西洋音楽の物語:第1話『ゴシックのモテット』VIII 酒場にて
パリにたどり着いた時には、あたりはすっかり薄暗く宵闇が迫っていた。いつも、聖歌隊学校に来るのは昼間で、終了後は近くの教会の宿坊施設に泊まっていたから、こんな時間にこの場所をうろつくのはロベルトにとって初めてのことだった。
「この店だ。」
ニコはその路地でもわりと小綺麗で大きな構えの店を指さした。修道院は身元がしっかりとしていない者の出入りを禁じているから、商人たちもそれなりの儲けのある者たちなのだろう、とロベルトは思った。
「そこの陰に潜んで、店の入り口をうかがっていてくれ。俺が顔をのぞかせたら、店に入ってきてくれればいい。知り合いの職人にバレるから、くれぐれも俺の名前を呼ぶんじゃねえぞ。」
「わかった。」
酒場の荷物だろうか、ロベルトは大きな木箱の陰に隠れた。
(ニコは錬金術師にあってどうしようっていうんだ?暴漢や夜警に絡まれたらひとたまりもないのに。)
ロベルトは不安でいっぱいになりながら、大きな木箱の間にすっぽりと身を沈めた。
そういえば、ニコは幼い頃からしょっちゅう冒険まがいのことをしていた。彼の父親がロベルトの屋敷に来るときは必ずついてきて、屋敷中を探索しまわっていたし、ロベルトの部屋は2階だというのに、なぜか窓の外から入ってきて驚かされたりした。そんな時は二人でこっそり遊んだものだ。台所に忍び込んで高級ビーツをこっそり食べたり、宝物庫に忍び込んで、宝箱の鍵を開けて中の宝石をのぞいたり、書斎の引き出しを片っ端から開けて宝の地図を探したり…。だが、ニコと一緒にいる限り、そういういたずらが見つかることは一度もなかった。それに多少、物がなくなることがあっても、品行方正で引きこもりのロベルトが疑われるはずもなかった。
けれどやはり、ロベルトは子供のころと同じように、なんでついてきてしまったのかと頭を抱えた。
※※※
ニコは店に入るとやおら、キョロキョロと不審な動きを取り始めた。すぐに店の者が出てきて言った。
「おい、ガキが来るような場所じゃないぞ。出てけ。」
「ごめんなさい。母ちゃんが今日からこのお店で働くって話だったんだけど、親戚の人が来たからすぐ帰るようにって伝えに来たんだ。隅っこのほうで待たせてもらえませんか?」
ニコは頭からマントをかぶって身をかがめて、小さい声で言った。
「今日から仕事するって?そういや若い女を雇ったって亭主が言ってたような…。嬢ちゃんの母親ならけっこう若そうだな。まあ、しょうがない、あの樽の陰で小さくなってろ。邪魔すんじゃねえぞ。」
給仕係は華奢なニコを女の子だと思ったようだった。
「ありがとう」
ニコは頭を深々と下げて、ワイン樽のそばに座った。
まだ、商人たちは来ていない。だが、待ち合わせは「日暮れ時、まだ店がすいてる時間」と話しているのを聞いたから、まもなく来るはずだ。ニコは人が少ない時間に、例の人物の話をするに違いないと踏んでいた。
あれから、何度か商人たちの話を盗み聞いた。希少な素材を仕入れてくるジャックという商人のことは、ガラス工房内ですっかり噂になっていた。他の者も彼がどうやってそんな品を仕入れているのか聞きたがったが、「それは飲みに行ったときに。」の一点張りで口を割らなかった。
もちろん、いかがわしいやつと関係があると疑われては、修道院に出入り禁止になるかもしれなかったから当然だろう。
ジャックがはぐらかすせいで、彼の同業者たちはその話が聞きたくてうずうずしていた。最終的に、工房に出入りする商人たちが勝手に飲み会を企画し、ジャックは指定された日時と場所に呼び出されることになったのだった。こうして、ニコは商人たちの飲み会の日時と場所の情報を手に入れた。
幼少期から、ニコは情報を集めることの大切さを理解していた。修道院の工房に入るために、故郷の貴族の家にできるだけ多く顔を出したのも、見習い修道士として自由に工房で作業できるようになったのも、緻密な情報収集とそれを活かした活動のおかげだった。
