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『ゴシックのモテット』解説その1:オルガヌムとモテット

【小説の時代背景:1182年について】
1182年はノートルダム大聖堂付属聖歌隊にとって記念的な年でした。次の引用は、フランスのゴシック建築の代表例であるパリのノートルダム大聖堂の内陣(コーラス)の建設に関する記述です。

1163年から1182年にかけて、聖歌隊席と2つの周歩廊の建設が行われました。当時の年代記作家ロベール・ド・トリニーの記録によると、聖歌隊席は1177年に完成し、主祭壇は教皇の使節であるアンリ・ド・シャトー=マルセー枢機卿とモーリス・ド・スリーによって1182年5月19日に奉献されました。

…1182年から1190年:ネーフ(身廊)の東側4つのトラヴェ(跨間)、側廊、およびトリビューン(回廊)が建設されました。ネーフの建設は、1182年に聖歌隊席が献堂された後に始まりました

ノートルダム・ド・パリ公式サイトより

(補足:「トラヴェ」は建築用語で、特にゴシック建築の教会などの建物における一つ一つの区画を指します。具体的には、アーチや支柱によって区切られた、天井や壁の一部分です。トラヴェは通常、縦方向に並ぶ複数の区画によって構成され、建物全体の安定性や美しさを保つ役割を果たします。)

トラヴェ建築中?w

【ノートルダム楽派の主要人物】

・Leoninus レオニヌス:仏レオナン(1135-1210年)”Maguns Liber Organum オルガヌム大全”の作曲者。

・Perotinus ペロヌティヌス:仏ペロタン(12世紀後半-1220年)レオニヌスの作品を拡大、発展させ、合唱の新しい技法を生み出した。

・Phillippe le Chancelier フィリップ・ル・シャンスリエ(1165-1236年):パリのノートル・ダム大聖堂宰相。神学者。パリ大学学長。ペロタンの多くの作品にテキストを入れ、ノートルダム楽派の音楽家たちは彼の詩に曲をつけた。モテットの最初の作曲家でもあると言われている。

【小説の主人公ロベルトの音楽的背景】
主人公ロベルトはイタリアから音楽留学に来た青年です。物語の舞台となる1182年当時、ペロティヌスやフィリップはまだ若く、ロベルトと同世代の設定です。そのため、彼らはレオニヌスの作品を歌っていたことになります。

レオニヌスのオルガヌム

ペロティヌスのオルガヌム

主人公はオルガヌムの迫力に圧倒されているため、ペロティヌススタイルの演奏を行っていると考えられます。年代が早すぎるのではないかという疑念も生じますが、先に述べたように1177年にはノートルダム大聖堂の聖歌隊席が完成しています。5年後の1182年にはレベルが上がっていた事でしょう。また、ペロティヌスが関与する頃には、オルガヌムはかなりの熟練度に達していたと推測しました。

【オルガヌムに関する同時代の記録と考察】

レオニヌスのコレクション「オルガヌム大全」の当時の原本は現存しておらず、1250年以降に作成された写本によってその内容を知ることができます。これらは整然としたモード記譜法で記されています。つまり、作曲から記譜までの間にかなりの時間が経過しており、作曲当時の粗野さは失われ、整然とした形でまとめられた最終稿のみが残されているということです。

興味深いのは、オルガヌムに対する同時代の外国人の感想です。

”When you hear the soft harmonies of the various singers, some taking high and others low parts, some singing in advance, some following in the rear, others with pauses and interludes, you would think yourself listening to a concert of sirens rather than men, and wonder at the powers of voices . . . whatever is most tuneful among birds, could not equal. Such is the facility of running up and down the scale; so wonderful the shortening or multiplying of notes, the repetition of the phrases, or their emphatic utterance: the treble and shrill notes are so mingled with tenor and bass, that the ears lost their power of judging. When this goes to excess it is more fitted to excite lust than devotion; but if it is kept in the limits of moderation, it drives away care from the soul and the solicitudes of life, confers joy and peace and exultation in God, and transports the soul to the society of angels.”


