詩とは何か。

今年は詩を書くのだ。あえて言うまでもなく自明のこと、それらに切れ込みを入れてガバッと開く。中から黒い液体と臓物が溢れ出てくる。複数人の顔、そして、生まれ出でることのなかった赤子、そういったものが溢れ出てくる。
 そこに恐らく他者がいる。他者と自己は小さな別次元の穴で繋がっている。その小さな穴にのみ私たちは繋がれる。諦めていたことを取り戻す。生まれなかったものを生まれ直すのである。
 友人から吉増剛造さんの「詩とは何か」という本を借りている。内蔵言語と言う言葉がとても気に入った。フランシスベーコンの絵画に例えられるそれはまさに私の趣向である。内蔵をひっくりかえして、裏返しになってしまったような、そんな言葉、それは音楽でも良い、そう言ったものを紡ぎたい。詩より他、咽頭の奥からは現れない。そのように過ごしたい。
 摩多羅神という神がいる。忘れられた神仏習合の神である。常行堂という、お堂の後ろ戸に隠される秘神である。後ろ戸は決して表から見えることがない隠された扉である。決して人から見えない、そこに祀られる。
 能の「翁」という神とも精霊ともいえないナニカ、それも後ろ戸から現れる。とうとうたらりたらりら、意味を携えず、舞台に現れさっていく。音楽や言葉もそうではないだろうか。咽頭は外から見えない漆黒の闇である。そこから言葉は声として現れる。真っ暗な身体内部、声帯という後ろ戸から、意味を携えず現れ、去っていく。
我々はそれに意味を探す、どうとでも解釈は可能である。ただの空気の振動に、振動以上の何かを読み解く。そして私は貴方を知るのである。知ったつもりと、知り得ない畏れ。その両方を重ね合わせて、私たちは次の言葉を紡ぐのだ。どんな論理的な説明も、つまらない解説であっても、それは詩として以外の存在を許されない。我々に出来ることは詩を読み、詩を吐くことだけなのだ。
 世界は詩の総体である。スピノザが「神は絶対なのであれば、外部は存在しないはずである。ゆえに神はこの世界の総体としてしか語りえない。」と言ったように。全ての認識が詩を読むような、例え、比喩であるならば、この世界は詩として認識するしかない。それを美しいと思えるかどうか。人に許された自由とはそこにのみあるのではないか。詩を読めるか読めないか、そこにのみ私たちの差異はあるのではないか。それが私の今思うところである。
 友人に借りた本には折り目がつけてあり、大事だと思った部分に線が引いてある。それをなぞる時に、何かエロティシズムを感じる。とても面白い。私は誰かの内蔵を撫でて、触れて、そして、それにさらに折り目をつけたいようである。友人の大事だと思ったこと、それはまさに内蔵である。自らを規定する重要である。それは秘密と置き換えてもよい。人が人である身体、それは秘密という内部からなっているのである。まったく同じページに折り目をつけた時、それはまさにエロティックな瞬間のように感じる。これぞまさに。これぞまさに詩を読むということである。貴方と私を繋ぎ、解く、そういう力である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?