すべてはステンドグラスを作るためだ。ニコはガラス職人を志すきっかけとなった、ロベルトの小箱のことを思い出した。今となってはガラスを切り出した後の余りの小さなかけらの寄せ集めだと知ったが、それでも、その光は神秘的で美しかった。
(アイツの髪と瞳の色みたいに)
大僧院長シュジェールは自分自身の姿をステンドグラスに描かせている。ニコも自分の図案を描いてみたかった。それは歌う天使、つまりロベルトの姿だった。
(アイツの姿を表現できるのはステンドグラスしかない。歌で主に仕えるあいつの姿を描くことが、俺にできる唯一の主への奉仕だ。だから、なにがなんでも作り方を探り出してやる。)
ニコは息を殺して、樽の陰に身をひそめた。
その時、果たしてジャックを含めた商人たちが入ってきた。噂が広まったせいで7人も集まってしまったようだ。開店と同時に団体客が入ってきたので、給仕係は慌てて大声で迎えた。
ひととおり酒と鳥肉の串焼きを注文し終えると、すぐにそのうちの一人が切り出した。
「さあ、ジャック、もったいぶってた話を聞こうじゃないか。」
「そうだ、そうだ!ずいぶん待たされたぞ。例の商人のこと紹介してくれよ。」
みんなの視線がジャックに集まると、出された酒をぐっと飲んで、彼は話し始めた。
「独り占めしようとしたわけじゃないんだ。全く奇妙な話だからさ、あそこで言う訳にはいかなかった。工房を出禁にされたら困るだろ。」
「そいつはヤバいやつなのか?」
仲間の一人が眉をひそめて言った。
「いや、彼自身はそれほどでもないんだが…。そいつはオウルって名乗ってる旅回りの商人だが、おそらくフランス人だ。そんなに異国語もラテン語も話せるわけじゃないからな。オウルは希少素材の情報をパリ大学の偉い先生から買っているっていうんだ。」
「ふん、たいした権威のお墨付きじゃないか。それのどこが怪しいんだ?」
誰かの質問に皆そうだ、と頷いた。
「いや、その大学教授こそが怪しいんだよ。オウルが言うには、まずその先生から変な文字が刻まれた小さな石板を買う。そしてそれを持って指定された石切り場だの、海岸だので土や砂や鉱物なんかと交換してもらうんだそうだ。俺もオウルから紹介してもらってその先生に会ったことはあるんだが、もう一目見ただけで怪しくて、直接関わるのはやめようと思った。」
「どんなふうに?」
「恰好がさ…顎髭を生やして、それから先っちょが三角に折れ曲がった変な帽子をかぶって、奇妙な形に髪を編み込んでたな。それから、黒くて硬い目隠しで目を覆ってる。なんでそれで物が見えてるのか不思議でしょうがない。派手な赤いマントを着てて、長い杖を持ってる。」
誰かが呆れていった。
「そりゃ、酷く目立つな。それで、変な石板っていうのは?」
「白鳥とか、カラスとか、孔雀とか?あと、ライオンとかの文字がラテン語で刻まれてるんだそうだ。異国の文字が書かれた紙を見ながら説明をしてくるが意味が解らない。」
「外国語だから意味が解らないんだろう?」
「ちがう、ちがう。単語の意味はわかる。季節とか、結婚だとか、動物だとか、鳥だとか、墓だとか、牢獄とか。そんな誰でも使う言葉を使いながら説明してくるが何のことやらわからないから聞いたそばから右から左に抜けてしまう。で、最後には具体的などこそこの石切り場で手に入るとか、場所の指示を出してくるんだ。」
「なんだ、そりゃ?」
「お偉方の頭の中はわからんな。」
「ああ。大学ではそんなのが流行りか?」
ジャックの話を聞いて、皆、口々に疑問をいった。
「なんだろうな。オウルもはじめは胡散臭くて、まあ試してみるか程度で石板を一つ買ったんだが、イギリスの海岸ではすごく高価な素材と交換できたんだそうだ。そこはある大きな教会専用の石工の素材収集地域だったんだが、その石板を渡したらすぐに出入りできるようになったらしい。」
「どういう仕組みだよ。こわいな。」
