防砂林
祖父の話を心の整理に置いておく。
祖父が死ぬ前日。2人で長い長い散歩をした。
私は休職していて1ヶ月ほど実家で祖父母と猫と暮らしていた。祖父は数日前から体調が悪く、認知機能がガクンと落ちた。トイレに間に合わなかったり、あるはずの物を盗られたといったり。病院に連れて行くと、かかりつけの医者の診断では何にも異常はなく、強いていうなら軽い脱水。10年以上お世話になっている先生は、ストレスで10円ハゲのある私と、私を認識できなくなりつつある祖父を見てにっこり笑った。「少し歩きなさい」と添えて。
祖父にはその言葉がすとんと落ちたのか、次の日私を散歩に誘ってくれた。いつものように帽子をかぶり、アイロンをかけたシャツにベルトとズボン、革の靴。
一緒に歩くのは何年振りだろうか。私たちは秋にしたら蒸し暑い夕方、海に向かって歩いた。
「ここらへんはオバケが出る」
祖父が指を刺すのは新しい家が立ち並ぶ区域。
「むかしなぁ、このへん死体置き場だっただけん」
「川のほとりに死体を並べて、焼いとったけん」
「だけんあぶにゃあて親たちはそう言っただがんなあ」
祖父のもうあまり見えないであろう目には昔の風景が映ったのだろうか。
戦争中に生まれて、親を亡くし、早くから働いた祖父が馬を引いていた道。よろける祖父の服から、祖母が丁寧につけたノリの香りがした。
それからさらにずっとまっすぐ歩いた。歩くたびに、祖父の足取りは信じられないほどしっかりしたものになった。おじいちゃん待ってや、と言っても私じゃ無い誰かに何かを語りかけながら。
松林に来ると、祖父はなんと走り出した。
「いかんといけんけん、とまれんけん」
そう呟く祖父がやっと立ち止まったのは、小さな小屋だった。その時祖父が話した内容は方言がかなり強くて聞き取りきれなかった。おそらく、村の若い人たちがここを建ててくれたんだろうという話。時系列も祖父の中では戦後すぐの話かもしれない。
小屋を出た頃には祖父はフラフラになっていた。ジュースを買ってあげると美味しそうに飲んでくれた。
もう家の誰かに車で迎えにきてもらおうと説得するが、聞いてはくれない。固い意志でこっちだと私の手を取る。
それはかなり遠回りの入り組んだ道だった。地元の人が聞いたら、何故?と思う道。
その道中知らない人の家のブロック塀に座っては
「ここは〇〇さんの家だから」と言う。その人は存命かそうでないか、もしや親戚か、わからなかった。名前も覚えきれなかった。
陽が傾いて、カラスが鳴き出す。どんどんフラフラになって行く祖父に何度も車を呼ぼうと言ったが聞かなかった。思えば頑固な人だった。
私もクタクタになりながら、なんとか家に帰れた。土間でよろけて肩から血を流すなどのハプニングもあった。
結局は3時間ほどもかかった長い散歩だった。
「明日からはもっと短く歩こうね」
そういうと祖父はウンと言った。
祖父は晩御飯もしっかり食べて、よく寝て、朝ごはんもしっかり食べて、昼前に一人で旅立った。
リビングで横たわる祖父を見て一瞬でわかった。心臓マッサージの嫌な感覚、人工呼吸の時震える自分の唇。救急車のサイレン、ピーッという電子音。
ものすごい濁流の中、祖父は穏やかだった。いつもの定位置でいつもの座布団で、目を閉じていた。
今も松林の向こうに祖父がいる気がする。
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