人間の目的、生きる理由とは(期末レポート 前編)

まえがき
 前編はハッピーではないが後編を含めるとハッピーエンドで終わります。後編は今、公開できない内容なのでいつか公開したいと思っています。

人間の⽬的は何か。2年生の春から苦しんでいた問い。
人間はなぜ結婚なんてことをするのか。2年生の秋から苦しめられていた問い。
春学期歩けば頭に浮かび、呼吸を整え、消していた2つの問いにひとつ、自分なりの答えらしき存在が出てきた。

2年生の春。

 僕は本当に死にたいと思った。この世界に生きる意味を感じていなかった。人間の目的、なぜ生きているか、分からなかった。でも、死ぬのは怖かったし、生きる理由がないのと同時に、死ぬ理由もなかった。追い詰められた理由はいろいろとあったと思うが、惰性で生きてもいいのに死にたいと思ったのは、生きるために必要なエネルギーの大きさを痛感したからだろう。身体が弱い自分は、一人暮らしを始めた生活環境の変化からか持病も悪化し、食事、睡眠、運動、気を遣ってもお金をかけても変わらず毎日学校にいくのさえ辛かった。精神的にも簡単に生きられない世の中だ。ニュースを開けば真っ暗なのに身の回りもちゃんと意思疎通がとれているか不安になる人、意思は通じていても思い通りに解釈してくれない人。自分も相手からみてそんな人間かもしれない、いやそうだろうと思うと、なぜ人間はこんなにも分かり合いたいのに分かり合えないのか、幸せに生きていきたいはずなのに攻撃や競争、軽蔑にあけくれているのかと、何もかも分からなくなってくる。ここまで追い詰められたのは、教師になりたいと思った中学3年生以来かもしれなかった。
 辛いから死にたくなるというのは脆いとも思えるが、それは生きる理由がみつからなかったということもあるだろう。教師になりたかった、教育はなんとかできると思っていたから生きていた。僕を支えていた絶対的な精神は「教育」だけだった気がするが、まだ現場で生徒と出会えてもいない大学生にとって、現実味が湧かず、週に1回位は教師になるんだと意気込んでいたが、毎日それを活力に変えることはできていなかった。死なない理由にはなっていたが、生きる理由に大学生の間はなれていなかった。就職してから教育が生きる理由になったら嬉しいし、僕は信じている。教育を、いや自分を。友人も大好きだったが、僕の本当の友人は(これから学科でも作りたいが)別の学科や大学に10人位いる形で、よく連絡はしていたし、大好きだったが目の前の日常より少し遠い存在で、死なない理由にはなったが、やはり生きる理由にはその時、なっていなかった。(今はなっている。)

2年生の秋。

 秋学期から少しずつ体調は良くなり、精神的にも(大学生になってから日々そうなっている感覚があるのだが)客観視できる自分が大きくなり、3月に一人旅にいってからはなぜだかとても体調がいい。安心していただくためにも、今は死にたいと思っていないことを伝えたい。また、その際救ってくれた、言葉をかけてくれた家族や友人に感謝したい。小心者の自分だが、大学に通えない時期はあり、彼らがいなければ休学していたかもしれない。