「わからん。その先生はラルマン博士というんだ。ノートルダムの裏手の市場から横に入った路地の長屋に住んでる。夜ならほぼ家にいるし、もう何年もそこに住んでるから間違いなくパリ大学にお勤めなんだろうよ。」
それを聞いて皆はざわめいた。
「ノートルダムの裏手って、近頃噂の…」
「ああ、バケモンがでるっていう?だめだ、だめだ。」
「なんだって大学の先生がラテン区じゃなくてそんなとこに住んでるんだ?」
皆の非難の声に頷きながら、ジャックは言った。
「オウルのことはいつでも紹介できるが、いつまでパリにいるかわからんから、早く会いに行ったほうがいい。そんなヤバい人物とあってるんだ。長居できないかもしれない。」
そこまで会話を聞くと、ニコは足音も立てずに入口まで行き、顔を出してロベルトに合図した。
「はやっ!もう来た!」
ものの15分で話が聞けたことにロベルトは驚いたが、フードでしっかりと顔を隠して店に向かった。
ちょうどその時、客が何組も店に入っていった。全部の客が入り終えてから、そうっと店内を覗くと急に込み合ってきたので客をさばくため奥から出てきた給仕係の女性に腕をつかまれた。
ロベルトのフードが少しはだけて、女性と目が合った。彼女はにっこり笑いながらロベルトの腕に自分の腕を絡めて引っ張った。
「いらっしゃい!こちらの席にご案内だよ。」
ロベルトがあわてて客でないことを告げようとすると、女給仕は自分の胸をロベルトに押し付け、ロベルトの顔を覗き込んで言った。
「おや、お兄さんいい男だね。あたしのロバン、今夜はゆっくり飲んでいって!」
すると、奥から男の大きな声がした。
「よう、マリオン。やっとご登場かと思ったら、恋人のことはほっといて色男にご執心とは。あんまりじゃないか?」
マリオンだって!?はっとしてロベルトが給仕係を見ると、そういわれてみれば、あの時のマリオンらしき女性であるような気もした。
(全然少女じゃない。それに、こんな顔だったか?)
ロベルトはあれだけ思い続けていたくせに、自分の記憶があまりにも曖昧なことに驚いた。
マリオンは声をかけてきた奥の男客のほうに向かって近づいていき、尻を振りながら言った。
「あ~ら、コチラのロバンは妬きもちやきだね。あたしがいつあんたをほっといたっていうのよ?」
大きく胸の開いた衣装で、わざとその中が見えるようにかがみながら、ロバンと呼ばれた男のテーブルに酒の器をどんと置いた。
男はマリオンの胸にキスして、甘ったるい声で言った。
「絶景だな。鳥の串焼きももっと持ってきてもらおう。」
ロベルトは唖然とした。
(全然ロバンじゃない。)
あの日のダンスの相手であるロバンとは別の男が、同じくロバンと呼ばれていた。彼女は自分の名前「マリオン」と対になる「ロバン」という名を使い、媚を売るために片っ端から男たちに声をかけていたのだ。
ロベルトがあっけにとられていると、「父ちゃん」と小さく叫んでニコが抱きついてきた。
「おや、嬢ちゃんまだいたのか?父ちゃんが来てくれて、よかったな。」
男の給仕係に声をかけられたニコは、深々と頭を下げて礼を言った。そしてつられて頭を下げているロベルトの腕を引っぱって店を出ると、足早に闇に紛れ込み、うつむいたまま言った。
「下品な場所に連れ込んじまってすまなかった。謝る。」
ロベルトは自分の顔が赤くなるのを感じ、フードで顔を隠しながら話をそらした。
「首尾が良かったから驚いたよ。これからその商人の家に向かうのか?」
「いや、大学教授だ。新情報だからな。この件も首尾よくいくとは限らねえ。ジャックって商人の話じゃ、教授は奇妙な隠語だか暗号だかを使って説明してたとさ。例の結婚とか、鳥とか、獅子とかっていう。それは羊皮紙にまとめられているらしいぞ。そいつを手に入れよう。」
「盗むのか!?」
「盗まねえ。代わりになるモンをちゃんと用意してある。交渉するんだ。お前に罪は犯させねえよ。」
ロベルトはほっとしたが、すでに夜のミサは全部サボってしまった。おそらく、言い訳に仮病を使わなくてはならないだろうと思って天を仰いだ。