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花の香りは過去の幻か未来の夢か
仕事を辞めます、という宣言を上司にした。
ずっともう今の仕事を辞めたいなと思いつつ、体調が悪いことを理由にずるずると続けていた。生温い地獄にずっと浸かり続けているようなものだった。それでも流石に、職場でのポジションと上司からのわたしの扱いと評価とお給料と、何よりもわたし自身の仕事への気持ちの在り方が、まぁかなり酷いバランスになり、有り体に言うと仕事を続けるのが無理になったのだった。
前向きな気持ちと姿勢で、というかせめてもうちょっと将来の見通しが経ってから転職したいなって思ってたけれど、このまま黙っていると仕事が延々と降ってくる気配がしたので、もう区切りをつけようと思った。
数日前から考えていて、胃が痛いし、眠れないし、なんだか体が強張って腰も痛かった。これは緊張してるな…とどこか人ごとのように思っていたけれど。口にしてしまえば呆気ないものだった。
とはいえ、転職先も決まっていないし、具体的にはなんの方向性も決まっていないので、仕事が変わるのは半年以上先になるはずだ。(わたしがブチ切れてしまわないかが問題だけど)
それでも多分、変わると決めたのはわたしにとって大きな一歩だ。仲のいい同僚たちとは辞めるのに向けて、いい感じに引き継ぎをするために、仕事の負担を減らすためにどう動こうかも話ができた。優しい人たちが多く、特にいつも一緒に仕事を回している人たちのことは信じている。
急に、辞めると決めたぞ、と宣言したのに、わたしの体調や気持ちを心配して、仕事は任せろと言ってくれた。仕事の引き継ぎの提案も真摯に聞いてくれて、自分はこれをやるよ、とそれぞれ申し出てくれた。優しい、穏やかな人たち。この人たちとだから、不器用でポンコツなわたしでもここで長い間働くことができたのだと思う。前職の、新卒で今とは全く違う業界で働いていたときには全然役に立たず、働くことへの自信を完全に失うというか、なんにも持っていなかったわたしが、自分の意見と意思を持って仕事を続けてこれたのは彼らのお陰だと思う。こんなに優しい人たちと離れると思うと、ちょっとどころかとんでもなく寂しい。でもそう思える人たちと働けていることはすごく幸せで、ラッキーなことだと思う。
これからのことを考えるとまだ胃が痛いし、すごく怖い。だけどちょっとすっきりしたというか、ホッとしている。自由になってもいいんだ、ということを自分が感じているのがわかる。自分のことなのに、そんなこともわからないんだからおかしなものだけれど、それを押し込めて頑張ってきたんだな、と思うとちょっと馬鹿みたいだし、なんだか申し訳なくなった、自分自身に対して。我慢させてごめんね、とボロボロの体と心にそっと謝った。
ただ、これからの生活をなんとかするためには、気合も必要ではある。ちょっと勢いをつけようと思い、香水を買うために新宿の伊勢丹に向かった。本当は必要なのは靴なのだけれど、自分で納得する靴が買えるのはまだな気がするし、元々ずっと欲しいな、つけたいな、と思っていた香水があったのだ。ほとんど買うことを心の内で決めたまま、BYREDOのカウンターを訪ねた。
年末のせいか、フロア内には人がいっぱいいた。海外からのお客さまも多いようで、日本語でも英語でもない可愛らしい響きの言葉がさまざまに聞こえてきた。何語なのかも、何を話しているのかもさっぱりわからなかった。BYREDOのカウンターにもすでに別のお客さまがいて、香りを試していた。
すぐに目当てのものを購入して帰ろうかと思ったけれど、まだ試していない香りも沢山あったので、今回担当してくれた方のおすすめを聞くことにした。そのうえでやっぱり欲しいと思ったら、決めていた香水を買おうと思ったのだ。
到着してすぐに、カウンターでたまたま声をかけてくれたスタッフに『反骨心』・『ロマンティスト』・『アーティスティック』というイメージのものをさがしていること、そして香りに酔いやすいことを伝えた。その人は少し迷いながら3つの提案をしてくれた。モノトーンで形作られた洗練されたボトルから立ち上る、甘い香りを感じるのは楽しかった。
BYREDOは『記憶や感情を製品や体験に置き換える』ということを目指しているそうだ。地名が入っている製品もあって、シンプルなそぎ落とされた外見と裏腹に、香りやそこに込められているものは随分と複雑で、泥臭さとロマンティックさが合わさっているような印象を受けた。とてもすきだったし、わたしもそうやって、自分の中にある気持ちや感覚、過ぎ去った出来事、忘れられないこと、忘れてしまいそうなこと、いろんなものを言葉のうちに閉じ込めておきたいと思っている。今、この言葉を書いているみたいに。ブランドの姿勢としても、自分の目指すものが似ているような気がして、身につけたいと思っていた。
今回提案してもらったのは3つだったが、そのうちの1つを嗅いですぐ、体が反応するものがあった。「すきです」と口からも自然と零れ落ちていた。嗅いでいて、光のようなものを感じた。優しい香りだと思った、嗅いでいるのが心地よいのだ。ここ数年で随分と香水に酔いやすくなってしまい、つけれれるものが限られているのだけれど、これは全然平気だった。
香水のイメージも、確かにわたしが求めるものではあった。うん、すきだし、なりたいかも…そんな風に。そう思いながら、先に決めていた香水との差があまりにもはっきりしていて、それでもどちらも選べず、ムエットだけもらって帰ってきてしまった。全然決められなくて、困ってしまったのだ。
たぶん、元々買おうと思っていた香水は、わたしが少し前になりたいと強く願っていたものなんだと思う。欲しいと最初に思ったのは夏で、それから買わずに数か月たってしまった。迷って悩んでいる間に、もしかしたらわたしの気持ちや体が結構変わってしまったのかもしれない。
好きな香りだし、美しいと思う。こんな風になりたいというか、そう、なりたかったのだ。だけれど同時に、そんな風にはなれないのも知っていた。だから買えずにここまで来てしまったのかもしれなかった。弔いをするような、それになりたいと思った自分を慰めるような気持ちで、買って数か月でも1年でも使うことで、自分の中のわだかまりを消化しようとも思っていた。そう決めていたのに。
今日あたらしく出逢った香りは、今のわたしによく馴染んで違和感がなかった。つけるとなんだか優しい気持ちになった。光を見たような気持ちがした。香りは不思議だ。
わたしはもしかしたら、自己憐憫に浸りたかったのかもしれない。新しい自分になっていくのを選ぶより、傷ついて苦しんでいた自分をまだ慰めていたかったのかもしれない。だけど同時に、それをもう選ばずに、先に進もうよといっている自分もいるのだと思う。
まだ、どちらの香水にするかは決められていない。
もしかしたら、また別の香水を選ぶかもしれない。優柔不断だな、と思うけれど、だれに強制されているわけでもない。自分が納得いくように、自分の香りを選ぼうと思う。なんでもきっと納得するには、自分で選ぶしかない。わたしは頑固なのだ。あきれてしまうことも多いけれど、もういい加減、そういう自分を許してあげたいとも思う。
過去も未来も、そして今も。全部全部、わたしであることには違いない。どれも大事で、どれもちゃんとあるはずだ。
1つずつ決めて、進めていきたい。ゆっくりでもいいから。