 秋学期から僕に連絡し続けてくる問いは、「なぜ結婚なんてことをするか」だった。僕は、できるだけ多くの人と分かり合い、精神的にも物理的にも一緒に生きていくために、ある(基準はない)一線を越えた人は、好いていた。人間として。誰だって善くないとこ、正しくない部分はあると思う。それを許容するわけでもないが、ただ(完璧な人間はつまらないからかなと思っていたが、それが理由ではないようだ。なぜこうなったかは分からない。)好いていた。そういう人間の部分も好きで、だからその人自身を好いていた。実は今週、偶然にも国語科の2年生で一緒に活動している学生が団体内の自己紹介シートに「生きるとは何かを悶々と考えています」という文を書いているのをみつけ、声をかけ、2時間話した。学生がそこで話してくれた「愛をもって接する」という言葉はまさしく僕のいいたかったことだったから、使わせていただく。僕は「愛をもって接する」ことを意識していた。
 これは同性異性関係のないことだったが、疑問に思ったのだ。付き合うこと、ひいては結婚することって大切な人を少なくして、生きづらくすることじゃないのか、と。僕はいろんな大切な人と一緒に生きていきたい。付き合ったら、他の大切な異性と話せなくなる。いや、話していいよと言ってくれる異性と付き合うが、社会はどう見てくるだろう。付き合うだけならいい。結婚したらどうだろう。少なくとも就職して結婚した人の多くが自由を制限されているのではないだろうか。社会の目線もそうだが、同性とも異性とも単純に話す時間は短くなる。もしみんなが家族をもてば家族という小さな社会に閉じこもっていくような感覚が僕にはあった。それでは家族がいなくなったらどうするんだ。大切な人を少なくしたら、大切な人がいなくなっちゃった時、生きる意味を失うんじゃないか。絶望に僕は耐えられる気がしない。例えばもし僕が今いろいろな繋がりを断絶して、表面的な繋がり(僕がいなくなっても2日後には忘れている位の)だけを残すとする。その時、家族がいなくなったら。人権、多様性、個人主義。いきすぎた考えか、僕には判断できないが、人に介入することが悪とされる風潮もある現代社会。表面的な繋がりが多いのは事実だ。色んな人に愛をもって接している僕も、「死なない理由」になっている人が20人は登らない。
 母親に電話した時、いっていた。「そうかもね、お父さんは私やあなたが突然死んだら、生きていけないかもしれない。」恐縮だけど、事実だわと話してくれた。僕の目にもそううつった。父はかけがえのない存在だが、父にとって僕もかけがえのない存在。家族とは本当に不思議だ。父のなにをしっているだろう。お葬式に誰を呼べばいいんだ。父は僕の何を理解しているだろう。3年生になって自己開示を始めたが、友人、ひょっとしたら高校の先生の方が自分を分かってくれているかもしれない。それでも父には愛があって、誰とも違う「好き」がある。

 話を逸らしてしまった。申し訳ない。だから家族をもつことが怖かった。大切な人を自分で選んでしまうような怖さを感じた。
しかし2つの問題が生じる。ひとつは周りが結婚していくかもしれないという社会的な意味。ただ結婚率はさがっているし、僕自身、世間がどうではなく自分で考えたい人間なので懸念は少ない。
もうひとつはみんなへの「好き」と付き合う人への「好き」。べつと思っているし、僕が異性同性関係なく「愛をもって接している」時に付き合うということは頭にないのだが、一人で歩いていると分からなくなる。みんなへの好きが付き合うになることはないのかな。本当に違うのかなって。でもそうしたら付き合っている人への好きと同じ思いで、他の同性異性と話すわけだが、いいのかな、いいよね、と。やっぱだめか、と。考えすぎると一夫多妻制ならぬ多夫多妻制を推す形になり、自分の頭が心配になった。自分が好いてもらえているかという話は脇にしていることをお許しいただきたい。
 3年生の春学期。さまざまな結婚の形を本の世界で体験した。「正欲」。水を性的対象にしている二人がこの世界で生きていくために手を組む結婚。「コンビニ人間」。自分がなにか分からないが社会で人間として生きていくために夫婦を装う結婚。「傲慢と善良」。マッチングアプリで出会った二人が婚活を通り越した後にあった結婚。僕には結婚という枠組みが分からなくなっていた。
 ただ結婚することが、生きる理由をみえなくする危険をはらんでいると思い、論理的に受け入れられなかった。なんで考える人間になっちゃったのだろう。中高の恋愛は考えていなかった。告白してもされてもあの時の苦悩は青春という一言で片づけられる気がした。どっちが良かったんだ。でも戻れない。

6月。僕は問いへ自分なりの答えに迫り始める。

(レポートなので後編含め提出していますが、今は後編を公開できる心になれていないから、また。みんなの「人間の目的」聞きたいな。)


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