リデル.ライト両女史とは②
今回はリデル、ライトの救済活動からは少し離れた投稿になります
国に働きかけたリデルの訴えは、日本の政治家のみならず英国までも届いていたと同時に、この時代の日本の底辺で生きる者たちの存在までもを詳らかしている
リデルは、1902年(明治35年)大日本衛生婦人会のなかで、「麗しき花の下には何があるのか見ますれば、これはこの上ない悲惨な光景で、男、女、子供のらい患者が幾十人となく道路の両側にうずくまっていました…」と述べている
リデルたちが回春病院を設立し、救済に乗りだしてからも、らい病患者たちは本妙寺周辺の住み慣れた墓地のテントと病院を行ったり来たりしながら暮らしていたという
1904年~1908年頃の日露戦争時には、80あまりのテントがあり、患者数は140人を超えていたという
日露戦争後に軍より払い下げられたその場所に、仮設のテントから長屋に改築している
実は…本妙寺周辺の患者たちは、寺周辺での物乞いだけではなく、ハンセン病という武器を使い、九州一円や中国、四国地方までも足をのばし、物乞いの旅をしていたという
他の貧しい者たちからは、高級乞食と呼ばれ一目おかれる存在となっていた
陸軍からの残飯などの払い下げをうけ、貧困者に販売したり、資産を築き貸家を経営する者もいたという
リデルが見た、物乞いをする哀れな患者像とはとても思えない話しだ
哀れみの演出をしていたのだろうか
そもそも、熊本市の本妙寺にハンセン病患者が押し寄せるようになったのは、本妙寺が法華宗で経の中に「白癩」の記述がある事や、加藤清正もハンセン病であったとする俗説もある
昭和9年の集落の患者についての調査報告によれば、集落の者もばかりではなく、県外の貧困者もおり、世帯数では149世帯.人数は482人に上ったという
(内、患者は35世帯、112人のみ)
熊本県人は9世帯、朝鮮人5、大分、鹿児島、高知県人3など県外、朝鮮も含まれたという
また、本妙寺集落のレッテルばりがされた事件がある
この集落で養子として育てられていた乳児が、相次いで栄養不足の為になくなり、乳児が熊本医科大学に売却されていたことが分かった
20名もの集落住民が、警察に連行された(もらい子殺し事件.1937年)
この問題の根は深すぎる…