西洋音楽の物語:第1話『ゴシックのモテット』XI "Haec dies この日"
2週間後、ロベルトはモテットの分析結果を持ってニコと共にパリの錬金術師の実験室にいた。机に何枚かの羊皮紙を置くと、ロベルトは話し始めた。
「このモテットはサン=ドニ修道院のガラスのオリジナルレシピなんじゃないか?もしそうなら、この修道院のステンドグラスにその手掛かりがあるんじゃないか?そう考えて調べてみたんだ。その結果、モテットとこの修道院のステンドグラスにはいくつもの共通点がみつかったよ。
前に説明した通り、モテットは3声部から成っている。この、高、中、低という三つの垂直的イメージにはとても深い神学的意味がある。このサン=ドニ修道院につたわる聖ドニ、すなわち聖ディオニュシオス・ホ・アレオパギデスの『天上位階論』の教えが込められているんだ。その書には人間の魂がいかにして神に至るかが説かれていた。
その過程はこうだ。第一に、神が発せられた光はこの世の被造物を照らす。第二に、被造物はその光によって美しく輝く。そして第三に、その美しい輝きの源を探求し、深く観想することにより、人の魂は神に至る。
『あらゆる被造物は神の現れであり、この世のすべての美しさは神的な美に導く階梯である。』
シュジェール大僧院長はこの教えを誰よりも熟知された方だった。
そもそも、なぜステンドグラスなんだ?僕らのポンポーザ修道院はモザイク壁画だったのに。それは大僧院長は『天上位階論』の“光”を重んじられたからなのだろう。
さらに、モテットはステンドグラスが示す物語に基づいて作られていると思う。」
ロベルトは一枚の羊皮紙を広げて説明を続けた。
「まずは、下声部の"Haec dies この日" について説明するよ。」
ロベルトは羊皮紙に書かれた楽譜部分を指した。
「この下声部は見ての通り歌詞がこれしかない。歌う時には音節が長く引き伸ばされる。それでも、この部分は聖歌の一部だから、それを知る者であれば象徴されるものは十分に伝わる。」
「おまえ、すぐには何だかわかんなかったよな。」
ニコは口をはさんだ。
「…ああ。わかんなかったけど…、調べたんだからいいじゃないか…。」
ロベルトは横目でニコをにらんだ。
「続けるよ。下声部の言葉は聖書の詩編第117章の24節からの引用だ。
『Haec dies quam fecit Dominus
これは主が設けられた日であって、
exsultemus et laetemur in ea.
われらはこの日に喜び、楽しもう。』
さらに言えば、この詩篇は113~118まで続く『エジプトのハレル』と呼ばれる詩篇の一部なんだ。ハレル詩篇は『アレルヤ』つまり賛美の歌でイスラエルの民がファラオによる奴隷状態から解放されて約束の地で主に仕えることを讃えた喜びの歌だ。
このハレル詩篇の中にも垂直的イメージの表現がある。
『日の昇るところから日の沈むところまで』
地上から天に向けて主を讃え、主の栄光は天を越えて輝き、低く下って地上の民をご覧になる。そして貧しき弱きものを芥の中から高く上げてくださる。
それから、モテットの中声部の冒頭 "Virgo virginum"はもちろん聖母マリアのことだけど、このハレル詩篇の中にも詩篇113の最後の数節、
『また子を産まぬ女に家庭を与え、多くの子供たちの喜ばしい母とされる。主を褒めたたえよ。』
これは「マリアの賛歌」(マニフィカト)の
『神は卑しい婢を顧みられ…』
という聖母の言葉の先取りとされる。
そしてこれもまた、高きから低きところへの垂直的な表現だ。
これらの物語がこの修道院のステンドグラスに描かれているのを知ってるか?」
「ああ。シュジェール大僧院長が描かれてる窓のことだな。『エッサイの樹』の窓では立位で、『受胎告知』の窓ではひれ伏した姿で描かれている。確かに、高きから低き、だな。」
ニコは言った。
「さすが、よく見てるな。」
ロベルトは感心した。
「でも、もうひとつ、聖歌”Haec dies この日”はエジプトの物語だからモーセの登場する『青銅の蛇』の窓に注目すべきだ。この窓の主題は死と復活、預言と成就だ。
この聖歌は教会では復活祭当日の3時課の祈りの際に歌われる。復活祭は主イエスが磔刑から3日目に復活されたことを祝う祭りで、移動祝日ではあるが、たいていは3月に執り行われることが多い。
『この日』とは3月の復活祭の日と考えていいだろうね。だから、この下声部で象徴的に示される数値はズバリ“3”だ。
さらに、この窓には大修道院長の姿は登場しないが彼の銘文が記されている。
『文字は殺し、霊は生かす。』
文字のままではダメで象徴をとらえよということだ。聖書は神の言葉だが文字であらわされ、音楽もまた音符という形の特殊な文字によってあらわされる。文字は時間の経過を横一方向に進んでいくことで表している。
つまり、ここで天上位階論が象徴する縦軸とシュジェールの銘文が表す横軸が交わって十字架をなしている。」
「なるほど、美しい真理だな。」ニコは感心したように言った。
「お前はただの音楽バカで、神学については興味ねえのかと疑ってたが、恐れ入った。見直したぞ。」
「なっ!?」
ガラスにしか興味が無さそうなニコにそう言われ、ロベルトは悶絶したが、何とか咳払いでごまかして先を続けた。
「ゴホッ。あー、で、実際のモテットの分析だけど、今回はガラスの工程作業で役立つ数値の観点から考えてみた。
このモテットでは冒頭部の"Haec dies"の語しか使われない。4音節だ。だが、音符数はそうではない。この冒頭の言葉だけで引き延ばされながら、18の音符が充てられている。
"Mi,Re,Fa,Mi,Re,Mi,Ut,Mi,Sol,Sol,Sol,Sol,Mi,Re,Mi,Re,Re,Mi"
そして4音、4音、5音、5音のように割り振られて、それが2回繰り返される。つまり、この曲は前半部と後半部の2つの部分から構成されている。青銅の蛇のように預言と成就の二つの部分を示しているのかもしれない。
"Mi,Re,Fa,Mi 4音 /
Re,Mi,Ut,Mi 4音 /
Sol,Sol,Sol,Sol,Mi 5音/
Re,Mi,Re,Re,Mi 5音" くりかえし
文字と音で示される横軸の象徴的数値は“2”、“4”、“5”それから“18”。ここまでが下声部から導き出された数値だ。
文字と音符の数は少ないんだけど、象徴として下声部が最も重要だって、わかってもらえただろうか?」