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佐野常民という偉人…Ⅱ
海軍創設に尽力する常民は、欧州視察の経験を元に軍艦の整備、海軍人の育成にも当たっていた。
そんな中、突然の罷免により工部省への転換が決まる。
(常民の先見の明に嫉妬する者がいた)
工部省でも、灯台建設の要務につき、イギリス人技師プラントンと共に全国20ヵ所の灯台整備を行った。
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常民は、パリ、ウイーン博覧会の経験を活かして国内で博覧会を開く事にも尽力している。
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ちなみに、第5回の内国博覧会では驚くようなパビリオンもあった…
「学術人類館」という様々な民族を陳列したもの…
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〜博愛社と日本赤十字社〜
1877年に西南戦争が起こり、「田原坂の戦い」がおきる。
常民は、戦場での救護を目指し「博愛社設立請願書」を岩倉具視に提出するも却下される。
(敵味方関係なく救護するという理念が理解されなかった為)
その後、有栖川宮熾仁親王により許可され、「博愛社」として活動することになる。
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1886年にジュネーブ条約を政府が受け入れ、国際赤十字に加盟。
1887年、「日本赤十字社」と改名し、常民は初代の社長に就任した。
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1888年、福島磐梯山噴火時の救助が初めての活動となる。(死者477名の大災害)
1890年には、「日本赤十字病院」を設立し、看護師の養成が始まる。
1899年、「病院船」を作り、(英国のロブニッツ社製) 日露戦争時には、負傷者や捕虜の輸送に使われた。
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常民が80歳の時に、日本赤十字社の25周年記念式典が行われた。
(赤十字社の名誉社員には、皇族のみが対象とされていたが、功労者として名誉社員章を贈られる)
生涯に渡ってこれほど、波瀾な人生を送った人物はいるだろうか…
佐野家の養子となり、その環境に翻弄されながらも、与えられた試練を見事に乗り越え、多くの偉人達との出会いも果し、自身の思い描くビジョンを成功させてきている…
佐野常民、たったひとりの人生とは思えないほどの偉業だ…