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リデル.ライト両女史とは③

明治40年(1907年)に「癩予防二関スル件」(法律第11号)が制定
全国に5つの療養所ができる
この法律では患者救護が目的の為、隔離を前提にしたものではなかった
その後、昭和6年(1931年)、昭和28年(1953年)に「らい予防法」となり、隔離という政策が取られるようになっていった


リデルの救癩の思想は、「聖書におけるらい病」の記述からのものであると思う

右下イエスが患者に手を差し伸べる

リデルの病気への予防策の基本は「性の隔離」だった
これは、キリスト教の思想からくるものだろうと推測できる
同じ明治のこの時に、日本の彼方此方で海外の宣教師による「救癩」の動きがみられる

リデルは、回春病院内にハンセン病菌研究所を設立、(大正7年)
のちに納骨堂や「降臨教会」の建設もしている


納骨堂
パンフレットからお借りしました


昭和7年(1932)に、リデルが73歳で永眠すると
姪のライトが病院の院長となり、経営を引き継いだ
ライトは叔母の事業を守るために、救護活動に力を入れていたが、
第二次世界大戦の勃発により、イギリス出身のためスパイの容疑をかけられ、
前述の「らい予防法」の改正により、患者の強制収容が強化され、資金繰りの問題も重なり、昭和16年(1941年)に回春病院は解散、閉鎖となる
患者たちは集会所に集められ、病院の閉鎖を知らされ、土足で踏み込んできた係員らに勝手に荷造りをされてトラックに詰め込められた
九州療養所への強制収容が行なわれた

国外追放となったライトは、友人のフローレンス·メイ·フリースを頼ってオーストラリアへ渡る


左上メイ.フリース女史

昭和23年(1948年)、ライトは再び熊本へ戻ってきている
以前の医師用の住宅がライトの住まいとなり、患者や「龍田寮」
(ハンセン病患者を親にもつ子供達の住い)
に暮らす子供たちとのひとときを過ごし、1年8ヶ月後にライトは波乱の生涯を閉じた

記念館の敷地内に、リデルとライトの記念碑が並んで建てられている
ふたりの遺骨もこの熊本に眠っているという







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