コトダマが姿を現す時
引き寄せない法則の8
「やる気スイッチ」とコトダマあれこれ
以前の投稿にて、私なりのコトダマ(言霊)に対する認識をご紹介しました。
つまり、引き寄せ云々を知る以前から、私自身「言霊」を気にしていた、ということになります。
そして、同様の感覚は皆さんも多少は持っているはず。
年齢、世代、地域文化的要素から来る違いはあるにせよ、多くの人は、日常の習慣に「縁起の良し悪し」に関わる言葉、行動、出来事などを感じています。
そしてそれを、多少なりとも行動規範の一部として持っているのではないでしょうか。
例えば「四=死」「九=苦」がメジャーなところ。
一部に限らず、世の中実際に「404号室」が存在しない建物が多数あり、4階が存在しない建物が現に在った(今も)訳で、どちらかと言えばそれが当たり前だった時代も、そんなに昔ではありません。
これが単に、語韻に端を発する「こじつけ」と、仏教的縁起の観念がフュージョンしちゃった迷信なのでしょうか。
少なくとも言霊が、ハリー・ポッター的魔法の呪文じゃないことは確かですが、私たちの日常や、価値観形成に対し、まさに「実態を伴って」姿を現した、ひとつの現象。
それが「4や9が無い建物」ということになります。
「やる気スイッチ」の話
コトダマが姿を現すのは、4や9のような語韻の重なりに限りません。
言葉が先行し、後に実在性を帯びるケースもあります。
一つの例が「やる気スイッチ」です。
「やる気スイッチ」は、学習塾、進学塾だったかのテレビCMから生まれた言葉。
CMのキャッチコピーや商品名は、時にコトダマ的パワーの権化となりますよね。
「やる気スイッチ 君のはどこにあるんだろ~」という歌をバックに、確か制服を着た少年の後頭部、延髄辺りにあるスイッチを押す、そんな演出だったのを覚えています。
このCM誕生から随分と長い年月が経ち、私などはどの塾のCMであったかすら思い出せません。
なのに、「やる気スイッチ」という言葉だけは、明らかに概念を伴って保持しているという事実。
今日も仕事仲間から、「ねえ、やる気スイッチ押して」という言葉が、面白味を含めてこぼれたりしていました。
つまり、相変わらず「やる気スイッチ」という物理的装置は存在しないけれど、概念としては社会に定着し、実像に近い役割を果たしていることになります。
実際、日常の様々な場面で「やる気が出ない」と嘆くよりは、「やる気スイッチ押して」とする方が、ちょっとしたモチベーションの変化をもたらしてくれる、もちろん良い方向へ、そんな印象です。
そう、やる気スイッチは今や、実体を有しているのです。
私にとってのコトダマとは、つまりはそのような力を持つもの、と言えます。
そして、引き寄せを語る上では最も理想に近い現象とも言えます。
ネガティブなコトダマたち
反面、注意が必要と思しき事柄もいくつかお示しします。
まず持って、コトダマも言霊も、呪文ではありません。魔法でもありません。そして、迷信でもありません。
言葉の大半が意味や意図を持つものである限り、仮に微量であっても何かしらの作用をもたらす。
そのように考えた方が健全ではないかな、と思います。
すると、アファメーション的な特別な言葉に力を込めるのも手ではありますが、日常何気なく口にしている言葉たち、それがあなたの、そして私の大切な要素に影響しているということ。
そこに強く意識を向けるべきだと思うのです。
例えばです。
ウザイ
ダサい
ヤバイ
病んでる
厨二病
キモい
私たちは、こんな言葉をよく使います。
いつの間にか、私たちの日常に定着している言葉や形容ですが、若者言葉なのか流行り言葉なのか、由来すら定かでは無いものが多数です。
軽く扱っているようで、時に深刻で強烈な揶揄ともなる。そんな言葉が増えた感じもします。
その中に、実際に自分自身や状況に、良からぬ影響を与えている言葉がないか、少し慎重に考えた方が良いと思うのです。
例えば「病気」。
ありがちなのが「ほとんど病気」という類の表現。
文脈としては「病気ではない」とも取れますが、単なる嗜好や癖みたいな、どうでも良いはずのことを「病気」に寄せている訳です。
「病的」「病んでる」も使いますよね。自分自身に対しても、他の誰かに対しても、状況に対しても。
大概、病気には該当しない状況や状態を掴まえて、「病んでる」などと言ったりする訳ですが、まあ、見直すべき言葉でしょう。
言葉として本来忌むべきもの、それもやはりあるのです。
もう一つ、面白い視点からこうした類の言葉を考えてみます。
「マジ、ヤバイ」或いは「超ヤバイ」。
イメージとしては、比較的お若い女性たちが、この「ヤバイ系」を多用し、会話を成立させてたりします。
例えば、友だち同士連れ出って歩いてる時、偶然大好きなアイドルの撮影現場に出会すと、
「見て見てあれ!超ヤバくない」
「ホントだ!マジヤバイっしょ」
嬉しいんですよね。解ります。
一方その帰り、電車の改札にて、
「あれ?マジヤバイ、おサイフ無いかも
」
「えーっ、何それ、超ヤバイっしょ」
動揺してるんですよね。解ります。
不思議ですよね。全く正反対の状況なのに、「超ヤバイ」「マジヤバイ」の二つで形容できてしまう。しかも理解できるのです。
膠着語としての日本語らしさが全く感じられない言葉に、今の日本人らしさが表れている、との好例でもあります。
これを、文化の退廃と見るか、言語の進化と見るか、それはまた別のお話。
さて、テーマであるコトダマとして「マジヤバイ」を語るなら、やはり忌むべき属性にあたる気はします。
意訳すると「本当に(マジ)危険なレベル(ヤバイ)」くらいの説明にはなりますし、仮に好ましい状況で用いたとしても、「四=死」同様、語感から来る意味的な多重性から逃れられません。
一方で、引き寄せの観点からこの言葉を語ると、「良い気分でいること」が第一の要点ですから、「マジヤバイ」もまんざら否定できない、となります。
「マジヤバイ、私超嬉しいんだけど」
という心持ちであるなら、アファメーションにだってなり得る。
「私はマジヤバイ、超ヤバイ
私はマジヤバイ、超ヤバイ
私はマジヤバイ、超ヤバイ」
・・・使うか使わないかは、あなた次第です。
改めて、私にとっては必ずしも意味や意図を含めずとも、何らか現象や作用を「もたらしてしまう」のがコトダマです。
それ故、普段何気なく用いるネガティブな言葉、これらを丁寧に選り分けて、「意味・語韻・感情」をなるべく一致させておきたい、そう思う次第です。
少なくとも私は、「病」に関する言葉はなるべく軽々に扱わないよう、自戒しております。
「私、病んでる」
気持ちは解りますが、そういう言葉は忌むべきです。
本当の病ならば、そんな言葉すら出ないものです。
敢えて自身を、誰かを、病に分類する必要はない。
そう思います。
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