富の再分配について。日記

 昨今の不景気は人々の注目をお金に向けるには充分なようで、その手の話題は前にも増してそこかしこで見られる気がする。その話題の1つに税金の役割を考察するものがあった。そこで私も改めて脳トレも兼ねて考えてみる。

 税の役割として挙げられるのは表だったところだと 財源、富の再分配、経済の安定化、の3つが挙げられるが、当然これは殆どが嘘であるか果たされていない。この嘘については多くの賢人が指摘するものの、今回はこの富の再分配に水を向ける。

 ごく当たり前の話ではあるが、徴税の理由には通貨の過多を防ぐという断片的理解を適用する事ができるのだが、この目的に依って徴収された税は具体的にどういった分配の原資となっているだろうか。
 仮に、応能負担、保障制度、公共事業、etc...が富の再分配とするなら一見真っ当に見えるかもしれない。しかしこの富と呼ばれる存在は何を指し、どこを源泉として誕生しているのだろうか。

 単純にまずは再分配を遡行してみる。この富の再分配という概念は分け合うという暗黙の語義も表現の射程に入れているとするなら、富の再分配によって救済される者は救済する者達にさぞや感謝するのかもしれない。しかし、これらは全て人間の一生を何らかの基準で画一化する誤謬を引き起こす。

 ボランティアという行為が拝金を余儀なくさせる現代で何故未だに残っているのだろうか。崇高な奉仕の精神が具現化したという要素は決して否定しうるものではないが、人間の生活に徴税とそれに纏わる罰が有る以上、安易に生活を犠牲にできる者は少ない。ボランティアはある意味で商売に発展しなかった事業が混じっているとも表現できる。

 私達が普段全てが金で決まっていると思っている世界も、実は隅々まで値札をつける事が出来ないでいる。この考えを更に伸展させていけば自ずから全ての商売は収支のバランスが画一的ではない、即ち生活には格差が約束されていると言っても無理筋ではなくなる。

 して、邪推する。この不平等なスタートラインは救済と崇拝の関係を支払えば是正できるとしているのだが、崇拝を忠実忠実しくする信徒は十二分な職探しが出来ていたのであろうか。民間の雇用主が展開できる商売と雇い込める人数と競争に参入出来る分野は限られている。こうして誕生した信徒は救済を施す牧師と同じ土俵で競って敗れた者と断じてしまって良いものだろうか。

 改めて。税の役割の一側面を解説するに富の再分配という考えは現実を反映した表現として適切かとの疑義を免れるものではないように思う。

 どの仕事に労務者が何人必要かという問題と雇用主が労務者を何人雇えるかは別の問題でありそれぞれに別個の回答が用意されるのなら、税の解説に用いられる富という言葉は本来の意味、学問的意味の双方から著しく逸脱している。出来レースで誕生した所謂富は資本家の残飯と変わらない。そしてこの富は社会資源ではないので信徒の社会復帰は当然望めない。寧ろ社会復帰を果たした者がいるならどこかで誰かが代わりに信徒になっている。

 事程左様が今回の個人的な富の再分配に対する再考。供給能力と通貨発行のバランスとかボランティアの他の例としてブラック労働も入れるとか色々省いた気はする。でも終わり。

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