同居に必要なのは、愛だけではない

以前にも書いたかと思うが、私は就職し、上京してすぐ、寮に入った。採用が決まったあと、様々な書類のなかに、寮のお知らせがあり、新人で給与も低い私が都内の高い家賃で暮らすことは極めて難しいこと、両親も毎日細々と暮らしていて仕送りは無理なこと、都内に親戚がいないこと、諸々を考えると、残されているのは寮ぐらししかなかった。母からも、寮に入れないのであれば東京に就職させられないと、申し訳なさそうに何度も言われた。仕事は決まったのに、生活の基盤が決まらない、そんなところからのスタートだった。

案内には、2種類の女子寮があった。ひとつは完全に女性だけの住居で、一人一部屋、共同の場があるがおおむね自分だけで暮らし、寮母もいた。もうひとつは、家族寮をリフォームしたもので、こちらは同居人と過ごすことになる。いわゆる2Kという間取りで、当然、誰が同じ部屋になるのが事前に分からない。ただ、家族寮ゆえに常駐の管理人がいない。

母は、しきりに女子寮をすすめてきた。一人部屋で暮らす方が、同じ屋根の下にもうひとり誰かがいるより気楽だと考えたらしい。一理ある。生まれも育ちも、おそらく所属も違う誰かとの日常が、必ずしも安泰であるとは限らない。むしろ、空間を共有することで、性格の不一致などあり窮屈になるだろうことは想像にかたくない。
しかし私は、家族寮を選んだ。経験したことない一人暮らし、知らない土地での就職。しかも私はさほど体が丈夫ではない。ほかに人がいてくれたら、少しは安心な気がした。かてて加えて、最寄り駅には約一分。これほど条件のいい寮はない、私は親の心子知らずで、両親の懸念を押し切って家族寮に申し込んだ。

その寮は、鉄筋コンクリート造りだったが築年数がたち、見た目も古臭く地味だった。はなから期待していなかった私は、こんなもんかと納得しながら、引越し荷物を次々と運び入れた。東京での新しい生活をずっと反対してきた両親だったが、最低限ではあっても、電化製品や食器や家具を用意してくれて、感謝と、己の親不孝で申し訳ない気持ちでいっぱいだった。ごね続けていた父を説得してくれたのは、母だったらしい。「娘はいつか嫁にいく。親元を離れていくのだから、明良の好きにしてやろう」と。

まずはカーテンがいるだの、ベッドはどこに置こうかだの、悩んでいる時、同室になったお姉さんが挨拶にきてくれた。Maryのチョコレート一箱を頂いた。もうこの瞬間、私はお姉さんが大好きになった。優しそうで穏やかで、しかも美味しいチョコをくれた。きっとこの人となら、うまくやっていけると、根拠のない確信を持った。

女子寮経験のない方々には、どんな日々を想像するだろうか。仲良く、お喋りに花が咲いて、共に料理などを作り、夕食を一緒に食べる、そんなふわふわ可愛いものを頭に浮かべる人がいるかもしれない。ありがたいことに、私の部屋はそれに近く、親密な関係を築いていた。

だが、他の部屋は、といえば、ほとんどが揉めていた。最悪だった。歳も経験値も性格も異なる者同士、安らぎの場所であるはずの自室で、互いを異分子として認識していたのだ。いや、もっと強い嫌悪、時に悪意を持っていたのだ。それはもう、聞くだけでも「なぜ、そこまで...」という問題が、寮の友人から、もしくは噂でよく耳に入ってきた。

ある部屋では、お互いに話したくない、という理由で、言いたいことをドアに貼りつけて、会話を一切しなかったらしい。「音楽の音が大きいです」「男を連れ込まないでください」「今月の電話代が高かったので、計算しましたから、差額を払ってください」「戸は静かに閉めてください」等々。一事が万事、もっと些細なことまで、彼女の部屋では一方的に紙で伝達されたとのこと。男性にもそんなことがあるのかもしれないが、女性は往々にして、嫌った相手から限りなく距離を取りたがる。触れたくないのだ。顔も見たくないのだ。だからベタベタとドアに付箋を貼る。
またある部屋では、室内に電話は1台と決められていて、携帯電話のない時代だったので、どの部屋も通信手段はひとつしかなかったのだが、同室の方が電話のある台所で調理をしていて、終わったあと「連絡がきてるんだけど」と告げてきたから受話器を取ったら、もう切れていた、ということがあったそうだ。のちに確認したら、彼女の友人が電話を入れて、同室の人が取り、二十分以上も放置してから呼びにきたとのこと。当然、待たされた側は料金がかかるので途中で切断する。同居者になぜそんなことをしたかと尋ねたら「料理途中を見られたくなかったので、片付けていた」と。私はその話を聞いた時に、一瞬、意味がわからず絶句した。もしかしたら、とても大事な用件だったかもしれないのに、なぜ平然と他者を無下できるのか理解に苦しんだ。

