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西洋音楽の物語:第1話『ゴシックのモテット』VI Quant voi remirant / Virgo virginum / Haec dies

 ロベルトは机に新しいメモ用の羊皮紙を広げ、さっそく、おぼえたてのモテットの歌詞を書いて見せた。

Quant voi remirant
D’este la saison,
Quant le bois font retentir 
Touz cil jolif oiselons,
Adonc plour et soupir
Pour le grant desir
C’ai de la belle Marion,
Qui mon cuer a en sa prison.

(上声部)
夏の季節だと
気づいた時、
すべての美しい鳥が
木を鳴らす時、
私は泣き、ため息をつく
素敵なマリオンに対する
深い欲望のために
私の心は牢獄に捕らえられている。

Virgo virginum,
Lumen luminum,
Restauratrix hominum,
Que portasti,Dominum;
Per te, Maria,
Detur Venia:
Angelo nunciante Virgo es Past et ante.

(中声部)
乙女の中の乙女、
光の中の光、
復活した人、
主を産みし者、
マリアによって
赦されますように
大天使に受胎告知された時
貴方は乙女でしたが、
(お産みになった)後も乙女のままでした

HAEC DIES
(下声部)
その日

「この3種類の歌詞を一度に歌うのか?このフランス語の部分も?」

いぶかし気にニコが言った。

「聞き取れねぇだろ。」

「フランス庶民はフランス語部分しか聞き取れない。そして、外国人の聖職者はラテン語しか聞き取れない。両方の言葉がわかるものにしか聞き取れないが、聞き取れたとしても解釈しないと意味が解らない。」

ロベルトの説明に、しばらく考えてニコがボソッとつぶやいた。

「暗号文みたいなものだってのか?」

「そう思うだろう?解る人にしか解らない。だから隠す必要はない。どんなに俗謡として世間で歌われようとも、この歌の意味は解釈者を必要とする。曲のほうが聞く人間を選ぶんだ。大っぴらに拡散できて、しかも情報を得るべき者には簡単に伝わる。」

「じゃあ、この歌を解釈していけば、レシピがわかるとお前は考えているんだな。」

「可能性はあるだろ?」

「…読んでみてくれよ。」

ロベルトは一通り歌詞を読み上げた。

「それぞれに何の共通性もないぞ。」

ニコは眉間のしわを深くした。

「まあ、ひとつづつ順番に見てみよう。まずは『この日』だ。」

「何の日だよ?」

「これはグレゴリオ聖歌の一部分が使われている。だけど、今は正体がわからないから、これを注釈しているはずのラテン語の歌詞を見てみる。そうすると、『復活した人』という歌詞が出てくるから、『その日』は復活祭の日のことかもしれない。あるいは『大天使が告げたとき』とあるから、受胎告知の日のことかもしれない。だけど、フランス語の歌詞を見ると、『夏の季節』とあるから被昇天の祝日かもしれない。」

「全然はっきりしないじゃねぇか!」

「‥‥そうだね。ごめん。今の時点ではとても解釈なんて無理そうだ。」
ロベルトが、がっかりするとニコが真剣に言った。

「さっきの手稿メモに書かれた白っぽい透明の石のレシピを解釈できたのは、レシピとしての記述と、その注釈としての詩と、俺のガラス職人としての経験の三つがそろったからこそだ。それに比べて、このモテットだけ見ても雲をつかむのと変わらねえ。なにしろ、簡単にはわからないように作られてんだからな。だが、方向性としては間違っちゃいないだろうよ。」

「どうしてそう言えるんだ?」

ため息をつきながらロベルトが聞くと、ニコはきっぱりと答えた。

「勘」

「え~。」

「とりあえず、この歌のこと色々調べておいてくれよ。俺のほうもちょっと行くところができた。何かわかったら報告してくれ。」

ニコは何か思いついたらしく、するりといなくなってしまった。

こういうところは猫みたいなんだよな、とロベルトは思った。気まぐれでしなやかで、言いたいことだけ言って、すぐいなくなる、栗色の巻毛の少年…

「いや、同い歳だったな。」

小柄で童顔だから子供のように見える。ニコは昔から全然変わってない。思わず笑ってしまいそうになるのを噛み殺しながら、ロベルトは写字室に戻った。

***
 
 工房に戻るとニコはガラス作りには加わらず、あちこちで道具を整備するふりをしながら、ずっと聞き耳を立てていた。今日は業者が素材を搬入してくる日だった。次々に届けられる商品を取り囲んで、職人たちは珍しい素材を物色している。

「すごいな、こんな泥、どこで手に入れたんだ?」

ベテランの修道士が尋ねると、普段から工房に出入りしている商人が答えた。

「知り合いの旅商人がなかなかの目利きでして。次々新しい掘り出し物を仕入れてくるんですよ。ちょっと割高なんですがね。この泥はなんでもエジプト産だとか言ってましたかね。」

「それは貴重なものだな。高価なのは仕方ない。またよろしく頼む。」

ニコは顔が見られないようにしゃがんで作業を続けていたが、商人が出ていくと職人の修道僧に聞いた。

「旅商人に直接来てもらえば仲介料が浮くのに。」

「身元のはっきりしない者を工房に入れるわけにはいかないだろう?安全には変えられないよ。」

「なるほど。そりゃそうですね。」

ニコはそう言って、珍しいといわれる泥を見てみた。いろいろな鉱物や植物が混じっているらしく、不思議な色をしている。どんな効果が出るのか、想像もつかないのが悔しい。これを見てすぐに価値が分かった修道僧はおそらく「わかってるヤツ」の一人だろうが、直接それを尋ねるのは躊躇われた。何しろ手の込んだ隠し方をして秘密を守っているのだから、それを暴いて無事でいられなかったら面白くない。しかしやはり、胡散臭い商人が関わっていることはわかった。この泥の秘密を知ってる商人を秘密裏に探り出さねばならない。そいつは錬金術師であるという可能性もある。

「錬金術のことは錬金術師に聞けばいい。」

そう考えて、ニコは泥を売った商人の後をこっそりと付けた。

商人は修道院の出入り口のところで入ってくる別の商人とすれ違い、あいさつを交わした。

「よお、ジャックじゃないか。久しぶり。」

「ああ、そうだな。」

「この頃えらく羽振りがいいらしいじゃないか。」

「まあ…な。」

「なあ、ところであんた、やり手の旅商人と知り合いになったって噂じゃないか。今度どこかで一杯やらないか。面白い話を聞かせてくれよ。」

「わかったよ・・・」

「よし決まりだ。うまい鳥を食わせてやる。最近いい店ができたんだ。行こうぜ。」

「じゃあ、次の金曜日なら。」

「わかった。パリの大聖堂の市場から横にはいって・・・・」

待ち合わせの日時と場所をきくと、ニコは工房に戻って何食わぬ顔でいつものように、皆の作業に加わった。

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