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いつかプラダの靴が履きたい
ひさしぶりに母とお茶をした帰り道、家の近くの繁華街はいつも通りやかましくて、週末の浮かれた人たちであふれていた。
ワイヤレスのイヤホンからは、さっき母と過ごしたカフェで流れていたのと同じアーティストの曲が流れていた。キラキラとした可愛らしいイントロの後、のびやかな男性の声が朗らかに歌い上げていた。”それは金色に輝く時間だ”って。
音楽とイヤホンのノイズキャンセリングの機能のせいか、夜の気配のせいか、そもそも体調がずっと思わしくなくぼんやりとしているからか、すぐそこにある喧騒はどこかわたしには遠くて、明るくきらめくような音楽と暗くなった空だけを感じていた。12月になったはずなのに暖かい日で、風もなく、随分と穏やかな夜だった。
その時ふっと思った。
わたし、いつかプラダの靴が履きたい。
黒く艶やかなレザーに、三角形の見ればすぐにそれとわかるロゴのついた靴を履いて、軽やかな足取りで駆けてみたい。
それまでそんなこと、思ったことは一度もなかった。
プラダと言えば、わたしにとっては映画『プラダを着た悪魔』のイメージが一番強い。
ファッションを愛し、ファッションに愛された、高い美意識を持っている、自分とはまるで違う世界に住む人が身に着けるもの。
誰に言われるわけでもないのに、一生持つことはないような気がしていた。
他のハイブランドのものに対しても気おくれしたものはあるけれど、特に自分とはなぜか縁遠いような気がしていた。
それがなぜか、その数時間前にわたしはプラダの靴の画像を検索していた。
どういう流れだったのかはあまり覚えていない。ただそろそろ靴を探しに行きたいと思って、複数のブランドを検索していた。
プラダのそれは、有名なローファーのタイプではなかった。
サイドゴアのショートブーツで、正面にちょこんとブランドの三角形のロゴがついていた。
ただ、ひたすらに、きれいだと思った。
画像を見ただけなのに、レザーの艶やかさと、描かれた曲線の美しさが伝わってくるみたいだった。目の前にあるわけじゃないし、履いたわけじゃない。それなのに、写真を見ていると不思議と心の中が温かく潤むような、それでいて焦がれているような気持ちになった。恋に落ちた時の焦燥とはまた違った、もっと柔らかで、内側から何かが湧き出ているようだった。
もしかしたらわたしは、その時になってはじめて自分を許したのかもしれない。
美しい、自分にとってはとても高価な、身の丈に合わないと思われるかもしれないものに、ずっと遠くのものに手を伸ばしてもいいのだと。
誰にとっても意味がなくても、役に立たなくても、労力や金銭がかかることだとしても、やってみたいならやってみればいいって。
まわりの誰でもない、わたしにNGを出し続けていたのは自分だった。
小さい頃からわたしの好きなものは変わっていない。母が用意してくれたきれいな色の風呂敷やシフォンの布を体に巻き付けて、おもちゃのティアラをかぶって、『お姫様みたい!わたしきれいでしょ!』と、くるくる身を翻していた頃のわたしは今もちゃんと心の中にいる。驚くほどに、実は何にも変わらないのだった。
自分が欲しいもののために、やりたいことのために、それに合わせて生活や自分を変えるのか。自分の今の生活のために、欲しいものを身の丈にあったものの中からえらぶのか。
どちらも必要なことで、どちらも正解なんだと思う。
でもわたしはきっと、まだ全然足掻けていない。欲しいもののために、やりたいことのために、やれることをやったのか?と聞かれると、それはノーだ。全然、まだ何にもできていない。
そういう自分をなんだか情けないなとは思うけれど、でも今気づけたのはよかったのかもしれない。そう思ってここから頑張りたい。
元々どうしてもできることの中で、自分がやれそうなことの範囲の中で物事を選ぶ癖がついている。それはきっと数十年過ごす中で、自分を守って、生かすために身に着けた技術や方法なのだと思う。だけどそれだけでは、わたしはあまり幸せになれなかった。
欲しいものは欲しいと言える素直さも、それに向けて行動できる勇気も、わたしにはなかった。なかったけれど、今からそれを持ちたいと思う。
先立つものは特に何にもないのだけれど、今は不思議だ。なんの根拠もなく、きっとできると、自分に言ってあげることができる。
キラキラと光るような、不思議な夜だ。
わたしは自分を今やっと許して、抱きしめてあげられている気がした。