乙女峠キリシタン殉教地
慶応4年、長崎の浦上から始まるキリシタン弾圧を受け、明治元年にかけて3400人以上の隠れキリシタンが全国の流刑地へ。
250年以上の間、隠れキリシタンとして信仰を続けた信者は、徳川幕府による厳しい迫害をうけ、鹿児島、萩、名古屋等の22か所の流刑地へ移される事となる。
その中のひとつに津和野がある。
神道による教道教化に自信を抱く、津和野藩主がいたためである。
初めは、改心させるべく温和な政策を試みましたが、信仰の厚いキリシタン信徒の心は変わりません。
方針変更し、拷問も含めた棄教方針へと変わっていきます。
5年に及ぶ改宗の為の拷問は、真冬に氷の張った池に何度も入れられる、減食、火炙り、三尺牢に入れるなどもあった。
この残酷な拷問の為に、37名の者が殉教の死となる。
この場所は、キリシタン信徒達が祈りを続けながらも、厳しい拷問にあった場所。
十字架には、3本の鉄釘だけが残り、イエスの復活を意味する。
明治政府は、欧米からの厳しい非難を受け、徐々に信仰の自由という概念を受け入れざるを得なかった。
1614年に始まったキリシタン禁令は、259年ぶりに効力を失うこととなる。
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