「After You've Gone」 ジャンゴ・ラインハルト
ジャズとは1910年代頃からアメリカで形作られた音楽だ。だが意外にも1920年代にはジャズはヨーロッパでも盛んに演奏され、さまざまなミュージシャンが活躍するようになった。その中でもアメリカ本土を圧倒するような実力を誇っていたのが、1930年代から1950年代にかけてパリを中心に活躍したジャンゴ・ラインハルトだ。
ジャンゴは1910年にベルギーに生まれ、1953年に没したギタリストである。左手を駆使するギタリストという職業でありながら、火傷によって左手の小指と薬指が麻痺してしまうというハンデキャップを負っていた。しかし、彼が残した演奏の多くは、左手に指が5本以上ある多くのギタリストにとっても、ほとんど再現不可能なほど高度なものだった。そして、彼の偉業はジプシー・スウィングというジャズのジャンルのひとつとして今日に伝わっている。
そんなジャンゴ・ラインハルトは膨大な数の録音を残しているが、私がもっとも感銘を受けるのが「After You've Gone」という曲だ。1918年に作曲された曲らしく、原曲がどのようなものなのかはわからないが、1949年に録音されたこの鬼気迫るバージョンは、彼の技量と異常性が凝縮された名演だ。
軽快なピアノのイントロで始まるこの曲は、まずステファン・グラッペリのあでやかなヴァイオリンによってその美しいテーマが奏でられる。そのステファンのパートが終わるか終わらないかのうちに、駆け出すようにジャンゴのソロ・パートが始まるのだが、その力強くも不安げなメロディに乗って、男の熱情と愛嬌と後悔が存分に歌い上げられる。永遠に続くような恍惚さえ感じる。そして後半はステファンにソロが引き継がれるが、震える声で理性を保ちながらも奏でるその旋律を雪崩のようなジャンゴの伴奏が猛然と盛り上げる。孤独な夜をこれほど明るく照らしてくれる名演が他にあるだろうか。
ジャンゴの時代にはアルバムなどという概念はなかったため、現在では雑多に寄せ集められたベスト盤やエッセンシャル盤として聴くことになるだろう。その数があまりにも多くて戸惑うが、差し当たり「The Essential Django Reinhardt」あたりから始めてはどうだろう。これはYoutubeでも全曲聴くことができる。パリの雑踏を切り取ったような「Minor Swing」、霞がかった古い街並みを彷徨うような「Where Are You My Love?」、そして後にジャズのスタンダードとなる「All The Things You are」など、いずれも華やかで、挑戦と遊び心にあふれた名演だ。
彼の演奏はコード・トーンを中心としたビバップ・スタイルだが、クラシックや民族音楽の影響も感じられる。理論と熱情が融合した、まるで数学のように美しい演奏だ。無論これほど傑出した天才が環境の後押しなく出現するはずがなく、彼の共演者たちも同様に素晴らしい。主役級のステファン・グラッペリはもちろんだが、ピアノやドラムでも手堅い演奏を聞かせる仲間がいたようだ。にもかかわらず、ジャンゴとその一派がアメリカのビバップのような一大勢力となれなかったのは、やはり欧州が第二次世界大戦の主戦場でありその影響が深刻だったためだろう。
左手の指に重篤な障害を負い、戦争によって活躍の場を奪われ、赤貧の中で死んだジャンゴだが、そんな不幸な境遇と彼が残した輝かしい作品群との隔たりはあまりにも大きい。
私も社会人となって驚異的な実績をあげるビジネス・パーソンに何人も出会ったが、彼らは皆いわゆる頭の良い人間ではなく、夢中になって仕事に取り組む人たちだった。ジャンゴもまたそんな人間であり、我々は彼の残した作品を通じて、彼の冒険の一端を聴いているのだろう。