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台湾、鄭氏

明の時代に王朝を擁護し、清への抵抗を続けた鄭氏
当時、オランダ(ネーデルラント)の支配下にあった台湾を解放したとされる英雄、「鄭成功」
平戸の生家跡に記念館が創設されている。

鄭成功
鄭成功記念館(パンフレットより)


鄭成功の父、「鄭芝龍」
1603年頃、福建省の貧しい家庭に生まれた鄭芝龍は、やがて日本の平戸に移住し、侍の娘「田川マツ」と出会う
二人の間に生まれたのが、「鄭成功」だった。

堤防に肘をつくのが鄭芝龍だとされる
鄭芝龍

鄭芝龍は、中国沿岸の支配を拡大した
他の船が姿を現すことも出来ないほどだった。

鄭氏一族は、政権自らは直接参加せずに、
「五大商」と呼ばれる商人たちに賃金を貸付、商いを行わせ、その利息を政権の財源とした。
また「五大商」には、一つの組織が数十人おり、各地に配置し、諜報、工作活動も行なった。
鄭氏の貿易船に対する渡航許可証「牌」を巡っても
傲慢な船の拿捕、貨物の没収などで、オランダ東インド会社との対立もあった。
オランダと中国の貿易交渉の通訳としての役割を果たしながら、
オランダに対し中国が支配する澎湖諸島を放棄し、台湾を貿易拠点として利用するように促した。
しかし、鄭はその後すぐにオランダに反旗を翻し明側についた。
明は鄭を「帝国艦隊の提督」に任命して、権力を分担することになった。

鄭芝龍がこれほどの実権を握るには、影の力があった
それが、「その地と時代で偉大な海賊王子」と称された「李旦」
鄭芝龍と鄭成功をつかい、海上での功績を築いた。

李旦

福建省生まれの李旦は、平戸を始めとして日本、台湾、東南アジアとの有利な海上貿易市場を独占することで財を成し、アジア初の多国籍貿易で台湾の実権を握った。
元は任侠の徒であった李は、塩商を手がけるも失敗
海禁政策のなか、禁制品を商う密貿易を行い、(この頃に博多商人と交易し、日本人の信頼を得る)
密貿易を取り締まった王朝に攻撃し、海賊集団を組織し、浙江省舟山諸島の烈港を本拠に倭寇の頭目になった。
1540年天文9年に日本の五島に来住し、1542年に平戸藩主松浦隆信に招かれて平戸に移る
そこでも地方の官憲らと通じ、密貿易を拡大していった。

平戸における中国商人の首領であり、のちに平戸に建設された
「イギリス商館」にも李の屋敷が使われた。

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