亡霊として生きていく
なんとなく、生きている実感が薄いほうだと思う。
美味しいとか、楽しいとか、嬉しいとかいった、プラスの気持ちを感じるし、ドロドロの嫉妬もすれば、腹立たしいことはずっと覚えていたりする。人並み以上に感情的になるし、それをちゃんと、なんなら結構執念深く覚えている。だけどなぜだろう、わたしはそれを自分のものだと実感して、ずっと持ち続けることが、どうしても上手くできない。瞬間的に強い感情を抱いたとしても、それ感じた後にすぐに変わってしまったりする。もしくは誰かや何か、さらには自分との間にですら、透明な壁や膜や隔たりがあるように感じている。
曖昧で、ぼんやりとして、薄っぺらくて、軽薄。一貫性も堪え性もない。
わたしが自分自身に対して抱く印象はそんなものだ。
まわりから見ると全然違うよ、と言ってもらったりする。確かに、途方もなく頑固で、強情で、くそ真面目で、笑ってしまうほどに不器用なところがあるとは思う。それは曖昧とは反対の性質だ。
それでもなんだか、わたしはわたしのことを、わたしが今こうやって感じて考えていることを、どうしてだかはっきりとした実感を持って捉えて、維持し続けることができない。
何かを決断したとしても、いつも『本当に?』と疑ってしまうし、揺れて、不安になる自分が心の内にいる。この感覚はいったい何なのだろう。
ずっとそう思って、いろいろ変えようとしてみたものの、今もそれはなくならないままだ。
ずっと不安で、ずっと寂しくて、ずっと怖くて、ずっとからっぽ。
淡いひんやりとした感覚がまとわりついていて、忘れられる瞬間があったとしても、そのうち戻ってきてしまう。
それをごまかすために、恋をして、おしゃれをして、旅行をして、仕事をして、お酒を飲んで騒いで、随分いろんなことをしたけれど、それが消え去ることはなかった。結局こうして向き合う羽目になっているのだった。
今回はじめて参加した、自問自答ファッション教室に参加して、コンセプトに『亡霊』と入れたのも、そういう感覚があったからだった。
自問自答ファッション教室とは、ファッションスタイリストのあきやあさみさんが主宰して行っている一風変わったファッションについての教室だ。
あきやさんは書籍の出版やそれにともなった講演会を行っていて、今まで著書を読んだり、講演会にオンラインで参加したりしたものの、実際に教室に参加したのはこれがはじめてだった。
あきやさんの自問自答ファッション教室のご案内
教室では『コンセプト』という、自分がどんな装いをしていくか言語化したテーマを作る。そしてそれを指針にして今後、服や靴やアクセサリー、メイクや髪型、さらにはマスクやエコバックなんかもそれを中心に決めていくとしている。ただし、どこまでそのコンセプトに合わせるか、どんな方法でどう自分と向き合っていくかはその参加者による。かなり自由な活動方法が提案されていて、でもどこまでも貪欲に、深く追求することが出来る。
今回、わたしがあきやさんと一緒に決めたコンセプトには『亡霊』という言葉を入れた。その言葉は教室に参加する前から候補に入れていて、あきやさんに提出した事前アンケートでもその言葉を入れようかと思っていると伝えていた。コンセプトには人間以外の妖精や天使などの言葉を入れる方もいると聞いていたのでそれもありかと思っていたのだけれど、アンケートの段階から人間以外を希望するのは珍しかったようだった。
この言葉を選んだのは、つい先日発表された、VALENTINOの2025年の春夏コレクションを見たことがきっかけだった。アレッサンドロ・ミケーレがクリエイティブ・ディレクターに就任してはじめてのこのコレクションは、わたしの心を掴み、激しく動揺させて、眠っていた気持ちを揺り起こした。われた鏡の上をゆったりと歩く亡霊のような彼らの姿にわたしは自分を重ねて、こうやって生きていけばいいのかと、そう思ったのだった。
