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低空飛行で暮らす

 冬生まれの癖に、寒い時期が苦手だ。暖かなウールの靴下を3枚重ねて履いたり、ホットコーヒーを飲んだり、サプリメントを取ったりしながら、騙し騙し暮らしている。今年に入ってからが特にしんどく感じて、思うように動けずにいる。じりじりとした焦燥感はあるのに、やらなきゃと思うのに、思うようには行動できない。ぼんやりした頭を抱えながら、なんとか仕事とピラティスにだけは行っている。それでとりあえずよしとしている。

 だけどこのまま、なんとなく、一年を終わりにするのは嫌だった。だから日々、小さなことを少しずつでもやるようにしている。

 日記を書きはじめたり、可愛いと思っていたドーナツのガチャガチャのおもちゃを手に入れたり、行きたかったアイスクリーム屋さんに行ってそこのポスターを部屋に貼ったり、友だちに付き合ってもらって憧れのパティスリーのデザートを食べたりした。大好きな作家さんのエッセイに出てきた本屋さんで本を選んだり、憧れているブランドのリップを買ったり、SNSで見かけていつか行きたいと思っていたコーヒー屋さんに行ったりもした。

 どれもすぐにできるのに、なんとなく、ずっと後回しにしていたことだった。ちょっとお金と手間がかかるし、家計に打撃はある。そして本当は、こんな小さなことではなく、ガラッと自分とこの生活を変えてしまいたい、と思っているところがある。でも、コロナ禍で心身を壊し、ここ数年で戻しているときに思い知ったのだ。変化は多分、少しずつしか起こせない。

 もしかしたら本当に大きく変わることはあるのかも知れないけど、わたしが今、自分で積み上げられるのはきっとほんの少しずつだし、その方が確実だ。そしてきっと、それはきっと自分に優しい。すぐに変わらないのか、と思って絶望したこともあったけれど、今は数年かければ変わるかもしれない、と思うと気が楽だったりする。数年かければ変われるかもしれない、と思うと希望が持てるようになった。今は好きなものばかりじゃなくても、いつか、わたしの暮らすこの状況を変えられるのかもしれないと思うと、気が楽になるのだ。

 ここ最近で一番行ってよかったのは、ガラス細工のワークショップだった。子供の頃に通っていた近所の絵画教室がすきだったし、高校の頃は美術部に入っていた。絵が上手な訳じゃない、わたしよりも上手くて、絵がとてつもなく好きな子はたくさんいた。何かを作ることに対するあの、とてつもないエネルギーを、わたしは持っていないと思った。だから、なんとなく、自分のそういう欲は心の奥底にしまっていた。

 それでも少し前に、美大などで社会人向けのワークショップもやっていることを教えてもらった。調べてみると時期が悪いのか、すぐ申し込めるものはなかった。気長に探すか、と思っていたら、ふとInstagramでフォローしていたガラス工芸の作家さんがワークショップをやるという告知がでていたのだ。元々彼女が趣味でアクセサリーを販売していたときにファンになり、最近はガラス製品を作っていることは知っていた。タイミングが合わずに個展になかなか足を運べていなかったのだけど、ひさしぶりの彼女の作品に触れる機会、そして自分が何かを作る機会が巡ってきていた。それなのになぜか迷っている自分がいた。そんなに高くないし、ラッキーなことに予定も空いていた。なぜか数日、わたしは迷った。ガラス細工を作ってもいらなくなるかもとか、悩んでいた香水のディスカバリーを買ったほうがいいんじゃないかとか、誰に何か新しいことを習うのが不安だなとか、言い訳はたくさんあった。だけどわたしはもうそこで行きたくない理由を考えるのをやめて、申し込み用フォームに勢いまま必要事項を入力し、真っ白の頭のまま、そこに行くことを決めたのだった。

 当日はよく晴れて、気持ちのいい、お出かけ日和の日だった。途中でいつものようにコンビニの小さなコーヒーを買ってそこへ向かった。大人になっていろんな人と会うようになってから、出かけることに緊張はしなくなっていたけれど、何かを作る、自分にできるかな、というのでほんの少しどきどきしていた。慣れたコーヒーの香りを嗅ぐと少し落ち着いた気がした。

 ネットの案内にしたがってそこにつくと、小さなお店のような、洒落た事務所のようなガラス張りのドアの向こうに、お花がたくさん置かれているのが見えた。チューリップ、ミモザ、スイートピー、アネモネ、お花の世界はファッションと同じで先取りなので、今は春のお花が出回っている。わたしが一番すきな季節のお花たちが、柔らかな色合いで揃っていた。その日はガラスのワークショップと並行して行われていたフラワーアレンジメントのワークショップも行われるそうで、花の精霊のように、柔らかなグリーンのワンピースを身につけたアーティストの方がゆったりと微笑んでいた。

