クソッタレ考 ドブネズミと同義説
ブルーハーツの終わらない歌、The Birthdayのくそったれの世界。
どちらもクソッタレという歌詞が出てくる。
罵詈雑言、悪口。
クソッタレというのは柄の悪い兄ちゃん姉ちゃんおっちゃんが、他者や自分を蔑む時に吐き出す言葉だ、という認識があった。でもここ最近考えを改めている。
小学生の時、同級生に「私は今までにおならをしたとこがない」という子がいた。
んな訳ないじゃんと問い返しながら、それでも真顔でいわれてしまえば、そういう特殊な、いやむしろ正常な体質なのかもしれないと思った。さすがに排便をしたことがないといわれれば嘘だとわかるが…。未だに真偽は謎である。
そう、人は排便するものだ。
クソッタレとはいわば、動物であり、人間そのものなのだ。
おそらくクソッタレの垂れの部分、垂れ流しているような無様な有り様を揶揄っているのだと思うが、いいえきちんと拭いていますし今は出ていませんと声を大にして反論できる悪口である。
つまり歌詞においてクソッタレとは、人間という意味も含まれているのだーーと歌詞を読み返すと、そうでもないことがわかった。一歩で挫折である。
チバの歌詞は難しくも芸術的で、考察もしていないので、慣れ親しんだブルーハーツで。
ブルーハーツはやっぱり優しかった。終わらない歌の、クソッタレを人間に置き換えることもできたが、続く歌詞の「全てのクズどものために」が出てくると、「クソッタレの世界」じゃないとしっくり来なくなる。
少年の詩の「言葉はいつでもクソッタレだけど」も人間には置き換わらない。
クソッタレと言うのは人間であり、愚かな行動をする自分を含めた人間であり、行動でもある。
つまり「言葉はいつでもクソッタレ(うまく伝わらなくて嫌になるし、意図せず傷つけ合うこともある)だけど」と、クソッタレに多大な意味が込められているように思う。
ブルーハーツはとくに、優等生や不良ではない真面目だけど取り立てて秀でたところもない私のような人間のフラストレーションをゆるゆる揺すって昇華させてくれた。
実際ナイフは持たなくても、手首を掻ききらなくても、味方になって貰った気になって、俺が蹴りをいれてやるよ、と言われれば、前を向けたのだ。
薄汚れていても、泣いてもくじけても、涙をぬぐって立ち上がる。そんな泥臭い我々の総称がクソッタレなのか。
クソッタレはドブネズミみたいなもの。
そんな気がしている。
必死で生きているものはいつだって美しいのだと教えてくれたのはブルーハーツだ。
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