MIRACLEはさらにつづく
今までに2回、将来の夢を問われたことがある。
1回目は幼稚園の時
2回目は小学生の時
1回目の時はケーキ屋さんになりたいと書いた。
他の子たちもお花屋さんとか、ピアノの先生とかケーキ屋さんとか、微笑ましい夢で溢れていた。
問題は2回目の時。
小学生の低学年くらいだったと思う。
将来の夢=将来の仕事というテーマで書かなければならなかった。
私にはしたい仕事がひとつも思い浮かばなかった。
両親が何の仕事をしているかもちゃんとわかっていなかったし、やりたい仕事と言われてもさっぱりだった。一文字も書けず、宿題になった。
家に帰って家族に相談したと思うけれど、作文事態が苦手で書けなかった。
翌日、結局書けないまま提出となったが、書けるまで居残りになった。
その時、ケーキ屋さんになりたいとは書かなかった。却下されたのか、その時はもうなりたくなかったのかは覚えていない。
私が一生懸命考えついたのが、
「まだ将来の夢はわからないけれど、スーパーのレジの人や、道をきれいに工事をしているおじさん達のように誰かの役に立ちたいです。」みたいなことを書いた。
当時、わかりやすい働く姿のイメージが
私にとって、スーパーに行った時に笑顔で話しかけてくれる女の人と道路工事をしている人達だった。
作文にはならず、もうこれ以上書けないと先生もわかってくれたようで家に帰ることができた。
後日、クラスメイトの前で全員が順番に発表をしていったが、サッカー選手になりたいとかピアノの先生、看護婦さんになりたいとか、具体的で立派な作文が次々と発表された。
私にとっては苦痛の時間で他の子が書いたような立派な作文は書けなかった。
だけど当時の自分をハグして褒めたい。
子供ながらにも働くとは、他の誰かの役に立つことだと理解していたから。
そしてこの将来の仕事については高校生の時に
大いに悩まされた。
周りの人達に将来の夢、職業がある程度決まっている人が多く、不思議で仕方がなかったし途方に暮れた。
自分が何をしたいのかもわからなかった。
家族からは公務員を強く勧められる。
今では勧める気持ちもわかるが、反抗期真っ只中。親の言う通りに生きることにもうんざりしていた。
それでもひとつだけ、働きたい会社を思いついた。
本社はヨーロッパにあり、日本にも東京に支社がある。
英語も話せないし、どうしたらその会社で働けるのか検討もつかない。
でも働くならその会社が良い!と家族に宣言した。
宣言をした3年後、
私はその会社に携わり働いていた。
東京の支社にも出入りしていた。
人生の中で驚いたことのベスト3に入る。
私が免税店でミラクを紹介している時、私の夢を知っていた知人が求人募集の話を教えてくれたのだ。
受けない理由はなかった。
夢見た仕事が現実になった。
私の母は夢なんて叶わない。叶うわけがないといつも言っていた。
私にも夢ばっかり見ずに現実を見なさいとよく叱られた。事あるごとに、どうせ上手くいかない、諦めが肝心とか言ってくる。
どうしても自分の思い通りの子供の人生にしたかったらしく、母の意向にそわないことは否定されていろいろ却下された。
母は私を産んだことにより、好きだったピアノを諦めた。そのかわり私はピアノを習いに行くことになった。
私がいなければと思ったこともあったのかもしれない。
反抗期真っ最中の娘は憎たらしかったと思う。
わたしが夢だった仕事をすることになったとき、喜んではくれず、早く辞めて地元に戻ってきなさいと言われ続けた。
そして私が戻るよう、ある作戦が実行された。
実家で犬を飼いだした。
私が犬を飼いたいと言っていた時には飼ってくれなかった。
飼えない理由もわかる。母は動物が大嫌い。
どれだけお世話が大変か知っていた。
私はもう子供ではなかったし、犬を飼いだしたからといって帰る理由はなかった。
貰ってきた雑種の子犬はとっても可愛かった。
今だったらすぐ帰る。
子犬の癒し効果は絶大だから。
外国の動画で子供達にサプライズで子犬や子猫をプレゼントする動画が好きだ。
みんな oh My God!!と言って泣き崩れる。
いつもつられて一緒に泣く。
半年後、子犬との再会時はもう立派な手足の長い中型犬に成長していた。
子犬の期間はあっという間で、まるで違う動物みたいだった。
それから夢の仕事は3年程続いた。
金銭面では苦労し、上手くいかなくて悔しい思いもしたけれど、仕事は楽しかった。
この楽しい仕事がずっと続くと思っていたけど、マリオのスターの効力はだんだんとなくなってきた。
つづく⭐︎⭐︎⭐︎
読んでくれてありがとう🌸