いつ割れて底が抜けてしまうかもわからない不安定な硝子の上を、悠然と、粛々と、この世のものとは思えない美しいモデルたちが歩いていく。何かを達成したり、成し遂げたり、果たしたりするわけではなく、ただ歩いていく。
洗練され、完成された美しさとは異なる、歪みや欠けをともなったものの強い光。年代も性別も民族性も飛び越えて、新しく紡がれていく哲学。アレッサンドロ・ミケーレの描く、優しくて、豊かで、成熟した世界を、わたしはとても好きになった。自分もこうありたいと、不思議なくらいに強く思った。
VALENTINO 2025年 春夏コレクション
あまりにも気持ちが強すぎて、感想を書き連ね、うまれて初めて小さな同人誌のような、ZINEのようなものを作った。豆本というのだろうか、コピー用紙の裏表に自分の思いの丈をぶつけて印刷し、小さく折って、オーロラのように光る袋に入れて、あきやさんにこっそりお渡しさせてもらった。
あまりにも内容が私的なものだったので公開はできないけれど、わたしは誰かに自分の気持ちを形にしたものを見て欲しかった。そして、きっと、それでいいよ、と言って欲しかったのだと思う。自分が作ったものを受け取って、共有して、肯定してくれる人がいること、そしてそれが自分の憧れの人であることが嬉しくてしょうがなかった。
自分はどこかで、他の人よりも劣っているようにいつも感じていた。
同世代の友人たちや同僚たちが当たり前のようにできていることが、わたしにはうまくできなかった。どこかでいつも、自分が出来損ないのように感じていた。『亡霊』や『幽霊』や『おばけ』のように、異質なものだと。
でも、教室の中で、自分が『亡霊』だとはっきりと言葉にして決めてしまうと、不思議と気持ちは楽になった。
わたしは『亡霊』だから。
『亡霊』だから、親の願っていたような、清楚で賢く勤勉な娘でいる必要はない。
『亡霊』だから、男性たちの望むような、優しく従順で、彼らの望む範囲の色香を纏っている女でいる必要はない。
『亡霊』だから、会社が都合よく、使い勝手よく消費する手ごまでいる必要はない。
別に誰にそう表明したわけじゃない。状況や生活が大きく変わったわけじゃない。ただ、心の内でそう思うだけで、少し気が楽になった。
傍から見れば随分と好き勝手に暮らしていて、こんなことを考えているとまわりはきっと思っていないだろう。それでもそういった柵はずっと消えなくて、よい人間でありたいと、素敵な女の人になりたいと、そうじゃなきゃいけないんじゃないかと思い込んでいた。そうした強く小さな執着のかけらが、心の内に残っていた。
そのすべてが消えたかはわからない。ただ、自分は『亡霊』だと言葉にして決めたあのとき、それは不思議なくらいにすっと溶けた。
自分が『亡霊』だと決めてから、わたしは少し変わったのかもしれない。
いつも通り仕事をして、ごはんを食べて、部屋や自分の体を整えて、眠る毎日。元通りなのに、違和感がある。わたしは『亡霊』のはずなのに、ここでこんなことをしているなんて、変じゃないかと思ってしまうのだ。苛立ちや焦燥のようなものですら、ときどき湧き上がってくる。
なんでわたしは『亡霊』なのに、こんなカジュアルなものを着ているの?
『亡霊』なのだから、もっと空虚で、生気の淡い、消えてしまいそうな儚いものを身に着けるべきなんじゃないの?
食べるものは?身のこなしは?言葉遣いは?髪型やメイクは?これで本当にいい?
もしかしたらこれは、『亡霊』としての自我の芽生えなのかもしれない。
まさかそんな風に思う日がくるなんて、思ってもみなかった。人生は未知数だ。
やりたいこと、変えたいことがなんだか沢山出てきてしまった。
でも、まず最初にることはきっと、『亡霊』として暮らしていくための、自分にぴったりな靴を探すことだ。
この不確かな、割れた硝子のような世界を悠々と歩いて、いつか素敵な場所にわたしを連れて行ってくれる。そんな大切な相棒を、探しに行かなくてはならない。
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