『さまざまな歌手たちの柔らかなハーモニーを耳にするとき、ある者は高音、ある者は低音を担当し、ある者は前に進み、ある者は後に続き、また別の者は休止や間奏を挟みながら歌っていますが、まるで人間ではなくセイレーンたちの合唱を聴いているかのように思われ、声の力に驚かされます……鳥の中で最も美しい音色を持つものでも、これには敵わないでしょう。音階を上下に駆け上がり、駆け下りるその技術は見事で、音符の短縮や多重化、フレーズの繰り返しや強調の仕方も驚くべきものです。高く鋭い音がテノールやバスと見事に混じり合い、耳はその判断力を失うほどです。これが度を超すと、信仰心よりも欲望をかき立てるのに適していますが、節度の範囲内であれば、心の悩みや人生の憂いを払い、喜びと平安、神への歓喜を与え、魂を天使たちの仲間に引き上げます。』

https://courses.lumenlearning.com/suny-musicapp-medieval-modern/chapter/perotinus-perotin-e/

このサイトではこの文章がレオナンとペロタンの時代にパリ大学で教鞭をとり、ノートルダム合唱団学校の多くの礼拝に出席した、ジョン・ド・ソールズベリー(1120年 - 1180年)が彼の著書”De nugis curialiam”において述べているとしています。

しかし『De Nugis Curialium(廷臣の些細なこと)』の著者は、確かにレオナンの同時代人ではありますが、ウォルター・マップ(ラテン語: Gualterius Mappus、1130年 - 1209/1210年頃)は、という作家です。
マップはイングランド王ヘンリー2世の廷臣で、ルイ7世と教皇アレクサンドル3世への使節としてフランスに使わされたことがあったそうです。彼は1196年にオックスフォードの大助祭になりました。

もしこれが信頼できる記録なら、12世紀末のオルガヌムはこのように迫力のある演奏だったかがわかります。

【モテットの始まり】

小説では、若い作曲家たちによる音楽の新しい実験として、モテットが登場します。それはリズムにも記譜にも大いに問題があった「メモ書き」という形にしました。

『この新しい形式(モテット)は、ボーカリーズ(装飾的旋律)にフランス語や世俗的な言葉を、一音ごとに一音節ずつ歌詞を付けることで記憶しやすくした点に特徴があります。そのため、「モテット」(**「小さな言葉」**)という名前が付けられました。こうして、2声の楽曲が生まれました。1つの声部は、長い音価でグレゴリオ聖歌の旋律の断片を歌い、もう1つの声部は、異なる歌詞を持つ速い旋律を歌います。
…この手法は発展を続け、すぐに3声へと広がり、それぞれが異なる歌詞を持つ場合もありました。』

ノートルダム・ド・パリ公式サイトポリフォニーとモテットより

モテットが主要なジャンルとなるのは13世紀になってからですが、12世紀末に実験的作曲が始められていたと考えることは魅力的です。
この小説のテーマ曲であるVirgo Virginumを含むモンペリエ写本のモテットは、音楽史的に「アルス・アンティカ(古芸術)」と呼ばれる時代に属しています。しかしモテットが誕生した当時、その斬新なアイデアに作曲家たちは胸を躍らせていたことでしょう。そして、このモテットというジャンルは大きな人気を博し、多くの人々に愛されました。

モンペリエ写本がまとめられた1250年頃から1320年にかけて、ノートルダム楽派はすでに音楽界での優位性を失っていました。この時期の音楽を「アルス・アンティカ(古芸術)」と呼び、14世紀の音楽を「アルス・ノヴァ(新芸術)」と命名したフィリップ・ド・ヴィトリ(1291-1361年)も、これらのモテットを軽視していたわけではありません。ただ、新しい記譜法への迅速な移行が当時の音楽界で必要不可欠だったのでしょう。

(余談ですが、ウォルター・マップの唯一現存する作品であるDe Nugis Curialium(廷臣の些細なこと)は、宮廷のゴシップと少しの実史を含む逸話とトリビアのコレクションであり、風刺的な調子で書かれているそうです。テンプル騎士団やイギリスの吸血鬼の最も初期の物語、アーサー王伝説について書かれているらしく、なんだか面白そうです。機会があったら是非読みたいと思っています。)

次回は「ゴシック化されていく大聖堂」について解説します。

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