競争/演技/社会
競争の遊びと演技の遊びはともに、その遊び世界に没入させるための装置として機能する。没入することによってその世界観はリアリティを持ち、それ以外に世界などないような錯覚をもたらす。競争のうえでの敗北はまさに世界の終焉であるし、演技のうえでの悲劇は実際に涙を伴う場合すらあるのである。
我々は世界を安定化させるため、つまり認知の不可を下げるために「考えないようにする」「限定化する」ということを行う。それがなければ、私たちはたちまち、外に出ていいのか、家の中にいていいのかさえ判断がつかなくなってしまう。いや、もっといえば家という観念自体破壊されかねない。我々はこれが家である、家と呼ぶ、家とは少なくとも安全である、というイメージ(それは経験から作られた我々の日常というゲームに依る)によって家を認識出来ているのだ。そして、それを可能とするのは遊びの構造、つまり混沌とした現実に非現実的な仮のルールをおいて認知する内容を減らすという作業の効果によってなのである。
そしてそれは競争のモデル、もしくは演技のモデルとして展開される。両者の違いは差異の捉え方である。全てのものには差異がある。違いがあるから、それを固有のものとして認識できるわけだ。
競争(かけっこや、相撲)は差異を「優劣」(もっというなら±)の軸で捉える。一方演技(ごっこ遊び)では差異を「配役、役割」として捉える。AとBは○○という軸で違う、だからAの方が優れてるとするのが競争であるし、だからAの役割はこうであるとするのが演技の遊びなのだ。
競争は個人主義に隣接し、演技は全体性に接近する。競争は切断的であり確定的で、演技は接合的であり曖昧である。競争は確定された事実に寄与するし、演技は虚偽に寄与するのである。もちろんどちらも遊びであるので全くの真実ではない。だが格闘ゲームでの死は実際の死ではないがそれ相応に安全に管理された死としてして私たちを絶望させるのだ。
私の所感では「現実を見ろよ」という場合の現実とは競争モデルで作られた世界を見よと言っているように感じる。確かに社会的地位であるとか、収入などと言ったものは競争モデルの産物なのだ。それが多分にリアリティを持つ時、我々は嫉妬し歓喜し、そして死を思うほど絶望するのである。演劇化された世界においては、全てに役割があるためどう変化があっても、それは並行移動であってやるべきことの変化でしかないのである。ごっこ遊びで得点をつけるなどということはごっこ遊び本来の楽しさ、世界の創造に寄与しているという感覚に水を刺すわけだ。
「マウントをとる」という行為があるが、これはまさに競争の遊びの隠蔽である。「競争の遊びモデルにおいて相手より優位である」という観念をさも、日常という演劇世界の一幕のふりをして差し込む。そこには薄暗い競争への意欲、競争への劣情が見え隠れする。そして、それが演劇的振る舞いのなかで、無理やりであったり、違和感があることによって暴露された場合に、「あの人はマウントをとってくる」という認識になるのである。
ここまで書いて気がつくのは我々の社会が競争のモデルを下敷きに、演技の遊びモデルでその骨格の危うさを中和しているということである。競争によってハッキリさせることは社会集団というレベルで重要であるが、それだけでは崩壊してしまう。よって、そこに演技の遊び(流れにそうこと、同じゲームの維持に寄与すること)のモデルを被せることによってこの社会は成り立っているのだ。競争と演技は両輪でこの世界を構成しているのだ。
私はこの競争のモデルと向き合わなければならない。私はあまりにもこの競争モデルを避けてきたのである。一方で、その火は常に燻っている。真実を知りたいという指向性は競争のゲームモデルにおいて生み出されるものである。流れに沿うことに真実は寄与せず、むしろ真実は切断、絶対的な勝利に隣接するものなのである。私は競争はごめんだといいながら、本来的には敗北を嫌悪し、虎視眈々と競争の絶対勝利を探しているにすぎないのだ。