いくら赤の他人であっても、そこまで感情が拗れるには、相応の理由があったのだろうが、嫌った者、嫌われた者、どちらの意見を聞いても、たしかにイライラするだろうが、話し合えなかったのかなと思う部分が多かった。
例えばトイレットペーパーの交換。ひとつのトイレを、二人で使うのだから、ペーパーが切れたらなくなる前に、気づいたどちらかが買って補充すればいい、私はそう考えるが、「同室の人がほとんどトイレットペーパーを買ってこない、いつも私が用意していて腹が立つ」と憤っていた方がいた。それはたしかに苛つくだろう。しかし、それを伝えるなり、二人でトイレットペーパーを準備しておこうと決めることはできなかったのかな、とも考えた。が、うまくいかない部屋には、それなりに経緯があった。多分、遠慮と善意が最初はあったはずで、けれど生活していくなかでの不満、不愉快を告げる間柄にもなくて、少しずつ嫌気だけが積もり積もってしまったのだろう。
例えば風呂。ひとりは長風呂で、ひとりはカラスの行水。ならばカラスの行水が先に入浴すればいいのに、他人が使った湯船が気持ち悪いからと、長風呂の方が争うように先に入る。当然、待たされるカラスの行水が、自分のペースを乱され続けて怒りを溜める。少し勿体ないが、お湯を入れ替えすれば解決しそうだが、どうもそのレベルでの擦り寄せは、とうに不可能だったようだ。
例えば、例えば、例えば。様々な「例えば」について、寮で親しかった方から愚痴を聞いたり、あるいは人づてに知ったことは、おおむね、日常の小さなことから不和が始まっていた。生活リズムの違いがほとんどだった。ある日、大喧嘩して断絶した関係は、あまりなかった。じわじわと、自分たちの心地よい日々が崩され、乱されていった結果だった。

私の部屋は、トイレットペーパーはいつの間にかどちらかが用意していたし、風呂は残業の少なめだった私が用意し、掃除は同室のお姉さんがやっていた。料理は台所が共用なので時間がかち合えば二人でやり、作ったものをそれぞれおすそ分けした。たまにお互いの部屋に行って、オススメの音楽など一緒に楽しみ、面白そうなイベントがあれば二人で出かけた。なにより、それぞれの部屋からでてきたら「おはよう」、戻る時は「おやすみ」と声をかけあっていた。
同室のお姉さんにも、私への悪感情は、なにかの瞬間に湧いていただろう。面倒だなと思われていた部分もあるかもしれない。ただ一方で、自分ができることは自分がやる、改善して欲しいことは対面で話す。同じ趣味があれば共有する。自然とだが家事の分担を決めている。それらが、私たちに快適とまでは言わずとも、平穏な時間をもたらしていたのだろう。

友情でも愛情でも、なにかしら思い入れがある相手とならば、同居・同棲はできるかもしれないが、私がそれを容易だと考えないのは、寮生活のせいだ。かつての女子寮での出来事は、知人でないのだから上手くいかなかった、という発想はない。関係が浅いので、むしろ当初は気を使っていたはずなのだ。口論や衝突を避けていたはずなのだ。
それでも数部屋は険悪になった。無視、無関心を超えた言動に疲弊していった。どこも、それぞれを疎ましくなった原因が、前述したように自分の思うような生活にならなかったためだ。自分だけ我慢している、自分ばかり損をしている、そういったマイナス思考が膨れに脹れた果てなのだろう。

これまでまったく違う生き方をしてきた者同士が、寝起きを共にする。それは、はじめは意気投合していても、幸運に浮かれていても、ふとした言動から亀裂が入ることもある。熱愛する恋人同士でも。仲の良い親友であっても。私は体験で知っている。人が、許せないと急に冷めるのは、案外と簡単であることも。

同居に必要なのは、愛だけではない。
暮らしでそれぞれの受け持ちがしっかりしている、寝る時間や起きる時間に大差がない、どちらか片方に負担をかけない、許容できる範囲のこだわりで留めておける、これらも重要だと考えている。
私は、今でもその思想を正しいと信じている。


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