真っ赤なまつ毛と嫉妬の話
その日、今月はもうお給料日まで何も買わない!という誓いを破って、仕事をさっさと上がったわたしはひさしぶりに職場から少し離れたファッションビルにきていた。数日前から少し気候が秋めいてきて、髪色も変えて、メイクも秋仕様にしたくなってはいた。それでも自分の中でコンセプトが安定するまでは、もうすでに持っているコスメでなんとか乗り切ろうと決めていた。毎日のメイクに大きなときめきはないものの、そこそこの仕上がりで生活できるとそう思っていた。
それなのに、わたしはおろしたばかりの現金が入ったお財布を握りしめながら、ひさしぶりに訪れたコスメカウンターでキラキラの化粧品を手に取るのをやめられなかった。少し前にあった古い友人たちとの食事会が原因だった。
若いころの仲間内の揉めごとなんて、恋愛でも友情でもなんでも、みんなあると思う。ご多分に漏れず、わたしにもそれはあった。ずいぶん前に揉めて疎遠になってしまった相手に、ひさしぶりに会わなければいけない状態になってしまったのだった。
それでもわたしはその子とあまり関わるつもりはなかった。挨拶なんかは避けられないだろうから、軽く話して、あとは好きな子たちと楽しく過ごせばいい。そこそこの人数が集まるはずだったので、気を抜いていた。ひさしぶりに会える相手ばかりだったので、楽しい気持ちをシェアできたらそれでいいや、とのんきなお店に向かったのだった。
お気に入りのシャツ、履き慣れてきたリーバイスのデニム、つけっぱなしのリングとピアス、いつも通りの格好でのんびりとそこにいった。気楽に、ゆったりとした、その子たちと過ごしていた頃となんら変わらない気持ちでいっぱいだった。
ひさしぶりに会えた友人たちは少し大人びていたものの、中身は変わることがなかった。随分と会っていなかったけれど、話せば一緒にいた頃に戻る。美味しいものをたくさん食べて、飲んで、その空気を味わって帰ろうと思っていた。それが崩れたのはお会計の時だった。
思いの外近くに座った、その子が身につけているものが、わたしの好きな、いつか買いたいと思っているブランドの物ばかりなのに気がついた。財布、アクセサリー、靴、そしてバッグ。
わたしが近々店舗に行って、試着をして、もしかしたら将来買えたらいいなと思っているものばかりだった。中でもバッグは憧れのブランドの、欲しいと思っている型のものだった。
それは今のわたしにはすんなりとは買えない金額のものだった。そして本来、わたしやその子の仕事のお給料ではそんなに沢山買えない金額のものばかりだった。彼女にはこの数年の間に、パートナーができていた。わたしの欲しいものをみんな持っている彼女を見て、多分、わたしはとても惨めだったのだと思う。
自分の欲しいものを持っている相手に出会った時、それが特に嫌いな、憎い相手だった時、嫉妬に囚われてしまったりする。
その子になりたいわけじゃないけど、お腹の底からどす黒い、ドロドロしたものが湧き出てくるのがわかった。
心の奥底で醜い自分が、どうしてと叫ぶように言っているのを感じた。あのバッグを持ってあそこで朗らかに笑っているのは、どうしてわたしじゃないのだろうと。
むしゃくしゃして、やるせない気持ちで過ごしてしばらく経った。プリンやスコーンを真夜中に食べるという、ダイエット中にあるまじき行為をしたりもした。それでも全然、わたしの気持ちは晴れなくて、気づいたらコスメカウンターの前にいたのだった。
可愛いオレンジ色のリップをつけたお姉さんが声をかけてくれて、丁寧にタッチアップをしてくれた。大切なものを扱うみたいに、よれたメイクをゆっくりと優しく落としてくれた。キラキラのアイシャドウ、不思議なニュアンスカラーのマスカラ、透明感のある艶やかなリップをつけてくれた。まつげについての悩みをお互いに打ち明けながら、メイクはどんどん変わっていった。その間ずっと、彼女からはほのかに甘い香りがしていた。
限定のコスメの予約は迷って保留にして、赤い、ボルドーのマスカラを買ってお店を出た。マスカラを丁寧に塗ってもらったまつ毛は、いつもより長く、艶やかで、自分のものとは思えない、真っ赤な色をしていた。鬼みたいな、魔女みたいな、人間じゃないみたいな、不思議な色で、いつもと全然違うからか、なんだか楽しい気持ちになっていた。
ひさしぶりのデパコスは贅沢なものではあったけれど、少しだけ、でも十分にわたしの気持ちを荒ぶったものから、嬉しい、楽しい、優しい気持ちにしてくれた。スタッフの女の子が、外で雨が降り出したのを気にしてかけてもらった言葉も、そのときのわたしには嬉しいものだった。
キラキラと華やかな場所を後にするときには、随分と気持ちが明るくなって、明日の朝メイクするのがただ楽しみになっていた。
直接的な解決は何もしていない、わたしは昨日とは何にも変わっていないし、なんなら今、ハイカロリーなミルクティを飲みながらこれを書いているので、地球の中でわたしが占める体積がちょびっと増えてしまっているかもしれない。お財布にも体型にも大打撃だった。それでもただ、気持ちはずいぶんと楽だ。
大好きな写真家のビル・カニンガムさんが映画『ビル・カニンガム&ニューヨーク』の中で言っていた言葉はわたしのお守りだ。
ーファッションは鎧なんだ、日々を生き抜くためのー
身に纏うものはきっと、その人を守って奮い立たせてくれるのだと思う。そういう力をきっと持っている。コスメだってファッションの一部だ。きっとこのきれいな色の小さな粒子の中に宿る不思議なパワーが、身につけたわたしを守って、励まして、素敵なところに行けると思わせてくれるのだと思う。
朝、わたしはこの日に買ったコスメの力を借りて、朝起きるし、出勤するし、なんだかんだと仕事をする。この買い物はちょっと贅沢だったり、自分との約束を破ってしまってたことにはなるけれど、今回みたいなしんどい時はコスメの魔法が必要なのだと、そう信じている。
鏡の中で、真っ赤なふさふさなまつ毛になった自分は、いつものわたしよりも少しだけ、強くなったように見えた。