話す為の会話について。日記。

 かなり以前に男性脳•女性脳というような特集がTVでも平然と取り沙汰された。現代ではご法度だろうが思考の傾向が違うというのはなんとなく理解できる。

 私の記憶ではその最たる感性の1例として「解決ではなく共感だけ欲しい」という主張が女性の意見として挙がっていたのを憶えている。この理由に少々の当事者による思弁と、学者による人類史の御高説が述べられた。しかしどうだろうか。今にして思えば女性脳がどうのというよりは、生来他者のリクエストに対してコストを支払えない、若しくは文脈からそのリクエスト自体を汲み取れない人間独特の振る舞いなのではないだろうか。

 共感が欲しい、の言葉の通り相手に特定のリアクションを期待して、期待通りにリアクションが帰ってこない時はやたらに不機嫌になる。幼児がこうなる場合は、習いたての単一コミュニケーション手段を使用しているだけに過ぎないが、大人になってもこれを続ける場合はコミュニケーション手法におけるマイルールの汎化、情報処理能力の鈍化、経験の貧困、発達の遅延等々の推測が立つと私的には思う。

 経験の貧困やマイルールの汎化や情報処理能力の鈍化は、生まれ持った身体に問題が無くても環境に依存して発生し得る。けれども発達の問題はその他の要因を生後に併発する形でも現れるので見分けがつきにくい。

 そしてこの共感•傾聴の要求が所謂男性脳から理解されにくい理由の一つには、問題に対する回答のハードルの問題というよりは、自分の気分を押し殺して無言の内に秘められたマイルールを把握してご機嫌を取るリソースの浪費を嫌悪しての事なように思う。

 相手の気分を推測する事は男性脳であろうが必要に応じて、共感も傾聴も行う。昭和のサラリーマンなどが根回しの為に飲み会を行う理由の多くが、これに起因している面があった。けれどもこれらの殆どはあくまでメタ認知を伴う共感であり、公衆の面前でするようものではない。だからその席が終わればまたいつも通り体裁を整える。

 打って変わってメタ認知を失った強制を伴うような公私の区別無いマイルールの汎化は、時に記憶の混濁や自己正当化の結果起こる社会からの反動に耐えかねてのうつ病などを招くに至る。また、リアクションの査定基準も当然マイルールなので精密性は低く、詐欺に引っ掛かりやすかったり、情報の鵜呑み、勉学への意欲減退なども起こしやすく、傍から見れば大衆迎合的で、自分の立場の表明が薄弱な、地位に甘んじる人間と受け取られる可能性もある。

 このような人間を健常と見做せば幼稚化と評せるが、実態は支援の必要な人間を放置してしまっているだけかもしれない。仮にこういった支援の必要な人間が女性のコミュニティに多いとすれば、なにがしかのバイアスや構造的落とし穴を回避しながら慎重に判断できる材料が、今後より需要されていくのかもしれない。

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