映画。

泣きそうな目のダグラス、一度死んだようなダグラス、生まれたての雛のように無垢な信頼を寄せるダグラス、愛情を期待することを諦めたダグラス、それに比例して自信をつけて堂々としていくダグラス、冷めきったダグラス。

いろんな目が見られる。

震えるぷるぷるダグラスと、ワイングラス叩き割りダグラスもよかった。いつもちいさな声で落ち着いて話すダグラスが、こんな大きな声で怒るんだ。

なぜ話してくれたの?との問いに対して、

同じものをもってる。pain。

というダグラスも静かだった。

ホアキン・フェニックスのジョーカーもそうだったけど、ダグラスも痛みを表現できるようになったのって、諦めてからだったね。

はじめて人に面と向かって怒ったら、怒りの総量が限界突破してて犯罪者になっちゃってた。
愛情を期待するのを諦めたらやっと自我が獲得できた。
自我が獲得できて初めて、怒れるようになったのだけど。

それが破滅への道だった。

ジョーカーとドッグマン、ドッグマンにはジョーカーのオマージュもあるけど、ここが似てる。

ただ、ジョーカーは復讐として自覚的に悪を行っていった気がするけど、ドッグマンは富の再分配、自然の摂理と、全く悪事とは言ってなかった。

やっと人間になれたら、犯罪者だった、じゃあ、生まれちゃいけないんですかぁ?
という問いとともにダグラスは堂々と死を待つ、ように見えるラスト。

生きてるんですけど。
ダグラスのそんな声が聞こえてきそう。

そんなダグラスにずーっと寄り添い一途に愛し、見返りを求めないピュアなお犬様たちの目はダグラスの冷めてゆく目と対称的で、辛い状況を見続ける観客の心を癒してくれる。

ちょっとでもお犬様たちが可哀想なシーンがあれば観られないから、入念に調べてから観た。
監督のリュック・ベッソンさんは犬好き。間違いない。
ニンゲンより犬が尊いよねーという映画とも観てとれそうなほど。

しかし私の犬好きの解釈と大いに違う所があって、それはおそらく、犬が好きよりも人間が嫌いが大きすぎたからかもしれない。

倫理観が犬の幸せにどれほど貢献するか、野生とは何か、自然の摂理とは何か、そこの解釈違い。

そこが残念で好きな映画にはならなかったけれども。

よく知らないけどこの監督って人のことをじーっと観る映画を作るというか、ストーリーよりも人を描く人なのかも。

なので辛いときに目をじーっと観て自分の辛い状況に耐える、そんな時に観る映画になりそうです。


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