眼鏡と共に歩く
私は最近、眼鏡を壊した。それも立て続けに、2本。
1本目は、遠視という名の老眼のせいで、手元が見づらくなり、裸眼でスマホを見ていた時、すぐ近くにあった眼鏡に肘が乗っかり、アームが折れた。それはもう、見事にばっきり吹っ飛んだ。
もう1本は、アームが歪んでるので、よせばいいのに自分で直そうとし、力が入りすぎてアームを折った。こちらも、とても直せそうもない有様だった。
自分のせいだ。迂闊さだ。言い訳のしようもない。
だが、この出来事で私は、途端に窮地に立たされた。実際、急性胃炎になり、心身の調子を崩した。念の為にと3本、手元にあった眼鏡のうち、最も古く、視力が少し良かった時の、つまり今ではかなり見えにくい、予備の予備だけが無事だったのだ。
心理的にも物理的にも、非常に困った。それはもう慌てた。尋常ではないくらいに狼狽えた。私に眼鏡は必需品だ。最後の1本まで壊してしまったのなら、もうなにもできない。大袈裟に思われるかもしれないが、私は眼鏡がないと生きていけない。
ちなみに、視力はだいたい0.05。人に説明する際は、「よく視力検査で、黒い丸のどこに穴が空いていますか、と問われますが、私は1番上すら分かりません」と言う。割と驚かれる。同じように目が悪い人には、共感されるだろうが、眼鏡を取った途端、私の視界はかすみ、顔のすぐ近くでようやく世界がはっきりする。つまり、常にホワイトアウトしてるようなものだ。
当然、車も自転車も運転は無理。電車も危険だ。徒歩すらおぼつかない。足元が分からない。段差で転ぶか、電柱にぶつかる。パソコン作業に至っては、机と椅子の距離があるだけで、もう見えなくなる。この世のすべてが歪み、霧がかり、まともに生活していけないのだ。
「コンタクトにはしないの?」
時々、アドバイスされることもあるが、もちろん試した。頑張ってみた。けれど、ドライアイの私には、ハードはゴロゴロして目が痛くなり、ソフトは張りついて目が痛くなる。どちらにしても、目が痛くなる。
若い頃は、母から「社会人の娘が眼鏡をしていたら、野暮ったいわよ」との指摘があり、なんとか我慢をしつつのコンタクトだったが、家に帰れば外して眼鏡をかける。最終的に、眼鏡に落ち着くのだったら、最初から眼鏡でいいじゃない、と思うようになったのは、たしか20代前半だった。
そして私の記憶通りならば、かれこれ中学二年生の頃から、眼鏡にお世話になっている。若干の乱視と、進んでいく近視。前の方に座席があっても、黒板が見えない。-が=になる。文字もぼやけて読めない。夜空を見上げたら月が二重になる。そんな有様で、つつがなく暮らしていけるはずもない。仕方がなく、眼鏡で視力矯正をし、以降、私は寝る時とお風呂以外は、ずっと眼鏡をかけている。
また、私が眼鏡にこだわるのは、他にも理由がある。自分に似合うフレームをかければ、ちょっとお洒落な気がするからだ。
オーバル・スクエア・ウェリントン諸々。色々な形があり、色がある。輪郭に馴染む眼鏡を手に入れると、それだけで上機嫌だ。丸顔もなんとなく隠せてしまう。瞳がレンズのせいで、他者からは小さくなるが、それ以上に眼鏡は、衣服のように私を彩ってくれる。
アイメイクも、あまりしなくていい気がしている。なにしろ顔のど真ん中に、メガネフレームが陣取っているのだ。人はおそらく、そちらに注目する。
メイクの上手な方ならば、眼鏡をかけても印象的な目元に仕上げられるだろうが、私はその辺は疎い。上手くない。張り切ってアイラインやアイシャドウ、マスカラなどを使ってみても、目だけやたらと濃くなる。コンタクトならばまだしも、メイクしてる最中は、ほとんど視界が塞がれているのだ、ぼんやりした手元では、どうしたって変になる。
今回、私は急いで、眼鏡を2本新調した。今までは、メイン・予備・予備の予備だったが、遠くを見る用・近くを見る用・予備、という使い方に分けた。
どうやら私は、疲れないレベルで矯正をすると、0.9までがギリギリで、それ以上になると負担が増してしまうそうなのだ。
フレームの重み、レンズの重み、それに加えての調整した視力、どれもがバランスよくするには、2本必要なのだと説明を受けた。
だったら遠近両用にらしたらいい。私もそう考えていたし、そのつもりでいた。相談もしてみた。結果、視野が狭くなるし、遠近両用にしたからといって0.9の壁を越えられる訳でもないし、慣れるまでひどく疲れるだろう、とのことだった。
それは、眼鏡屋さんが2本、商品を売りたいからでは?と思われるかもしれないが、実は私は、焦りすぎて別々の眼鏡屋で誂えた。1週間後に納品となるものが待ちきれず、1日で受け渡してもらえるものも選んだ。
そして1本目が出来上がってから、先にお願いしていた眼鏡屋さんに聞いたところ、今かけている眼鏡は少し遠くが見えるが、近くは見えずらいはずで、そうなると一段階ランクを落としたレンズがいい、とアドバイス頂き、急遽、また作り直してもらったのだ。
はなから2本、用意するつもりだった私は、ならば家用と職場用にしよう、と決めた。これなら、いずれ2本それぞれの予備として、違う眼鏡を買いにいける、と変に前向きにもなった。
眼鏡が好きで、大好きで、あればあるだけいいと夢中になっていて、けれど必要がなければなかなか発注しない、そんな私は、屁理屈でも新しい眼鏡を手に入れられる根拠ができたので、とても嬉しい。ワクワクしている。決して安いものではないが、自分から切っても切れない縁なのだから、楽しんだもの勝ちだ。素直に喜べばいい。
まるで着替えるように、化粧をするように、眼鏡を変えれば、私はクールにもカジュアルにもなれる。もしかしたら、この歳でキュートにだってなれるかもしれない。可能性は無限大だ。
眼鏡に関して、思い出深い逸話がある。Xにも書いたが、昔、同じように強めの近視だった幼なじみが、ある日、こう呟いた。忘れられない言葉だ。
「見たくないものは、眼鏡を外せばまったく見えなくなる。そのくらいが丁度いいの」
単純かもしれない。安易かもしれない。そんなことで、悩みや苦しみは消えないと知っている。
だけど、お気に入りの眼鏡をかけて、嫌な気分になったらちょっと外して、そうやって二人三脚で眼鏡と歩んでいく。そんな生き方も、まんざらではない。少なくとも、私は気楽になれるのだ。
今度は、新しくやってきた、2本の仲間と共に。