 奥にはわたしの好きな作家さんが、可愛いイラストの描かれたTシャツにエプロン姿でいて、学生のころと変わらない笑顔で迎えてくれた。そうか、今日はものを作るんだった、と気を抜いていつも通りの格好できてしまったけれど、わたしがここのところ着ているのはコットン製のニットとデニムだったのでなんの問題もなかった。洗える服は安心だ、少なくともわたしにとっては。


 他の参加者も集まって、少し早い時間にワークショップははじまった。ガラスのオブジェを作ると聞いていたけれど、どんなふうに作るんだろう?とにかく勢いで申し込んだので、そのへんも曖昧なまま参加したのだけれど、今回は粘土で原型を作ってそれを石膏で型取りし、窯でガラスを溶かして焼き上げるやり方らしい。わたしたち参加者がやるのは石膏で型を作るところと、何色のガラスにするかというところだった。

 ひさしぶりに手にする粘土は、懐かしい油粘土だった。小学校ぶりに出会ったそれは、冬の寒さでかちこちになっていたけれど、だんだんとこねていと柔らかく、形を変えていった。

 参加者の人たちはわたしよりも歳下の、可愛らしい人たちばかりで、時々会話をしつつも、みんな黙々と粘土をこねていた。不思議な時間だった。あっという間に時間は溶けて、過ぎていった。

 複数のもの、複雑なものを作る他の参加者さんたちをよそに、わたしはシンプルな形の粘土をひたすらに撫で、微調整をして修正していった。すでにイメージは固まっていたので、それに近づけられるように、丁寧に丁寧に、少しずつ作りたい形にしていくだけだった。

 不思議だった。わたしは精神科でリハビリの仕事をしていて、そこではたまに陶芸が使われることがある。だから何度か勉強のために作品を作ったことがあるのだけど、とてつもなく下手くそなのだ。思うように作れたことはなく、やり方を何度聞いても忘れてしまった。結局陶芸のプログラムを担当することはなかったので、今までなんとかなっていた。だから、わたしは粘土で何かを作るのは不得手なほうだと思っていた。それなのに今回、粘土をこねていると、不思議なくらいに落ち着いていった。粘土に触れていればいるほど、満ち足りた、柔らかな、瑞々しい気持ちが胸の内を満たしていた。ただただ、わたしはそこにいて幸せだった。

ずっと憧れている作家の先生、春の花々に囲まれた精霊のようなアーティストの女性、可愛らしい年下のキラキラした女の子たち、そうした人たちとただ穏やかにそれぞれの作品を作る時間は、とても豊かで、静かで、柔らかく、ひとつだった。

 手から感じるひんやりとした冷たい粘土の感触。徐々に作りたい形に近づいていく嬉しさ。とはいえはじめてのことで上手く形にできないもどかしさ。その作品を作ろうと思ったきっかけになった物語のエピソード。いろんな気持ちを反芻して、ただ、黙々と手を動かすと、わたしはここ数年味わったことにない、優しい、暖かな、潤むような気持ちが胸のうちから湧き出るのを感じていた。ここにきてよかったと、そう感じていた。

 それぞれに作品の型は無事完成した。作品自体が出来るのは来月以降になので、先生が焼き上げて送ってくれるらしい。わたしは帰り際に、その作家さんの作品を一つ購入した。水たまりをイメージしたというそれは、つるりとした水面のような面とざらざらとした氷のような面のリバーシブルになっていて、淡いブルーにほんのりと黄緑が混ざっているプレートだった。わたしは雨が苦手なのだけれど、作家の彼女から見ると、こんなふうにきれいなのかと思うと不思議だったし、とても羨ましかった。

 自分の考えていることや感じていることを、何かの作品にすること。わたしはずっとそれは、自分にはできないと、分不相応だと思っていた。せめて言葉ならできるだろうかと、最近はこうして文章を書いている。比較的扱いやすい言葉だって、わたしは書くとヘトヘトになったりするし、書く前は気合いがいるし、人前に出す時は怖くて恥ずかしい。それでも変だけど、やりたい、と思ってしまう。これからもしかしたら、文章以外でも何か、作ることができるだろうか、そう思うとなんだか、わくわくしている自分がいた。

 そもそも他にもやることはたくさんあるし、やったほうがいいことは別にある。だけど、新しく楽しいことが見つかって、嬉しいことは確かだった。わくわくして、先が楽しみだと思えることが、とにかくいいことだと思った。先はよくわからない。

 相変わらず冬は苦手で、思うようにたくさんの予定はこなせていない。読めていない本、目を通せていない情報、まだ決めきれていないこと、積み上げられていることが、いっぱいある。だけど少しずつ、少しずつでいいから、新しいことを試して、変わっていく努力をしようと思う。低空飛行でいい、少しずつ、少しずつでいいから変わろうと。

 帰りに寄ったカフェで、甘い紅茶とサーモンのサンドイッチを頬張りながら、ただ幸せな気持ちで、ぼんやりとそんなことを考えていた。

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